第33章 新しい二人の日常
横須賀で過ごした濃密で怒涛の日々が、まるで嘘のように、大阪での平穏で愛おしく、そして相変わらず騒がしい日常が過ぎていった。
あの日、あの思い出の公園で再会したときから、僕と美咲の関係は、以前よりもずっと深く、愛おしいものになっていた。
毎日、どこかへ出かけ、二人で遊ぶ日々。
会わない日は、ほとんどなかった。
逆に、「いつ会わへんかったっけ?」という日を探す方が難しいくらいだった。バイクで美咲をのせ、色々な所へ行ったり、車で出かけたり、別れて家に帰ったあとも、寝る前には毎日電話で話をした。
それは義務なんかではなく、ごく自然な僕らの日常だった。
横須賀から帰ってきて、8日後くらいには、僕はもう次の仕事に就いていた。
出版会社の営業だ。
仕事が始まってからも、終われば必ず美咲に会いに行った。ご飯を食べに行ったり、カラオケに行ったり。
充実した毎日が続いていた。
あるとき、二人で貯金を始めようと思い立った。
作った通帳の名義には、『田島美咲』と書かれていた。
苗字は僕、名前は美咲。その時代は通帳を作るのも今のように難しくはなく、これでも作れたのだ。
通帳を作った美咲は、
「田島美咲……やって!」
と、なんだかものすごく嬉しそうだった。
その通帳に、毎月二人で2万円ずつ貯金することに決めた。
毎日出かけるたびに、僕が全額支払っているのを見て、美咲が、
「もったいない……私のためにこんなにお金使うのなんかいや!」
と言い出したのだ。
それなら、遊ぶお金は二人で貯めたお金から出そうということになった。
たまに僕がお金に余裕のある月は、奮発して5万円を貯金することもあった。
美咲は出かけるとき、いつもその通帳を肌身離さずバッグに入れて持ち歩いていた。
(普通、通帳持ち歩くか……? カードだけでええやん)
そう思ったが、あえて口には出さなかった。
きっと、それほど嬉しいのだろう。まるで僕と結婚したような気分にでも浸っているのかもしれない。僕も、まんざらではなかったけれど。
そんな幸せな日々を送っていた、ある日のこと。
今日も二人で何食べに行こか〜
そんな話をしながら、僕たちは車を走らせていた。
何気ない、いつもと変わらない幸せな時間。
その時間を邪魔するように、僕の携帯電話がけたたましく鳴り響いた。
右手でハンドルを握ったまま、左手でポケットから携帯電話を取り出そうとした。しかし、電話はジャケットの左内ポケットに入っていて、うまく取り出せない。
すると、助手席に座っていた美咲が僕の様子に気づき、サッと内ポケットに手を入れて携帯電話を取り出してくれた。
僕は「誰から?」と、画面を見て教えてほしいという合図を送った。
美咲が画面を確認し、僕に見せる。
そこには、『おかん』と表示されていた。
僕は首を横に振り、「無視してええよ」と合図を送った。
美咲はどこか寂しそうに携帯電話を見つめ、そのまま鳴り止むのを待った。
やがて着信が止まると、美咲が口を開いた。
「なんで出えへんの? 何か急用かもしれんやん」
「大事な用事やったら、またかけてくるやろ」
僕は興味なさそうに答えた。
「それより……」
そう言いかけて、言葉を飲み込んだ。
実は、最近近くに新しくできたラブホテルが気になっていた。今日は美咲と、そこへ行きたかったのだ。
美咲とは、もう何回ホテルに行ったか分からないくらいだった。
なぜか、そんなところだけ妙に几帳面な美咲は、僕とホテルに行った日を必ず手帳にハートマークで記録していた。
たまに「今、何回目?」と聞いても、即座に正確な回数が返ってくるほどだった。
そして今日の僕は、美咲の服装を見て、どうしてもホテルに行きたくなっていた。
膝上のタイトスカートにパンスト。上は、ぴっちりとした薄手のニット。
そんな姿を見ていたら、どうにも気持ちが落ち着かなかった。
そんな煩悩の真っただ中に、またしても電話が鳴り響いた。
美咲が「ほら! 大事な用かも?」と電話を差し出してきた。
またおかんか……。仕方がないので、電話に出た。
開口一番、オカンが怒鳴ってきた。
「あんた今何してんの!? どこおるん!?」
「……仕事」
適当に答えると、オカンは一瞬でキレた。
「うそつきな!」
(なんでバレるねん……)
そう思いながら、僕もイラッとして言い返した。
「なんやねん! 今、運転中やねん!」
「運転中かいな……ほな危ないな・・」
そう言って電話を切るのかと思いきや、オカンはいきなり、とんでもないビッグニュースをぶっこんできた。
「あんた、彼女できたらしいやないの!!」
「なんやねん! そんなん今、関係ないやろ!!」
大声で返すと、負けじとオカンも叫んだ。
「なんやのん、その言い方! 関係ないことないやないの! あほか!」
「関係ないやろが! 俺が誰と何しとっても勝手やろ! うるさいわ!」
「うるさいて、あんた! 誰に向かって言うてんの!? え!? 誰に言うてんの!!」
めちゃくちゃ絡んでくる。
続けて、オカンはさらにヒートアップしていった。
「なんやのん、あんた! えらそうに『うるさいわ』って! なんやの、チンピラか! あんたチンピラなんか!? え! もう怖いわ! おかあさん怖いわ!!」
さっき自分で「運転中で危ない」と言っていたくせに、マシンガントークを止めないオカン。
そんな僕とオカンの泥沼のやり取りが電話越しに漏れていたのか、横で美咲が口元を押さえ、必死に笑いを堪えていた。
僕が「も〜! 何の用やねん!」と言うと、オカンは何かを察知したように尋ねてきた。
「……あんた今、誰とおんの?」
「誰もおらんわ」
「うそ言いな! 女の子が後ろで笑ってるんちゃうの!?」
美咲の忍び笑いが聞こえたらしい。
間髪入れず、オカンは追い打ちをかけてきた。
「今、彼女と一緒におるんか!? それで格好つけてんのか! ほんまあんたは……ええわ! 連れておいで! 今日カレーやから食べに連れておいで!」
(……カレーやから連れておいで、の意味が分からん)
どうせ呼ぶなら、カレーじゃない日にしろと言おうとしたが、話が長くなりそうなのでやめた。
しかし、オカンは止まらない。
「どんな子なん? 今、横におるんやろ? なにちゃんや!?」
(それを今聞いてどうするねん!)
そう思いながら、僕は美咲が「カレー嫌やって言ってる」と伝えた。
美咲が横から「そんなこと言ってない!」と必死に手で合図を送ってくるが、そんなことは関係ない。
僕はこれからホテルに行くのだ! もう心の中で決めているのだ!
するとオカンは、
「ほな、肉あるからなんか作ったるわ! 連れておいで!」
と、まったく引き下がらない。
僕が「肉も嫌いらしいで」と適当な嘘をつくと、オカンは即座に返してきた。
「そんなん言うてないやろ! あんたが勝手に言うてるだけやろ!」
終わらない……。
この不毛なやり取りが、なかなか終わらない。
するとその時、横から美咲が大きな声で言った。
「カレー食べたいなぁ〜!」
(こいつ!! 勝手に……! カレーよりホテルやろ!!)
と思う間もなく、オカンが電話の向こうで跳ね上がった。
「え!? 今の彼女の声!? え、なにちゃん!? 今からおいで!!」
オカンは電話越しに、美咲に向かって猛烈に語りかけている。
僕は必死に抗戦した。
「今日はええねんって! 忙しいねんって!」
「本人が『カレー食べたい』言うてるねんから、連れてきたったらええやないの! あほちゃうか!」
やっぱり電話なんて取るんじゃなかった……。
激しく後悔していると、美咲が助手席から電話に向かって、大きな声で言った。
「おじゃましま〜す!」
これが、美咲とうちの家族との突然の初対面となった。
僕たちはやむなく、僕の実家に向かうことになった。
せっかく……せっかくホテルに行きたかったのに!
そう思ったが、もうそんなことを言える雰囲気ではなかった。
当の美咲は、なんだかすごく楽しそうにしている。
僕は意を決して、美咲に愚痴をこぼした。
「せっかく新しくできたホテル行きたかったのに……」
すると美咲は、クスクス笑いながら言った。
「いいやん! 今日くらい! 昨日も行ったし、その前も行ったし、いつでも行けるやん! 明日行こ! だから今日は、ダーのおうち行こ〜!」
撃沈だ……。
まあ、確かに二日連続で行ってはいるけれど……。
でも、今までの最高記録は「7日連続」なのだ。僕はこの記録を塗り替えたかった。
それをまさか、予想もしなかった「オカン」という恐ろしい生物に邪魔されるとは思ってもみなかった。
(あの時……「仕事が忙しい!」って言って、バッサリ電話を切ったらよかった……)
そんな後悔を頭の中でぐるぐると巡らせている間に、車は非情にも僕の実家に到着してしまった。
美咲は「早く早く!」と言わんばかりに先に車を降り、外で僕を待っていた。
(可愛い……可愛すぎる……今すぐ抱きしめたい……)
そんな煩悩を必死に押し殺しながら車を降り、美咲と一緒に家に入った。
うちのダイニングテーブルは6人掛けだ。
見渡すと、見事に全員が勢揃いしていた。
(くそ! せめて兄貴はどっか行っててほしかったのに……)
うちは男3人兄弟の5人家族。
僕のいつもの席の横が、ちょうど空いていた。いつもは真ん中の兄貴の席だが、美咲のために空けておいてくれたのだろう。
美咲の姿を見た瞬間、オカンが目を見開いて叫んだ。
「え〜っ! 綺麗な子〜! めっちゃ可愛い子やん! あんた! どうしたん! お金でも払ってるんか!?」
いきなり失礼なからかい方をしてくるオカンに、美咲は「てへぇ」と言って少し照れていた。
間髪入れず、普段は頑固なオヤジが、
「まぁまぁ、そこそこ」
と、手のひらで僕の隣の席を指差した。
「座ってゆっくりしていってや」
今まで一度も聞いたことがないような、優しくて甘い声と目つきで美咲に言った。
「じゃあ……遠慮なく!」
美咲は笑顔で席に着いた。
ダイニングテーブルの僕の真向かいにはオヤジ。その左横には一番上の兄貴、僕の右横の誕生日席にはオカン。そして、オカンの真向かいの誕生日席には真ん中の兄貴が座っていた。
僕の左横には美咲。
食卓には、まだ誰も手を付けていないカレー、サラダ、トンカツ、エビフライが豪華に並んでいた。
(なんでよりによってカレーの日やねん……)
そう思いながら、僕も席に着いた。
皆を見回すと、全員の目がギラギラと輝いていた。
トップバッターは、もちろんオカンだ。
「かわいらしいわ〜……もう……なんなんあんた……どうしたん! 何があったん!?」
僕が答えようとしたが、オカンは僕の言葉などハナから聞く気はなく、いつもとは180度違うトーンで美咲に問いかけた。
まるで割れ物に触るような丁寧さだった。
「お名前は? なんて言うの?」
美咲は、ハキハキとした笑顔で答えた。
「御堂美咲です! 今日はお招きいただいて嬉しかったです! ありがとうございます〜!」
オカンやみんなの顔を見ながら軽く挨拶をする美咲に、オカンは手をぶんぶん振った。
「そんな……かしこまらんでも! どうぞどうぞ! 早く食べて! もう……ろくなもんなくて恥ずかしいわ……。来るって分かってたら、もっとごちそう用意したのに! このアホが!」
オカンは僕を指差した。
「な〜んも言わんねんで! どう思う!?」
矢継ぎ早の質問攻めだ。
というか、僕たち家族は普段、その「ろくなもんじゃないもの」を食わされているのか?
そんなことを思いながら見ていると、今度はオヤジがニコニコしながら聞いてきた。
「美咲ちゃんは、おいくつ?」
「23歳です!」
笑顔で元気に答える美咲に、真ん中の兄貴が「お! 俺と一緒やん!」と乗っかった。
続いてオカンが、目を細めて言った。
「じゃあ、武人の一つ上なんやね〜」
すると美咲は、嬉しそうに話し始めた。
「でも武人君とあたし、誕生日が近くて、一日だけ同じ年齢になるタイミングがあるんです!」
(こいつ、けっこう喋るやん! なんなん!)
と思いながらも、僕は黙って聞いていた。
「武人君の誕生日が18日で、私が同じ月の20日なんです! だから19日だけ同じ年になるんですよ〜!」
嬉しそうにはしゃぐ美咲。
オカンが「あらそう! ほんとやね〜!」と言い切る前に、美咲が食い気味に僕の顔を見ながら言った。
「だから誕生日は、19日に一緒にお祝いするんです! ふたりで!」
「それはロマンチックやん! もう〜!」
満面の笑みで答えたオカンは、急に悔しそうな顔をして続けた。
「じゃあ、あたしがもうあと二日踏ん張ったら、美咲ちゃんとおんなじ誕生日になってたやん! もう! あと二日頑張ったらよかったわ!」
全員で笑っていると、美咲が言った。
「あっ! 私のこと『美咲』でいいです! 呼び捨てにして下さい!」
その瞬間、食卓の空気が一変した。
家族全員の顔に、(この子、なんていい子なんや……)という感動の文字が浮かび上がっていた。
「じゃ〜遠慮なく『美咲』って呼ばせてもらうね〜!」
オカンが心底嬉しそうに言うと、美咲も笑った。
「そっちの方がなんか距離感じなくて、私も嬉しいんです!」
「もう〜めちゃくちゃ嬉しいこと言ってくれるやん! もう〜! 美咲はもう、うちの家族やな〜!」
オカンがみんなを見回すと、全員が口々に頷いた。
「もう家族や!」
(……てか、いつカレー食ってええねん)
と思いながらも、うちの家族に一瞬で溶け込んでいく美咲の姿を見て、僕はより一層、彼女のことが愛おしく思えた。
(……でも、ホテル行きたかったなぁ……)
食卓は大盛り上がりで、家族それぞれが美咲に質問攻め。美咲は終始楽しそうだった。
連れてきて正解だったのかな、と少し思い直した。
ちなみに、後で分かったことだが、僕と美咲のことは、直樹からオカンに筒抜けだったらしい。
「おばちゃん! あいつ、めっちゃかわいい女と毎日会ってんで! ラブラブやで!」
そう聞いていたらしく、今日も会っていると知って電話をかけてきたのだという。
(直樹の野郎……あいつのせいで僕のホテルが……! いつかこの恨み、絶対に晴らしてやる……!)
僕は心の中で、静かに復讐を誓った。
美咲は遠慮することなく、オヤジや兄貴たちにもどんどん話しかけている。みんな心底楽しそうだ。
しばらくそんな状況が続いた後、オカンがふと首を傾げて言った。
「でも……この子の何が良いの? 美咲みたいな、こんなべっぴんさんが!?」
オカンは僕を指差した。
すると美咲は、あっさりと答えた。
「武人君が『私に付き合ってください!』って言ってきたから!」
(おいおい! それは言うなよ! てか、そういう意味で聞いてるんじゃなくて、どこが好きか聞いてくれてるんやぞ! 余計なことを……)
と内心ヒヤヒヤしていると、長男の兄貴が美咲に食いついた。
「敬語やったん!?」
美咲はニヤニヤしながら答えた。
「そうなんです! なぜかそこだけ敬語で!」
と、笑いながら答えた。
めちゃくちゃ恥ずかしかった……。
美咲め、お前は味方なのか敵なのか、どっちだ!?
オカンが間髪入れずに言った。
「まあ、この子アホやからよう分からんやろ?」
すると美咲は急に真顔になり、ハッキリと言い放った。
「武人さんは、バカじゃないと思います。なんでもできるし、なんでも知ってるし……私からしたらすごいなって思って。それに、優しいし、いつも私に付き合ってくれるし……だから、大好きです!」
照れもせず、まっすぐに言った。
それを聞いたオカンは、目頭を熱くさせた。
「あんた! 聞いた!? 今の! なんてええ子なん……! あんたみたいなよう分からん子、大好きって言うてくれて……! おかあさん嬉しいわ……!」
そこからオカンのマシンガントークは止まらなくなった。
「この子、こんな急に横須賀か横浜かよう分からんところへ急に行くわ、気付いたらバイクで帰ってきてるわ……ほんま子供の時から大変やったんやで!
昔、まだこの家に引っ越してくる前、諏訪ノ森ってところに住んでてな。家の真ん前がちょうど南海高野線やってん。この子……あれ幾つの時や!? 線路のレールに大きい石置いて、電車通るの眺めてんねんで!
ほんま……あん時、おかあさんびっくりして……なぁ、お父さん?」
オカンがオヤジに視線を送ると、オヤジも懐かしそうに頷いた。
「お〜、そんなことあったな〜」
オカンは続けた。
「そんなことお父さんに言ったら、お父さんはお父さんで『あいつならやるやろな』って言うねんで!
あたしびっくりして……そしたらお父さんが『大丈夫や、万一に備えてあいつだけには保険かけてるから』って!
そん時は何の保険かよう分からんかったけど……それからすぐや! なぁ?」
オカンはもう一度オヤジの顔をちらっと見てから、声を潜めた。
「空き家と、ビニールハウス燃やして全焼させたんやで! なんか友達3人と秘密基地みたいな感覚で出入りしてたらしくてな。もう……あん時は大変やったんやで……」
呆れ顔で僕を見てくるオカン。
(なんやねん! そんな昔話……そんなんええから!)
と思いながら、僕は口を挟んだ。
「もう昔の話や! ええ思い出や!」
するとオカンは、即座に一喝した。
「何がええ思い出や! 家燃やす思い出にええ思い出なんかあるか! あほ!」
バッサリ叩かれた僕を見て、美咲は笑いながら興味津々に尋ねた。
「それでどうなったんですか?」
「そや……でな、結局は全部で6000万くらいの弁償やったんやけど、こっちは3人おったから、親同士集まってどうしよって頭抱えてたらな。
お父さんが『保険入ってるから大丈夫や!』ってなって。結局うちの保険で全額払って、最後は……なんやかんや言いながら400万くらい儲かったんやわ!」
オカンは大笑いしながら言った。
美咲は目を丸くしながらも、感心した様子で言った。
「でもお父さん! よく保険入ってましたよね……入ってなかったら大惨事でしたよね。お父さんの先を見据えた力ってすごいですね……!」
だが、僕は知っている!
昔、ばあちゃんから聞いたことがあるのだ。オヤジも昔はかなりのやんちゃで、近所の友達の家の車を盗んで電柱にぶつけ、そのまま逃げたことがあるらしい。その後、捕まって弁償させられたのだと。
その場の空気を察したのか、オカンが補足した。
「美咲、違うねん。それがな、お父さんも昔やんちゃでな。武人が生まれてしばらくして、『こいつは俺に似るから絶対になんかやらかす。保険だけはちゃんと入っとこう』って思ったらしく、あらゆる保険に入ってたみたいやねん」
この話は、僕も今まで何十回と聞かされてきた。
でも、改めて思う……人的被害が全くなかったことだけは、本当に神様に感謝している。
すると、長男の兄貴が口を開いた。
「こいつはほんま何するかわからんで! ちゃんと見とかな、また家燃やすで!」
「燃やすか!」
僕は即座にツッコんだ。
次は次男の兄貴が言った。
「もう首輪付けて、どっかつないどいたらいいねん」
(わしゃ犬か!)
そう思ったが、無視した。
そんな男兄弟と家族の無邪気なやり取りを見て、美咲は大笑いしていた。
僕にとっては非常に複雑な家庭の暴露日だったが……美咲からしたら、今日という日はどう映ったのだろうか。
そんな昔話やバカ話で大盛り上がりしているうちに、時間はいい時間になっていた。
それでも、みんなの話は一向に止まらない。
僕は、そろそろ切り上げようと声をかけた。
「もうこんな時間やから、そろそろ送っていくわ!」
するとオカンが、今日初めてまともなことを言った。
「そやわ! こんなかわいい子、こんな時間まで引き留めたら、お父さんお母さんも心配しはるわな!」
別れ際、オカンとオヤジが玄関の外まで見送りにきた。
「美咲! またいつでもおいでや! 直樹かて一人で来てるねんから、この子がおらん時でも何でもええから、いつでもおいでや!」
オカンが言うと、美咲は笑顔で返した。
「おかあさん……そんなん言ってくれたら、本当に来ますよ?」
「いつでもおいで!」
オカンは満面の笑みだった。
車に乗ろうとした時、オカンが僕に釘を刺してきた。
「あんた! 気ぃつけて送っていきや!」
(んなこと分かってるわ!)
心の中でそう思っていると、オカンは最後にこう付け加えた。
「変なところ連れ込まんと送っていきや!」
(くそ……見抜かれてる……!)
僕は、少しでもホテルに行く時間を捻出するために、「21時40分」という絶妙なタイミングで実家を出たのだ。
すべて計算済みだった。
ここからホテルまで20分。1時間、美咲とホテルでイチャイチャして23時。そこから美咲の自宅まで10分。
これくらいのオーバータイムなら、いつもどおり問題ない。完璧なスケジュールだったのだ。
僕は、少しだけアクセルを踏む足に力を入れた。
すると、助手席の美咲が静かに口を開いた。
「ダーの家族……なんか暖かい。すごい居心地よかった……。お母さんもお父さんも、すごいいい人。いい家族やね」
しみじみと言う美咲。
「そう? 昔からあんな感じやから、よく分からんけど……」
僕がそう返すと、美咲はどこか寂しそうに言った。
「うちは……あんな感じじゃないからなぁ……」
そういえば、美咲の家庭環境については、あまり詳しく聞いたことがなかった。
何やらお兄ちゃんがいて、兄妹は二人らしい。あと、確かカメを飼っていたような……。
まあ、また今度、詳しく聞こう。
そう思いながら、僕は切り出した。
「まだ時間ちょっとあるし……行こか? ホテル」
すると美咲は、意地悪そうに笑って言い返してきた。
「『変なところ連れ込むな〜』って言われとったやろ! お母さんに!」
僕は怯まずに言った。
「あんなん放っておいたらええねん! なんか……我慢できん。美咲抱きたい!」
「そっかぁ〜。そんなにあたしのこと、抱きたい?」
「やりたい!」
直球で言うと、美咲は笑いながら言った。
「なんかその言い方嫌や!」
そして、バッサリと撃沈させてきた。
「今日はもう帰る! 悶々として、また明日を待ちなさい!」
やむなく、思い出の児童公園の横に車を付けた。
美咲は意地悪な顔を見せて言った。
「やれんかったからって、浮気したらあかんで!」
そう言い残して車を降りた。
そして、僕の車が走り去るのをいつまでも見送ってから、自宅の方へと歩いていった。
(……浮気されたくなかったら、やらせてくれよ……)
心の中でそう呟きながら、僕は本日の不完全燃焼な想いを抱えて帰路についた。




