第41章 長野の雪山
仕事で各地を飛び回る生活は続いていた。
直樹の担当エリアは岩手、宮城、仙台、福島。僕たちはそれぞれ忙しく仕事をこなしながらも、予定を合わせてはスノーボードを楽しんでいた。
平日は仕事を猛スピードで終わらせてゲレンデに飛び出し、土日は長野のペンションやコテージで待ち合わせて、泊まりがけでボードを楽しむ。
時には、一週間分の仕事をわずか三日で終わらせ、残りの時間をすべてスノーボードにつぎ込むこともあった。
本当に最高の仕事であり、最高の青春だった。
直樹にも彼女ができたようで、ゲレンデでナンパすることにも興味がなくなっていた。
今回は、美咲が友達のさくらちゃんを誘い、四人での旅行となった。
事前に僕と直樹が美咲に声をかけた。
「次の出張の時、長野にボードしにおいでや! 誰か誘って! 電車やけど」
「いくいくいく!」
美咲は即答だった。
こうしてさくらちゃんも参加することになり、僕と直樹は今回も仕事を早く終わらせることにした。
仕事ショートカットコース、秘技!
「七日間の仕事を三日で終わらせる作戦」
そんな無茶な作戦を決行し、僕たちは今、長野のコテージで鍋を囲んでいた。
「あーッ! ダー、それ私の狙ってた肉ーーっ!」
美咲が鍋の端を指さしながら、キーキー騒いでいる。
「早い者勝ちや! ほら、美咲にはこのうまい豆腐をやろう」
「いらんわそんなん! 肉! お肉頂戴っ!」
「はいはい(笑)。みー、これあげるから」
苦笑いしながらさくらちゃんが肉を分けてあげると、美咲は一瞬でご機嫌になった。
「さくらちゃん大好きー!」
そして、もらった肉を頬張る。
そんな美咲たちのにぎやかな様子を、直樹は温かい目で見守っていた。
五年の年月が経っても、僕たちの距離感と、この居心地のよさは何一つ変わっていなかった。
このコテージは二階建てで、二階には寝室が二つあり、それぞれの部屋にベッドが二つずつ置かれていた。一階にはトイレ、風呂、キッチン、リビング、ダイニングがあり、暖炉とソファーセットも備えられていた。
かなり広い造りだったが、鍋の熱気と暖房で、部屋の中は蒸し風呂のように暑くなっていた。
そこで、リビングから玄関につながる廊下のドアをしばらく開けておくことにした。ひんやりとした空気が入ってきて、ちょうどいい具合になった。
なんとか鍋の争奪戦も終わり、僕たちはコーヒーやジュースを飲みながらテレビを見ていた。
テレビでは、お笑い芸人の岡村隆史が「お笑いストラックアウト」に挑戦していた。それを見ながら、みんなで大爆笑。
そんな時間を過ごしているうちに、時刻はもう二十三時になっていた。全員、風呂も済ませて寝る準備は万端だった。
しかし……。
なにやら、どこからか異臭がする。
最初に気づいたのは直樹だった。
「なんかにおえへん?」
首をかしげる直樹に、さくらちゃんも反応した。
「うん……なんかくさい……」
僕も鼻をひくつかせた。
「何この匂い……?」
美咲も「なんかやな匂い……」と言い、四人はそれぞれ周辺を嗅ぎ回り始めた。
リビング、ダイニング、キッチンではない。
廊下か?
僕は寒い廊下を進み、匂いをたどっていった。進むにつれて、だんだん匂いがきつくなっていく。
玄関までたどり着くと、そこにはスノーボードのブーツが並んでいた。
もしや……。
一つずつ匂いを確かめていく。
直樹のものではない。さくらちゃんのものでもない。
まさか、僕のか!?
恐る恐る自分のブーツの匂いを嗅いでみたが、セーフだった。
残るは……美咲のブーツだ。
美咲のブーツだけ、少し離れたところに置かれていた。僕は手を伸ばして、それを取った。
その瞬間!
ブーツが動いた衝撃からなのか、強烈な異臭が放たれた!
これはやばい!
殺人級だ! サリンレベル!?
僕はブーツを放り投げ、みんなを呼んだ。
直樹は距離を取りながら、引きつった顔でブーツを眺めている。
「これか……異臭の原因は」
さくらちゃんが美咲に尋ねた。
「なんでこんなに臭いん?」
美咲は「え〜、そんなに臭いかなぁ〜」と言いながら、ブーツを拾い上げた。
そして、あろうことか、ブーツの中に直接鼻を突っ込んだ。
次の瞬間。
「くさっ!!」
悲鳴を上げた美咲は、ブーツを思い切り投げた!
壁に当たって跳ね返ったブーツがさくらちゃんに向かって転がっていく。
すると、横から直樹がサッカーボールのように蹴り飛ばした。
ブーツは床に激しく落ちた。
美咲は悲しそうな顔をしている。
「わ……私の……ブーツが……」
だが、これはもうブーツではない。人命に関わる重大な問題かもしれない。
僕は意を決して玄関のドアを開けた。
冷たい吹雪が一気に部屋の中へ押し寄せてくる。
しかし、背に腹は代えられない!
僕は思い切って、二つのブーツを玄関の外へ蹴り出した。そして、素早くドアを閉めた。
一斉に安堵のため息が漏れた。
美咲以外は。
さくらちゃんが、キョロキョロとみんなを見回した。
「ブーツ、あのままにしとくの?」
僕は答えた。
「仕方がない……あれは、危険物や」
すると美咲が噛みついてきた。
「なんで! なんで私のブーツが危険物なんよ〜! かわいそうやん!」
だが、直樹が間髪入れずに一言。
「だってあれ、くっさいやん」
美咲はむくれ顔で反論した。
「たしかに臭かった……でも! あんな蹴り飛ばさんでも……」
僕は真顔で美咲の両肩をガシッとつかんだ。
「美咲! しっかりしろ! あれはもうブーツちゃう! ブーツという名の危険物や! ……だから、あきらめろ」
それを横で見ていたさくらちゃんが吹き出した。
美咲も呆れ半分、半笑いで言い返す。
「なんでやねん! ただ蹴り飛ばしたかっただけやろ!!」
とにかく、危険物の処理は終わった。
僕たちはリビングに戻った。
さくらちゃんが、美咲に直球の質問をぶつける。
「しかし・・なんであんな臭いん?」
美咲は真顔で答えた。
「わからん……久々に倉庫から出してきただけやのに……」
僕は思わず吹き出した。
「倉庫から出してきただけで、あんな匂いにならんやろ!」
続いて直樹も大爆笑しながら言った。
「みー! あれはひどい! ひどいよ! 臭すぎる(笑)」
すると今度は、さくらちゃんが四つんばいになって美咲の足元に近づき、直接足の匂いを嗅ぎ始めた!
美咲はすかさずツッコミを入れる。
「みーはくさなーい!」
じゃあ、あの劇物の原因は一体何なのか。
そんなアホなやり取りが、さらに数分間続いた。
笑い疲れた僕たちは、翌朝も滑る予定があるため、ようやく眠ることにした。
僕と直樹が同じ部屋、美咲とさくらちゃんが別の部屋で寝ることになった。
寝始めて二時間ほど経った頃だろうか。
部屋の扉が、そ〜っと開いた。
直樹を起こさないように静かに忍び寄ってくる人影。
美咲だった。
僕の布団の中にすーっと潜り込んできた美咲は、小さな声で言った。
「きた」
暗闇の中で目をキラキラと輝かせ、僕を見つめている。
そして、ゆっくりと唇を重ねてきた。
僕も抵抗するはずがなかった。
美咲を力強く抱きしめると、重なるキスは次第に熱く、激しくなっていった。
その時だった。
「お前ら……寝るのはいいけど静かにしてくれよ……」
隣のベッドから、直樹の寝ぼけたような、呆れたような声が聞こえてきた!
僕と美咲は抱き合ったまま顔を見合わせ、一瞬動きを止めた。
だが、かまうもんか……。
そう思い、僕たちは再び熱い口づけを交わした。
さすがに直樹の目もあるので、それ以上のことはできなかった。それでも、美咲の温もりが心地よく、胸が熱くなった。
翌朝。
目を覚ますと、昨夜の激しい吹雪が嘘のようにやみ、澄み渡る青空が広がっていた。
コテージを出てゲレンデへ向かうと、そこにはどこまでも続く真っ白な銀世界が広がっていた。
美咲は昨夜の「危険物ブーツ」を、ファブリーズと乾燥でなんとか応急処置していた。まだ少し怪しかったが、ウェアに身を包み、意気揚々とゲレンデに立っていた。
「うわぁぁぁッ! めっちゃキレイ! 最高の天気やん!」
美咲とさくらちゃんが、大はしゃぎで声を上げる。
ゲレンデには朝早くから多くのボーダーやスキーヤーが集まり、色鮮やかなウェアが雪の上を滑り降りていく。リフト乗り場の方からは、ノリのいい冬のヒット曲が大音量で流れていた。
スキー場ならではの高揚感に包まれていた。
「よし! じゃあ足慣らしに一発、上から滑り降りるか!」
僕がボードを片手に声をかけると、直樹が笑った。
「おっしゃ、勝負な!」
美咲とさくらちゃんは
「待ってい!」と言うが構わづに行く。
この数年で、美咲も普通に滑れるようになっていた。二人で何度もボードに通っていたからだ。
頂上からでも、時間はかかるが、なんとか一人で下までたどり着けるレベルにはなっていた。
リフトが山頂に到着すると、美咲はコースの端に寄り、雪の上にドカッと座り込んだ。そして、自分のペースでビンディングをカチ、カチと慎重に締め始めた。
僕はボードに足を固定し終え、少し離れたところから、そんな美咲を温かい目で見守っていた。
そんな僕たちの空気などお構いなしに、直樹が声を上げた。
「先行っとくから! じゃ!」
直樹は勢いよく滑り出した。
続いてさくらちゃんも笑顔で言った。
「下で待ってるから! お先に〜!」
そして、スムーズに滑り降りていった。
美咲はまだ必死な顔で、慎重にビンディングを締めている。
そんな、ちょっとのろまな美咲のバタバタした姿を見ていると、愛おしくて、かわいくて仕方がなかった。
今すぐ抱きしめたくなる。
そんな僕の視線に気づいているのか、いないのか。
「よし!」
美咲は気合の声を上げて立ち上がった。
「ダー! 見てて! わたしのこれまでの集大成を!」
誇らしげに叫ぶと、木の葉滑りで大きな弧を描きながら滑り始めた。
(お……大分上達したな……)
思いのほかスムーズに滑る姿に感心した。
「とりあえず、そのままできるだけ下まで降りて〜! すぐ追いつくから!」
僕は声を張り上げ、美咲が懸命に滑っていく後ろ姿をしばらく眺めていた。
途中、バランスを崩して二回ほど派手に転びながらも、三百メートルほど進んだだろうか。
「とりあえず追いつくか」
そう思い、僕も滑り出した。
一気に加速して風を切り、あっという間に美咲の真横に滑りついた。
美咲は息を弾ませながら、目をキラキラさせて聞いてきた。
「どう? 見た見た?? チャレンジ成功やろ!?」
「見たよ! だいぶ上手くなった! すごいすごい!」
心からの褒め言葉を素直に伝えてあげると、美咲は歓喜の声を上げた。
「やったぁぁっ!」
そして、勢い余って僕の身体に全力で抱きついてきた。
当然、耐えられるはずもない。
僕と美咲は抱き合ったまま、豪快にパウダースノーの中へ倒れ込んだ。
舞い散る雪の中、倒れ込んだまま美咲は僕の目をじっと見つめて言った。
「だ〜〜いすき!」
その屈託のない笑顔があまりにもかわいくて、胸の奥がギュッと熱くなった。
「おれもすきやで」
短く、でもまっすぐに返した。
二人で雪まみれになりながら手を取り合って立ち上がり、ウェアについた粉雪を払う。
そこからは、直樹たちに追いつくことも忘れて、二人でゆっくりと滑り降りていった。
抜けるような青空の下、美咲の歩調に合わせて速度を調整しながら、並んでシュプールを描いていく。
時折、美咲が「ダー、見てー!」と手を振る。
ちょっとした斜面では、へっぴり腰になりながらも一生懸命にバランスを取る。その姿に笑い合いながら、広い銀世界を二人のペースで進んでいった。
遠くに見える連峰の景色。雪を踏みしめるボードの音。そして、隣で楽しそうにはしゃぐ美咲の笑い声。
五年の歳月を重ねてきたからこそ味わえる、言葉にしなくても伝わる愛おしさと穏やかな幸せが、真っ白な世界に広がっていた。




