第35章 説明して!
「春を重ねて恋になる」って、何かで聞いたことがある。
あれから美咲とは、いくつの春を重ねただろうか。
もう、四回は重ねている。
同時に、美咲の手帳に記されたハートマークも、本人ですら把握できないくらいの回数になっていた。
季節は繰り返し移り変わり、周りの状況もめまぐるしく変わっていった。
それでも、美咲との関係は相変わらず順調だった。
たまに喧嘩をする日もあったが、次の日にはどちらかが折れ、すぐにラブラブな二人に戻っていた。
横須賀で出会った健太さんが言っていたとおりだった。
「喧嘩は、どっちかが折れないと終わらないよ」
あの言葉は、今でも僕たちの役に立っている。
健太さんは、あれからどうしたんだろうか。
元気にしていたらいいのだが……。
僕自身にも、最近変化があった。
今は親父の会社で働いている。
仕事内容は、思っていた以上に大変だった。
昔、親父が出張ばかりで家に帰ってこなかった理由が、ようやく分かった気がした。
以前にも少し話したが、親父の会社は加除式法規出版社だった。
全国の市町村や一般企業、主に法律関係の会社に、うちの本が置かれている。
法律が改正されると、それまでの本は古くなってしまう。そこで、改正された部分のページだけを新しいものに差し替えるのだ。
アナログ式ではあるが、画期的な仕組みだった。
そのため、書籍はすべて、ページを抜き差しできる紐綴じ式かバインダー式になっている。
そのページの入れ替え作業を、業界では「差し替え」と呼んでいた。
全国各地に点在するお客さんのところへ車で出向き、その作業をするのが僕の仕事だった。
一度出張に出ると、二、三週間は戻れないことも珍しくなかった。
そんな日々でも、美咲との電話は毎日続いていた。
美咲も働き始めていたので、僕が大阪に帰っている間は、仕事が終わる時間に職場まで迎えに行き、一緒に帰る。
いつの間にか、そんな生活のリズムができあがっていた。
そして、僕が出張に出るたびに、美咲は決まってカセットテープを作って持たせてくれた。
これも、いつしか出張前の恒例行事になっていた。
会えない寂しさは、電話やカセットテープで埋めていた。
けれど、毎日電話で話しているからといって、離れている間の不安がなくなるわけではなかった。
もし、美咲に好きな人ができたらどうしよう。
会える日が少ないからと、別れようと言われたらどうしよう。
そんなことを考えながら、日々を過ごしていた。
そんなある日のことだった。
僕が出張で山形に行っていた時、電話で美咲から、こんなことを聞かれた。
「明日、友達と飲みに行ってくるから、電話遅くなるかもやけど、いい?」
いいも何も……。
ダメという選択肢はあるのか?
そう思いながらも、渋々「いいよ」と答えるしかなかった。
しかし、ここで昔の探偵時代の勘が働いた。
(これは、もしかして……飲み会という名のコンパ? 合コンではないのか??)
友達と飲みに行く。
確かに、美咲には女友達もいると思う。
だが、そのほかにも誰かいるのではないか?
そして、その中には男という忌々しい生き物がいるのでは……?
もし男がいるなら、それはもはや合コンだ!
僕からしたら、浮気だ!
……自分のこれまでの行いは棚に上げて、よく言ったものである。
それでも、気になって仕方がなかった。
そこで僕は、一人の刺客を送り込むことにした。
そう、美咲の尾行調査だ!
僕が選んだのは、中学時代からの同級生、藤田だった。
こいつはバカだが、僕の手足となって働いてくれる。
見た目は凶悪犯のような、強面の男だ。しかし、根は優しいやつだった。
ただ、一つ問題があった。
藤田は、以前に一度、美咲と顔を合わせているのだ。
……まあ、一回だけだ。
覚えていないだろう。
僕は、そこまで深く考えなかった。
藤田に美咲を尾行させ、もし合コンだったら、それはもう大事件だ!
僕自身、これまでに何度も合コンに参加してきたが、男どもは女の子を口説くことしか考えていないやつらばかりだった。
「その場だけ楽しければいいよね〜」という人間も、絶対にいない!
美咲は、ただでさえ世間知らずだ。
そんな男どもの格好の餌食になってしまう。
男の気持ちは、男が一番よく分かる。
「彼氏いるの?」は、「俺はどう?」
「連絡先教えて」は、「今度やらせて」
「あそぼうよ〜」も、「やらせて」
「どこ行く?」は、「ホテル行こ」
「かわいいね〜」は、「やりたいなぁ〜」
そして、「一人暮らし?」と聞いてくる男に至っては、送っていって、そのまま何とかしようと考えている。
……まあ、男なんてこんなことばかり考えている。
少なくとも、当時の僕は本気でそう思っていた。
そして当日。
藤田には、自宅から美咲を尾行してもらうことにした。
藤田「まじで? ひとりで? 見られたらどうすんねん?」
……お前、尾行しに行ったんちゃうんか。
「いけ! 見つからんように!」
藤田「見つからんようにって……どうすんねん……」
電話の向こうから、明らかに困り果てた声が聞こえてくる。
顔はあんなにイカツイのに、やっていることは不審者になる直前の一般人である。
……人選ミスやったか。
いや、まだ間に合う。ここは冷静に指示を出そう。
「とりあえず、一人で入れ。店の様子を確認しながらトイレに直行しろ! で、トイレから報告しろ!」
探偵時代にも使っていた方法だ。これなら、うまくいくはずだ。
藤田「おぉ! わかった!」
急に頼もしい返事が返ってきた。
……本当に分かっているのだろうか。
電話が切れた。
待つ。
……遅い。
店の中を見て、トイレに行って、電話をかける。それだけなら、どんなに大きな店でも二分もかからないはずだ。
まさか、トイレで用を足しているのか?
いや、そんなことはどうでもいい。
……やっぱり人選ミスやったか。
そう思った瞬間、ようやく電話が鳴った。
藤田「あ〜、もしもし? ちょっと予測不能の事態が起きてしまって……」
予測不能?
その言葉を聞いた瞬間、嫌な予感がした。
「なに? どうしてん?」
すると、電話の向こうから、藤田とは別の声が聞こえてきた。
……ん?
会話している。
藤田と、美咲が。
ちょっと待て。
尾行というのは、相手に気づかれずに行動を確認するものではなかったか?
調査対象者と会話する調査員がどこにいる。
いや、藤田は調査員ではない。
……そこは問題じゃない!
「おい!」
思わず電話に向かって怒鳴った。
その瞬間、聞き覚えのある声がした。
美咲「もしもし? ダー??」
心臓が止まりそうになった。
……終わった。
何がどうなったのか分からないが、終わった。
美咲「どうしたん?」
どうしたん?
どうしたんって……。
こっちが聞きたいわ!
なぜ藤田と美咲が会話しているのか。なぜ僕の電話に美咲が出ているのか。そもそも藤田は何をしに店へ入ったのか。
僕の頭の中で、疑問が一斉に走り出した。
私は、頭の中に散在する過去の記憶を遡及的に検証し、錯綜する事象の相互関係を紐解きながら、断片化した情報の再構成を試みる。記憶の彼方に埋没した些細な言動にまで意識を向け、当時の心理的背景や状況的要因を多角的に照合し、複雑に絡み合った思考の糸を丹念に解きほぐしていく……。
……って、ここまでは考えていない。
しかし、考えた。
つまり、もう僕の尾行はバレている。
あとは、なぜ藤田のバカがそこにいるのか、という問題だ。
そして、肝心の合コンかどうかの報告は、まだ受けていない。
……いや、もうそんなことを気にしている場合じゃない。
藤田の電話は、すでに敵の手中にある。
「藤田に代われ」とも言えない。
どうする?
どうする、僕?
……もう一か八かだ。
僕は覚悟を決めた。
「お前……合コンしてるやろ!」
美咲「だれが? どうしたん? 尾行してたん?」
……おー!
してたさ!
してやったさ!
家からつけ回してやったさ!
なにか文句ありますかっ!
……と、言いたかった。
だが、口にする前に藤田が割り込んできた。
藤田「美咲ちゃん、なんか女友達五人の女子会?……」
おい。
お前、今、誰に何を聞いている?
藤田は一度、電話から耳を離した。どうやら、美咲と直接話しているらしい。
そして、再び電話に戻ってきた。
藤田「女子会じゃなく、大学時代のサークルの集まりらしいで!」
……は?
いやいやいや。
女子会だろうが、大学時代のサークルだろうが、そんなことはどうでもいい!
合コンじゃなかったら、それでいいんだ!
それよりも問題なのは、なぜお前が調査対象者に直接聞いているんだ!
……いや、だから、あいつは調査員じゃない。
分かっている。
分かっているけど、そういう問題じゃない!
その時、再び美咲の声がした。
美咲「ダ〜、藤田君に私のこと尾行させたんやって?」
オーーーーーマイガーーーー!
あいつ、藤田のやつ、寝返りやがった!
いや、寝返ったというより、最初から味方として機能していなかった!
知らん顔して逃げ切れよ!
あのバカ!
……くっ!
僕は、何も言わずに電話を切った。
逃げた。
完全に逃げた。
電話を切る以外、僕に残された選択肢はなかった。
藤田との電話を切ってから、十分ほど経った頃だった。
再び、藤田から電話がかかってきた。
開口一番、
「ごめんごめん!」
……ごめんごめん、じゃない。
もう、どうでもよかった。
すべてバレてしまったのだ。
しかも、女子会だか大学時代のサークルの集まりだか知らないが、結局、合コンではなかった。
そこは安心した。
安心はしたのだが、それ以上に大きな問題が残っていた。
美咲への、どうしようもない罪悪感。
藤田を奈落の底に突き落としてやりたいほどの怒り。
そして、何よりも恥ずかしい。
美咲は、僕のことをどう思うだろうか。
自分のことを信じてくれなかった彼氏を、どう思うだろうか……。
藤田は何かを話し続けていたが、何を言っていたのか、まったく覚えていない。
ただ、美咲がみんなに、
「彼氏が心配してるみたいやから帰るわ」
と言って、すぐに藤田と一緒に店を出て帰ったらしい。
……いや、待て。
彼氏が心配しているから帰る?
それを聞いて、僕は少しだけ救われた気がした。
だが、同時に胸が痛んだ。
心配しているから帰ると言ってくれるような彼女を、僕は疑ってしまったのだ。
藤田が、
「どうする? 帰ったみたいやけど、まだ尾行する?」
と聞いてきた。
……お前、まだ続ける気やったんか。
「だまれ。はげ」
そう言って、僕は電話を切った。
それ以来、藤田から電話がかかってくることはなかった。
……賢明な判断だと思う。
僕は山形のビジネスホテルのベッドに倒れ込み、しばらく動けなかった。
どうしよう……。
これから、どうすればいいんだ。
思いっきり尾行してしまった。
尾行された側からすれば、たまったものではない。
こっちから電話して謝るべきか?
いや、明らかに悪いのは僕だ。
僕が美咲のことをもっと信じていれば、こんなことにはならなかった。
そういえば、店長も言っていた。
「許し合う事も大切だけど、信じあう事も大切だよ」
……あの時、もっと真剣に考えておけばよかった。
美咲は許してくれるだろうか。
今日、電話はかかってくるだろうか……。
結局、僕から電話をかける勇気はなかった。
そして、美咲からも電話はかかってこなかった。
こんなことは初めてだった。
横須賀から帰ってきて、付き合い始めてからもう四年ほどになる。
それなのに、話さなかった日は一日もなかった。
それが、今日はない。
なんだか……すべてを失った気がした。
店長の言葉が、何度も頭の中をよぎった。
どうして、もっと早く思い出さなかったんだろう。
後悔ばかりが押し寄せてきて、その日は一睡もできなかった。
翌朝、山形のホテルを出てからも、僕はずっと携帯電話を気にしていた。
得意先を回っていても、まったく仕事に身が入らない。
電話が鳴るたびに期待して、違うと分かるたびに落胆する。
もう、泣きそうだった。
そして、その日の夜。
ついに、美咲から着信が入った。
……来た!
いや、喜んでいる場合じゃない。
恐る恐る電話に出ると、受話器の向こうから、たった一言。
「説明して!」
……ですよね。
「あのですね……なんと申しますか……お怒りになられてますでしょうか……?」
自分でも情けなくなるほど、弱々しい声だった。
美咲は、怒気を含んだ声で言った。
「腹立って、ダーが作ってくれた飛行機、壁に投げつけて壊したったわ!」
……え?
僕が作った飛行機。
横須賀での思い出が詰まった、あの飛行機だ。
そこまで怒っていたのか……。
僕は、絶望しかけた。
その時だった。
「でも、接着剤でつけて直したけど……」
……直した?
壊したけど、直した?
絶望のどん底に、一筋の光が差し込んだ気がした。
いや、まだ安心するのは早い。
美咲は続けた。
「なんであんなことしたん?」
「いや……心配で……。探偵やってたから、つい人を疑ってしまうというか……」
その時、初めて探偵時代の先輩が言っていた言葉の意味が、骨身に染みて分かった。
確かに、あの仕事を始めてから、僕は何に対しても無条件に人を信じることができなくなっていた。
疑うことが仕事だった。
相手の言葉をそのまま信じず、裏を読み、隠された事実を探る。
そんなことを繰り返しているうちに、いつの間にか、仕事とプライベートの区別がつかなくなっていたのかもしれない。
美咲は、呆れたように言った。
「もう完全に職業病やな……狂ってるわ! 私の事信じれんとか!」
……その通りだ。
美咲は、僕が世界で一番信じなければいけない存在なのに。
僕は心から、
「ごめん……」
と謝った。
受話器の向こうで、少しだけ沈黙が流れた。
そして、美咲が言った。
「……まあ、それだけみーのことが好きでたまらんねやな?」
「……うん」
僕は素直にそう答えた。
昔の僕なら、格好をつけて絶対に言えなかった言葉だ。
でも、今は本当にそう思っていた。
すると美咲は、
「そんなに好きなんやったら、許したるわ」
と言ってくれた。
「まじ!?」
思わず声が大きくなった。
暗闇の中に一気に太陽が昇ってきたような、長いトンネルをようやく抜け出せたような感覚だった。
そして、美咲はいつもの調子で言った。
「ゲロマジ」
……ああ、よかった。
本当によかった。
僕は、心の底からそう思った。
あれから数日。
山形から大阪へ無事に帰り、僕は今、いつものように美咲の職場へ車で迎えに向かっている。
四ツ橋筋から西区京町堀のオフィス街へ入っていく。
街灯の光が濡れたアスファルトを照らし、オフィスビルの窓からは、ぽつぽつと残業の明かりが漏れていた。
公園の街路樹の葉が夜風に揺れる。
いつものビルの前で車を停めると、助手席のドアが開き、美咲が乗り込んできた。
「ダー! お疲れ様〜!」
車内に、いつもの甘いシャンプーの香りが広がった。
数日前には失いかけた、この当たり前の光景。
今は、涙が出そうになるくらい愛おしかった。
「お疲れさん、乗って」
車はゆっくりと走り出し、なにわ筋を越えて北浜・中之島方面へと向かった。
大阪弁護士会館が近づくと、堂島川と土佐堀川に挟まれた中之島の夜景が広がっていく。
水面にはオフィスビルの青白い光が映り、橋を渡るたびに、川面がきらきらと揺れた。
「ねぇ、ダー」
助手席でシートベルトを締めながら、美咲がふっと横顔を見せた。
「なに?」
「やっぱり、車で迎えに来てもらうん、一番好きやわ」
「……当たり前やん。俺も迎えに来るんが日課になってるしな」
なにわ橋を越え、車を走らせながら、僕はそっと左手を伸ばし、美咲の手に重ねた。
美咲はくすっと笑い、その手をぎゅっと握り返してくれた。
車内には、美咲が作ってくれたカセットテープから、DEENの『君がいない holiday』が流れていた。
すると美咲が、ふと口を開いた。
「あっ! この曲! ……私とダーみたいやねんな……だから好き」
僕が「どこが?」と聞くと美咲は「ダー休みの日も平日もずっとみーと会ってるくれてるから!」
僕は、握った手に少しだけ力を込めた。
もう二度と、この手を離したりしない。
夜の大阪の街並みの中、僕らの車は二人だけの温かな空間を乗せて、ゆっくりと帰路へ向かっていた。




