第34章 初詣と駆け落ちの約束
ピーンと肌を刺すような凛とした冷気が、部屋のわずかな隙間から忍び込んでいた。
カーテンを開けると、雲ひとつない澄み切った冬の青空から、生まれたてのまばこころ初日の出の光が差し込み、部屋全体を暖かく包み込んでいく。
いきなりバイクを買うと言い訳をして美咲から逃げるために横須賀へ飛び出し、怒濤のような日々を駆け抜けて迎えた、新しい年。
昨夜はカウントダウンが終わったあとも美咲と長電話をしてしまい、少し眠気は残っていたけれど、胸の中にはこれまでにない清々しい高揚感が満ちていた。
横須賀での激動の半年間を経て、無事に地元・大阪へ帰ってきた。
そして、あの運命の公園での再会から、先月の実家での賑やかな大騒動を経て、僕は新しい年を二人だけで迎えるつもりだった。
だが、なぜかあのカレーの日から、美咲は頻繁にうちに来るようになっていた。
そして今日、新年の初詣にも、田島家の一人として一緒に参加していた。
(こいつ、自分の家の初詣とかないんか?)
そんなことを思いながら、僕は少し物寂しく歩いていた。
美咲は楽しそうにオカンと話しながら、僕の前を並んで歩いている。すぐ後ろには、オヤジと兄貴二人が歩いていた。
初詣は、うちでは毎年恒例だった。
でも、おそらくこれが最後になるだろう。
兄貴ももう限界っぽいし、僕だってもう限界だ。
何が楽しくて、家族で初詣に行かないといけないのだ。
周りを見渡すと、初詣客で賑わう境内には、仲睦まじく歩くカップルの姿が多かった。
僕もこのカップルたちに混ざって、二人きりで来る予定にしていたのに……。
美咲がオカンに、
「私も一緒に初詣行きたい!」
と言ったのがきっかけだった。
それならと、オヤジが、
「みんなで行こ!」
と言い出してしまい……。
兄貴たちも渋々、
「せっかく美咲が行くなら行ってやるか」
という雰囲気でついてきた。
そんな僕たち兄弟の冷めた気持ちなどつゆ知らず、美咲はめちゃくちゃ家族に溶け込んでいる。
前方から、元気な声が聞こえてきた。
「ダーー! おみくじしよ〜! おみくじ!!」
手を大きく振りながら、笑顔で手招きして呼んでくる。
やっぱり、こういうところに来ると、おみくじは恒例になってしまう。
そうして、家族との面倒くさい一連の工程もようやく終わった。
僕と美咲は僕の車に乗り込み、そのまま「アルペン」へと向かった。
アルペンとは、今で言う「スポーツデポ」のようなところだ。同じ企業グループの別ブランドの店舗である。
今週末、二人でスノーボードに行く予定をしていた。
美咲は初心者なので、ボード自体は現地でレンタルするとして、ウェアやゴーグル、手袋などの小物をいろいろと揃えておく必要があった。
アルペンの駐車場に入ると、元日だというのに車がずらりと並んでいた。
当時、冬といえば猫も杓子もスキーやスノーボードという空前の大ブーム。
郊外の幹線道路沿いにそびえ立つアルペンの巨大な三角形の黄色い看板と店舗は、まさに冬のレジャーの聖地だった。
店内に入った瞬間、店内いっぱいに大音量で流れる広瀬香美のウィンターソングが耳に飛び込んできた。
「初売り・新春ビッグセール!」の赤と黄色の派手な吊り広告が天井から無数に下がり、店内は家族連れや若者グループ、カップルでごった返している。
カラフルで煌びやかなスノーウェアが壁一面にずらりと並び、独特の撥水スプレーと新品のウェアの匂いが立ち込めていた。
売り場を行き交う人たちは誰もが、週末のゲレンデに思いを馳せ、ギラギラとした熱気に包まれていた。
「うわぁー! すごい人! ウェアいっぱいあるやん!」
人混みと色鮮やかなギアの数々に、美咲の目が一気に輝き出した。
大音量で流れる広瀬香美の曲をバックに、僕らは色鮮やかなウェアが立ち並ぶコーナーへと向かった。
「美咲、まずは手袋とゴーグル、あとウェア選ばんと。寒さ舐めたらゲレンデで凍死するで」
「えぇー! そんな寒ないやろ! ダー、どれがええと思う?」
美咲は目をキラキラさせながら、ラックにかかったウェアを次々と手に取っている。
膝上のタイトスカートから一転、今日はロングスカートだ。
横でウェアを選ぶたびに身体を折り曲げるので、ニット越しに胸のラインが強調されて、もうそこしか目に入らない。
(あかん……初詣のストレスと、最近不完全燃焼のせいで、頭の中がスケベな方向に行きかけてる……)
僕は必死に煩悩を抑え込みながら、派手なピンクのジャケットを手に取った。
「これなんかどうや? ゲレンデやったらこれくらい目立った方が、倒れててもすぐ発見できるし」
「発見できるしって! 遭難前提?(笑) でも、これ可愛いなぁ〜」
美咲は嬉しそうに鏡の前でジャケットを身体に当て、くるりと向きを変えた。
「なぁダー、これどう? 似合う?」
上目遣いで聞いてくる美咲。
その可憐さに一瞬見とれつつも、僕はいたずら心を出して、ニヤニヤしながら言った。
「うーん……ウェアはめちゃくちゃ可愛いけど、中身がなぁ……」
「中身って何よ!(笑)」
「いや、ウェア脱いだらDカップが隠れてまうから、そこだけが雪山の損失かなと思って」
「ちょっと!!(笑) わたしの胸そんなに好き?」
「うん!」
間髪入れずに答えた。
「揉んでいい?」
そう聞くと、美咲は周りをキョロキョロしながら言った。
「人がいっぱいおる前で何言い出すん!」
(周りに人がおらんかったらよかったんか? あ? 揉むぞ? このやろー)
心の中の悪魔が出てきそうになった。
僕はすかさず言った。
「冗談やって(笑)。でもほんま、めちゃくちゃ似合ってるで。可愛いわ」
「ほんま? ……もう、急に真面目な顔で言うな……」
そう言ってきたので、僕はさらに調子に乗った。
「これからそれ着てホテル行って、コスプレとかやってみようや! 一枚ずつ脱がしていって……」
そう言うと、もうその場に美咲はいなかった。
くそ! この流れでホテルに連れ込もうと思ったのに!
照れた美咲は、ごまかすようにニット帽のコーナーへ走っていった。
ポンポンのついたニット帽をいくつか頭にのせては、
「これは?」
「こっちは?」
と、僕に見せてくる。
「それええやん。雪山でそれ被って『ダー♡』とか言われたら、俺ゲレンデで抱きついてまうわ」
「嘘つけ!(笑) どうせ滑りながら他のかわいい子見とるんちゃうの?」
「見るわけないやろ。俺の目の前には、世界一かわいい仮やけど田島美咲がおるんやから」
「『仮』とか言うな!(笑) もう田島美咲なんや!」
そう言いながらも、美咲の口元は緩みっぱなしだった。
手袋、ゴーグル、ニット帽、そしてお気に入りのウェアを一式揃え、レジへ向かった。
レジ袋いっぱいに詰まった新品のギアを抱えた美咲は、子供みたいにはしゃいでいた。
「楽しみやなぁ〜! 早く週末にならんかな!」
「そうやな。あ、でも現地で滑り疲れたら、途中の温泉街にあるホテルで休憩な?」
「またすぐそういう方向持っていく!(笑) だめ! ちゃんとスノボの練習するの!」
「えー、厳しすぎやろ……。ちょっとは……ホテルで疲れた体をマッサージ……とか」
そんなことを言いながら、僕らは車に乗り込んだ。
エンジンをかけると、車内には買ったばかりのウェアの防水スプレーの匂いと、美咲の甘いシャンプーの香りが混ざり合っていた。
「なぁ、ダー」
助手席でシートベルトを締めながら、美咲がふっと柔らかい表情で僕を見た。
「今日、おっちゃんとお母さんたちと一緒に初詣行けて……ほんま嬉しかった。ホントに家族になれた感じがした」
「……おう。まあ、おかんもしつこかったしな」
僕の手を、美咲が自分の膝の上でぎゅっと包み込んでくれた。
タイトスカートじゃなくても、そのぬくもりだけで胸がじんわりと熱くなる。
「じゃーこのまま……カーセックスの名所に行って……」
「車の中なんか絶対いや!」
美咲はそう言い放った。
くそ!
「……週末、スパルタやからな」
「俺、厳しいから助けへんで」
「え〜! 優しくしてぇ〜(笑)」
買い物を終えた僕らの車は、新春の賑やかな街並みを滑らかに走り出した。
家族での初詣という予想外のスタートだったけれど、週末の二人きりのゲレンデデートという最高のお楽しみを数日後に控え、僕らの新年は最高の形でスタートを切ったのだった。
凍りついた冷気が、肺の奥まで一気に突き刺さってきた。大阪の寒さとはまったく違う、身の引き締まるような本物の冬の匂いだ。
目の前に広がっていたのは、言葉を失うほどの圧倒的な銀世界だった。
どこまでも高くそびえ立つ雄大な山々。その急斜面に広がる巨大なメインバーンは、太陽の光を浴び、まるで無数のダイヤモンドを散りばめたように、眩しく、どこまでも白く輝いている。周囲を囲む深い森の木々はたっぷりと雪をまとい、まるで白い怪物が静かに佇んでいるかのような神秘的な静けさに包まれていた。
週末、僕らは早朝の大阪を出発し、名神高速道路から東海北陸自動車道へと車を走らせていた。
美咲が「帰りは私が運転するから、たっぷり楽しんでや」と言ってくれた。美咲は、そういうところにすごく気が利く。行きは当然、僕が運転だ。
車は北上するにつれて、景色が徐々に変わっていった。窓の外はアスファルトの黒から雪の白へと移り変わり、岐阜県内に入った頃には、すっかり雪国の景色になっていた。
途中、美咲は何度も、まるで雪を初めて見るように、
「すご〜い……」
と繰り返し、窓の外を眺めながら独り言のようにつぶやいていた。
スキー場に到着し、車を降りた瞬間――。
スキー場ならではの、あのダイナミックなスケール感。
リフトが規則正しい金属音を響かせながら上空へ伸びていき、その下を色鮮やかなウェアに身を包んだスキーヤーやスノーボーダーたちが、爽快な風を切って一気に滑り降りていく。
コースの脇からは、雪を削る心地よいボードの摩擦音と、冷たい空気に乗って若者たちの弾けた歓声が遠くから響いてきていた。
「うわぁ……! すごい……! めっちゃ綺麗……!」
美咲はレンタルしたボードを片手に、言葉を忘れてその圧倒的な雪景色に見入っていた。
「どう? 山は。大阪とは空気が全然違うやろ?」
「うん! なんか、空気がキーンってしてて……すごいところやなぁ!」
期待と少しの緊張が入り交じった顔で、美咲は大きく息を吸い込んだ。白い息がふわりと空気に溶けていく。
しかし、スキー場はやっぱりいいなと思いながら周りを見渡すと、女の子二人組がやたらと多かった。
しかも、かわいい!
スキー場で見る女の子は特にかわいく見えると言うが、その通りだ。
僕がそんな女の子をぼーっと眺めていると、美咲が、
「へぇ〜……こんなとこでナンパしてたんや……。で、京子ちゃんもひっかけたんやなぁ〜」
と目を細め、睨むように凝視してきた。
俺は、
「あれは……ちがうねん! あれは、直樹がひっかけただけで、俺は……そんな、な、ナンパなんてしたことない!! そんな大それたこと……恥ずかしくてできへんわ!」
と、しどろもどろになりながらも返した。
「よぉ言うわ!」
美咲はそう言うと、踵を返してリフト券売り場へ向かった。
俺は慌てて後を追い、顔を覗き込みながらご機嫌取りを始めた。
「美咲ちゃん? 美咲ちゃん? 美咲ちゃんが一番かわいいなぁ〜……」
美咲はまんざらでもなさそうに、
「当たり前やん! あたしやで! あたし!」
と自慢げに胸を張った。
でも、その通りだった。美咲ほどかわいい子は、確かに見当たらない。
俺は思った。人生で初めて正しい選択をしたのだと。
美咲という女を彼女にした選択は、間違っていなかった。
午前中は初心者コースで付きっきりで教えた。
最初、道中では「スキー場が開催するスキー教室にでも放り込んで、自分は自分で楽しもか」と思っていた。だが、俺の心の中の天使が勝利を収め、今、こうして一緒にいる。
予想通り、美咲は運動神経があまり良くない方で、立ち上がれるようになるまでにはだいぶ時間がかかった。でも、諦めずに何度も何度も立ち上がって頑張る美咲を見ていると、愛おしく感じた。
やがて木の葉滑りもできるようになり、美咲が言った。
「ダー! ずっと私につきっきりやったら楽しくないやろ? 一回頂上から滑ってきいや!」
「私、ここで待ってるから!」
笑顔でそう言ってくれたのも束の間、
「でもナンパしたら殺す!」
と真顔で付け加えた。
「だから、ナンパなんて俺したことないから!」
秒でバレる嘘をつきながら、お言葉に甘えてゴンドラへ向かった。
このスキー場は、頂上からの滑走距離が三千八百メートルもある大きなスキー場だ。
頂上から一気に急降下が始まり、途中になだらかで平らなところがあり、また急降下するというコースだった。
だから、頂上からの急降下を一瞬でも躊躇したり止まったりすると、途中の平らなところで歩く羽目になってしまう。
僕と和也は、いつもこのコースを滑るとき、頂上から下まで常にトップスピードで滑り切るのだ。
ゴンドラに乗り込むと、美咲とはしばしの別れ……。
あぁ……俺の美咲……。俺の愛おしい美咲が、だんだん遠くなっていく……。
……って、何を考えてるねん、俺は!
心の中で突っ込みを入れつつ、なぜか京子ちゃんのことを思い出した。
京子ちゃんも誰かとボードに行ってんのかな……。彼氏が羨ましいな……。
そんなことまで考えてしまった。
こんなこと、口が裂けても美咲には言えない。
でも、はっきり言って、美咲と京子ちゃんはタイプこそ違うものの、顔はいい勝負。スタイルは京子ちゃんに軍配が上がってしまう。
中身は……美咲かな?
と言っても、京子ちゃんのことはあまり知らんけど……。
そんなことを考えているうちに、ゴンドラは頂上へ着いた。
僕はステップインにブーツをはめ、一気に滑り降りた。
平らなところも無事にクリアし、一気に美咲のもとへ――と思いながら滑っていると、さっき美咲がいた場所に、男が三人、美咲に話しかけているのが見えた。
ナンパだ!
そう思った俺は方向を変え、美咲に見つからないように後ろへ回り込むようにして下まで降りた。
ボードを外し、物陰に隠れて観察する。
人がナンパしているところを見ると、やはりバカっぽい。少し楽しくなってきたので、しばらく距離を置いて盗み聞きすることにした。
すると、バカっぽい男が美咲に質問攻めを始めた。
「ほんとかわいいよね〜! 何歳? 一人? 友達は?」
美咲は困った様子で答えた。
「彼氏と一緒なので……」
ちゃんと真実を明かしている。
しかし、ほかの二人は食い下がらない。
「連絡先だけでも交換しようや!」
もう一人が続けた。
「そうそう! 同じ大阪やし! ちょっと連絡取り合おうよ! ね?」
結構強引だ。
(さて、美咲どうする?? ここで、連絡先だけでも交換するか?)
俺は興味津々で盗み聞きしていた。
まあ、俺が美咲の立場なら間違いなく交換する――そんなことを考えながらにやけていると、美咲が言った。
「いや……そういうの……私無理なんで……。声かけてくれたことは嬉しいんですけど……てか、私……結婚してるんで」
……なんと!
なんということだ!
まさか、そんな返しがあるとは思わなかった。
結婚?
誰と?
俺?
どういうこと?
それを聞いた三人は、ぐうの音も出ずに散っていった。
俺は聞いてしまった……。
結婚してる?
どういうことだ?
うっとうしかったからの言い訳なのか? それとも、俺とはもうすでに結婚しているつもりということなのか?
そっと背後から美咲に近づき、
「あれ? ごめん! 向こうのところに着いてもうたわ!」
と声をかけた。
美咲はこっちを振り向いた。
「え〜なんでなん! ダーが滑って来るところ見たかったのに!」
むくれ顔になっている。
俺は知っているぞ!
こっちなんか全く見ないで、ナンパされていたところを!
見たかった? この口先だけ女め!
ちょっと懲らしめてやろうと思った、そのときだった。
「でも、さっきなんか三人組のイケメンに声かけられて……」
と美咲が話し始めた。
おぉ! 正直に言うか? 普通? それとも自慢か?
そう思いながら聞いていると、
「しつこくて……もう、ダーと結婚してるって言ったった!(笑)」
と笑顔で言った。
正直か! お前は!
まあ、すべて聞いていたのだが、俺は平常心を装って尋ねた。
「そうなん? ついて行かんかったんや。連絡先くらい交換したん?」
すると美咲は、
「誰かさんと一緒にせんといてくれるかな?」
と嫌味を言った。
俺はすかさず、
「しかし、結婚してるって言ったん?」
と聞いた。
「うん! みたいなもんやん! 結婚したくないの? わたしと?」
え?
何これ?
プロポーズ?
んなわけあるか!
そう思っている間に、美咲は言った。
「もう一回滑ってるの見たい! また行って来て〜!」
とりあえず、俺は再びゴンドラに乗ることにした。
乗る前に、
「また、ナンパされて見てなかったら、もう離婚やから!」
と言い捨てた。
美咲は、それを聞いて微笑んでいた。
「いや!(笑)」
という美咲の笑い声を背中に受けて、僕は再びゴンドラへ乗り込んだ。
揺れるゴンドラの中で、僕はひとり、胸の奥が妙にむずがゆくなるのを覚えていた。
(……結婚してる、か)
ナンパを撃退するための咄嗟の口実だったのかもしれない。
だけど、迷いなくあいつの口から出た「ダーと結婚してる」「みたいなもんやん!」という言葉。
そして、出かけるたびに持ち歩いている『田川美咲』の貯金通帳のこと。
美咲の中で、僕との未来はもう当たり前のように出来上がっているのかな……。
頂上に着くと、ピリッとした冷気の中でゴーグルをセットした。
さっきまでの迷いや雑念はもうない。
京子ちゃんのことなんて、完全に影も形も吹き飛んでいた。
……完全ではないかな? だってZARDやし……。
「よし……見とけよ、美咲!」
バインディングを締め、斜面へ飛び出す。
トップスピードまで一気に加速する。エッジがカリカリの硬い雪を捉え、鋭いシュプールを描いていく。
三千八百メートルのロングコース。風を切り、視界が高速で流れていく爽快感の中で、頭の中にあるのは「下で待っている美咲に、一番カッコいい滑りを見せる」ということだけだった。
中間地点の平らなセクションもノースピードで完璧にクリアし、最後の急斜面へ。
遠くに、ピンクのウェアを着た小さな人影が見えた。
美咲だ。
今度は僕から目を逸らすことなく、じっとこちらを見つめている。
僕は最後のバーンで大きくターンを刻み、雪煙を豪快に巻き上げながら、美咲の目の前数メートルでピタッとストップしてみせた。
ドヤ顔でゴーグルを跳ね上げると、美咲が目を輝かせてパチパチと手を叩いていた。
「すごーい!! ダー、めっちゃカッコよかった!! ほんまに一瞬で滑ってきたやん!」
「ふっ……当たり前や。誰の旦那や思っとんねん」
「旦那様~~!」
そう言って無邪気に笑う美咲の顔を見たら、さっきまでのイタズラ心も全部吹き飛んでしまった。
その後、木の葉滑りをマスターした美咲と一緒にゆっくりゲレンデを滑り、遅めの昼食に温かいゲレンデラーメンを食べた。
すっかり冷え切った身体に、濃いめのスープが染み渡る。
「熱い熱い!」
そう言いながらラーメンをすする美咲の鼻先が赤くなっていて、それがまた可愛くて仕方がなかった。
夕方、薄暗くなってきた頃には美咲の足も限界を迎え、僕らは大満足でスキー場を後にした。
約束通り、帰りのハンドルは美咲が握ってくれた。
「任せとき! 安全運転で大阪まで運んであげますよってに!」
なぜか、こてこての関西弁だった。
「ほんまに大丈夫か? 疲れてるんちゃう?」
「大丈夫!!」とニッコリ美咲は言った。
車が東海北陸道を南下し始めると、窓の外の銀世界は少しずつ闇に飲まれていった。
車内には暖房の温もりと、買ったばかりのウェアの匂い、そして二人で過ごした甘い疲労感が充満している。
僕は助手席のシートを倒そうとした。
そのとき、美咲が自分の膝をパンパンと叩いた。
一瞬、何なのか理解できなかったが、すぐに意味が分かった。
俺は美咲の膝の上に頭をのせ、膝をさすりながら、
「これこれ……いい感じ……」
と言って、運転席と助手席の間にあるシフトレバーなど気にもせず、美咲の膝に顔をうずめた。
美咲は、
「来た来た・・ダーはあたしの膝大好きやからねぇ~」
と微笑みながら、気にせず運転していた。
めちゃくちゃ運転しづらい体勢だったと思う。
でも、最高のひとときだった。
太ももがちょっと太いのが欠点だが、それはこの際仕方がない。
というより、「足太いやん」から長い喧嘩が始まったので、もう二度と言えないだろう。
思っていても。
そんなことを考えながら、俺は前を見つめる美咲を下から眺めていた。
小さな手でしっかりとハンドルを握り、時折、
「疲れてへん?」
「寒くない?」
と、ちらっと僕を気遣ってくれる。
俺はあまりの感触の良さに、太ももを揉んだり、さすったりしていた。
でも、美咲は無反応。
あかん……ホテル行きたくなってきた……。
そう思いながらも、それは口にせず、さっきのスキー場での結婚発言が気になったので、少し聞いてみた。
「……なぁ、美咲。さっき、結婚とかなんとか言ってたやん……」
「うん」
前を向いたまま、美咲が答えた。
「なにあれ? 本気なん?」
直球で攻めてみた。
すると美咲は、
「したいよ……結婚。ダーとなら」
と答えた。
そっか……と言おうとしたとき、美咲が不安そうな顔をした。
「でも……できるかな……」
「ん?」
俺は助手席に座り直した。
「できるかなって、どういうこと?」
頭が回らなかった。
すると美咲は、言いにくそうに話し始めた。
「実は……私の家、親戚も全員みんなそうなんやけど、先祖代々お見合い結婚って決められてるねん」
衝撃的な一言だった。
そういえば、俺は今まで美咲の家のことを何も聞いたことがなかった。
でも、なんで今さらそんな仕来たりがあるのか?
そう思っていると、美咲は続けた。
「うち、家がお金持ってて……私もよく知らんけど、大地主? らしい。お父さんもお母さんも働いてるとこ見たことないし……。だから、家の財産守るためにも、絶対に親同士が決めた人じゃないと結婚できない、させない。って……」
俺は言葉が出なかった。
はっきり言って、結婚なんてさっきまで考えていなかった。
でも、美咲はそんなことをずっと気にしながら付き合っているのか?
俺が口を挟む間もなく、美咲は続けた。
「あたし、ダーのことお母さんに言ったんやん。付き合ってるって。じゃ、お母さん、そんな、何の得にもならん子と付き合いなさんな! って」
そして、
「あんたが何をしようと勝手やけど、結婚のしきたりだけは変えられへんから覚えときなさいって」
そう言った。
それを黙って聞いていた俺は、思った。
ってことは、美咲との未来はないってこと?
どれだけ好きで愛し合っても無駄ってこと?
そう思ったが、口には出せなかった。
俺は、そんな考えとは裏腹に、明るく言った。
「そんなん……どうなるかなんて、結局は俺ら二人が決めることやねんから……関係ないやん!」
美咲は、ずっと前を見ながら不安そうに、
「まぁ……そうやけど……」
と落ち込んだ口調で答えた。
しかし、次の瞬間、明るい声に変わった。
「そや! そんなん関係ない! ダーと私の気持ちがつながってれば、うまくいくよね!?」
「当たり前やん! そんなん、今考えても仕方ないし! 今を生きよう! 今を楽しもう!!」
俺は両手を上げてガッツポーズした。
正直、心の中では、まだ付き合って三年くらい……結婚の話をする前に終わってしまうかもしれんし……と思っていた。
美咲が聞いてきた。
「もし、もしも私たち長く続いて……結婚が見えてきたら、その時どうする?」
「そん時は頑張る。頑張って説得する」
すかさず美咲が尋ねた。
「それでも無理なら?」
そのとき、赤信号で車は先頭に停止していた。
雪に反射した赤信号が、まぶしく感じられた。
俺は、
「そんときは……駆け落ちや!(笑)」
と言った。
美咲は嬉しそうに、
「駆け落ちか~~」
とつぶやいた。
少し間を置いて、こっちを向き、
「ありかもね!」
とニヤリとして言った。
そのときの美咲の何に惹かれたのか、自分でも分からなかった。
気がつくと、美咲に唇を重ねていた。
最初は優しく。だが、次第にお互いが激しくなり、後続車のクラクションで二人とも我に返った。
美咲はハンドルを握り直し、後続車に、
「ごめんなさ~い……」
と小さい声でつぶやきながら、アクセルを踏んだ。
進みだした車の中で、美咲が笑いながら聞いてきた。
「今の後ろの車の人に見られたかな?(笑)」
「そりゃ~あれだけぶちゅーってしてたら見られてるやろ!(笑)」
「なんかその言い方いや!」
美咲は前を向き直し、慣れない夜の雪道を走り続けた。




