第32章 横須賀最後の夜
僕は我に返り、ゆっくりと窓に近づいて外を眺めた。
8月も終わりに近づいた夕方5時過ぎ。西の空には、まだ太陽の残光がうっすらと残っていた。横須賀の街には、少しずつ夜の静けさが降りてきていた。
それにしても、この横須賀では本当にいろいろなことがあった。ものすごく濃い5か月間だった。
(というか、僕、任期満了までに目標を達成したって凄くないか?)
そう思いながらも、短かったけれど、最高の毎日だったと改めて感じた。
工場で仲良くなった仲間たち。夜はナンパに明け暮れ、バットを持った男に追いかけ回されたこともあった。けれど、そんな出来事があったからこそ、スコーピオンの面々にも出会えたし、マスターにも出会えた。
それに、金髪の女の子たちとの一夜まで……。
……よだれが出そうだ。
ナンパをやりすぎたせいで、「横須賀で関西人がナンパしまくっている」と噂になったこともあった。
その噂がきっかけで、深夜番組『ビキニ』の隠し撮りに引っかかり、ひなたちゃんとも出会ったのだ。
そういえば、今になって冷静に考えてみると、ひなたちゃん……絶対にいけてたような気がする。
なんで、あんな最高のタイミングでグラビアアイドルとのチャンスを逃してしまったんだ、僕は……。
いつも肝心なところでヘマを犯してしまう。
あのくびれ……抱きしめたい。もう一度……帰る前に……。
ダメだ!
あれはあれで、いい思い出として残しておこう。
というか、横須賀で起きたことは、死んでも誰にも話さない!!
特に『ビキニ』の件はヤバい!
しょうは喜んでいたけれど……あいつは今頃、何をしているんだろう?
元気でやっているのかな。
一緒にいたときは鬱陶しかったけれど、いなくなってみると、ちょっと寂しかった。
……一瞬だけだが。
健太さんも、あれから一度も顔を見ていない。連絡先すら交換していなかったな。もう帰ったのだろうか……。
こんな色々な人とのかかわりの経験も、親父が言っていた「社会経験を積め!」の中に入っているのだろうか。
そんなことを思い巡らせながら荷物をまとめていると、携帯電話がけたたましく鳴り響いた。
なんだ? 忙しいときに……。
そう思いながら電話を手に取り、着信画面を見た。
『美咲』
画面に表示されたその文字を見た瞬間、僕は一気に焦った。
なぜだか、猛烈に焦った。
こんなに焦ったのは、ZARDのドッキリ以来だ!
ここは明るく出るべきか? それともクールに?
とりあえず落ち着こうと深く息を吐き、ボタンを押して電話を耳に当てた。
「ダー!」
電話の向こうから、威勢のいい声が聞こえた。
間違いなく美咲だ。
今まで、あいつから電話をかけてきたことなんて一度もなかった……。
でも、間違いなく美咲だ。
「ハイエナ美咲やで」
続けて、からかうような口調で言ってきた。
僕は、
「お、おう! ひさしぶり……」
と、拍子抜けするほど普通の返事しかできなかった。
なんで僕は、好きな子の前ではこうなってしまうのだ……。
え?
あ……もう、自分が美咲を「好き」だと認めてしまっている。
そう思った途端、なんだか急に恥ずかしくなった。
「なぁ~、会いたくて仕方がないの? あたしに?」
美咲が言った。
ピンときた。
送ったテープが、もう届いたのだろう。
そう言われた僕は腹をくくり、開き直った。
「送った通りや! それ以上はない!」
強気で返すと、美咲は、
「ずっと私にそばにいてほしいの?」
と、からかうように重ねてきた。
そして間髪入れず、テープに込めた気持ちを知っているかのように、歌の言葉を次々と口にした。「ずっと私にそばにいてほしいの?」
と、からかい口調で重ねてくる。間髪入れずに、
「『一人きりの夜なら今すぐ会いに来てくれるの?』『私のこと離したくないの?』『私のこと毎日、毎晩愛してたってホント?』『どこまでも私と歩き続けたいの?』『私のこと、誰よりも愛しいの?』『そばにいて、そばにいて、そばにいてくれって、そんなにいてほしいの?』」
まだ続く。
「『僕は君にふさわしくない、そんな気がしたんだ。でも、逢いたい、逢いたくて仕方がない抑えきれない気持ちがある』って?」
……あ、もうこれ、歌詞そのままやん!
僕は心の中で叫んだ。
こっちも、このままやられっぱなしではいけない。
僕も言い返してやった!
「美咲は俺のためならなんだってするんか? 美咲は俺のもので、俺は美咲のたいせつなひとなんか!?」
『The Power of Love』に込めた意味を問いかけると、電話の向こうの美咲は、今度は真面目な声で答えた。
「そんなん当たり前やん! ダーは私の大切な人! だからダーのためなら何でもするで。ハイエナ美咲やから」
言葉が出なかった。
「ひこーき……ありがとう!! めっちゃ嬉しかった!! 今、ベッドのところに飾ってる~」
美咲が嬉しそうに言った。
僕は思わず尋ねた。
「まじ? 嬉しかった?」
「当たり前やん! 嬉しかったに決まってるやん!!」
そう答える美咲の声が、少しずつ泣き声に変わっていった。
その勢いのまま、
「テープ……なにこれ……なんなんよ……」
と言いながら、美咲はもうボロボロと泣いていた。
僕は黙って、その声を聞いていた。
「私のために……テープ作ってくれたん……?」
「うん」
「今の、本当の俺の気持ち」
僕がそう答えると、美咲は鼻をすすりながら、テープに入っていた曲名を一つずつ口にした。
郷ひろみの『逢いたくてしかたない』、DEENの『未来のために』、T-BOLANの『離したくはない』と、ベン・E・キング『スタンド・バイ・ミー』そして山崎まさよしの『One more time, One more chance』……。
選曲した曲を、全部言われてしまった。
美咲は泣きじゃくりながら言った。
「全部よかった……ダーの気持ち、よくわかった……やったら早く帰ってきてよ……早く……すぐに……」
泣き声はさらに激しくなり、しゃくり上げる声が聞こえた。
「うん。帰る。美咲のために、美咲のところに」
自分でも信じられなかった。
けれど、僕は本気で、まっすぐにそう言った。
「じゃあ! いつ帰ってきてくれるんよ!! 早くって言ってるの! 逢いたいの!!」
泣きながら大声で叫ぶ美咲に、僕は努めて冷静に返した。
「うん。明日帰る」
そう言った瞬間、美咲は予想していなかったのか、一瞬沈黙した。
そして、鼻をすすりながら、
「明日……? って明日のアシタ……?」
と、少しパニックになったように聞き返してきた。
僕は言葉を続けた。
「俺、考えたんや。横須賀で一人になって……やっぱり、美咲じゃないとあかんって。今日仕事も辞めて、明日バイクで帰る。目標も達成したしね!」
「ほんとに達成したんや……」
美咲は感心したようにつぶやき、続けて強い口調で言った。
「ほんと・・ぶっ飛んでんな・・ダー・・」と間を置き「絶対に安全運転で帰ってきてよ!? こまめに休憩取って帰ってきて! 事故ってお別れなんて私、絶対に耐えられへんから!!」
「大丈夫。俺もバカじゃないから。帰ったらバイクでいろんなところ行こう。美咲のメットも買ってあるよ!」
そう言うと、美咲はもう泣き止んでいて、
「準備万端やん!」
と、嬉しそうに笑った。
「どこ行こうかな~」
さっきまでの涙が嘘のように、美咲はこれからのことに期待を膨らませて話し始めた。
僕たちは、まるで今までの空白を埋めるかのように喋り続けた。
気づけば、時間は深夜2時を回っていた。
美咲はまだ名残惜しそうだったが、翌日のバイクの運転に差し支えてはいけないと気を遣い、
「気をつけてね!」
と言い残して電話を切った。
初めての感覚だった。
僕は人生で初めて、自分の気持ちを素直に、真面目に伝えることができたのだった。
昨夜、深夜2時過ぎまで話した電話の中で、美咲は興奮と不安が入り混じった声で言っていた。
「ほんまにバイクで帰ってくるん? 早く逢いたい」
「私どうしたらいい?」
そんなかわいらしい言葉を口にしていた。
僕は、「公園でどう? 家出れる? 何時になるかわからんけど……」
と尋ねた。
間髪を入れず、美咲は嬉しそうに答えた。
「出れる!」
「でもバイクやから、いつごろ着くかよくわからんで……。遅くなったらどうしよう?」
それでも美咲は怯まず、「何時でもいいから!」と興奮気味に答えた。
「じゃ、着くちょっと前に連絡するわ」
「わかった! ぜったい安全運転で来てや! 途中で事故ったら怒るで!」
電話を切ったあと、僕は少しだけ胸が高鳴り、なかなか眠れなかった。
翌朝。
真夏の陽光が東の空を照らし始めた。朝10時前。
頭はすっきりしていた。
僕は愛車のスティードに荷物をくくりつけた。
リアシートには、昨夜約束した通り、美咲のために買った新品のヘルメットをバンジーコードでしっかりと固定する。背中には、美咲の今まで送ってくれたカセットテープと必要なものだけを詰め込んだボストンバッグ。ただ気がかりだったのが、買って間もないコンポ・・もって帰るわけにもいかないので、次の人の為の置き土産として、残すことにした。
スターターボタンを押すと、ドスドスドス……というVツインエンジンの重厚な音が、まだ静まり返った寮の駐輪場に響き渡った。
5か月間通い詰めた工場。追浜の駅前。夜な夜な繰り出したドブ板通り。
バイクにまたがり、クラッチをつなぐ。
横須賀の景色が、流れるように背後へと去っていった。
(さらば横須賀。さらば、マスター、ひなた。僕は大阪へ帰る)
ルートはシンプルだ。
横浜から国道1号線に入り、箱根の山を越え、静岡、愛知、三重、滋賀を経て大阪を目指す。
箱根のワインディングロードを走り抜けると、目の前に駿河湾の青い海が広がった。
真夏の太陽が照りつけ、アスファルトからは、もわっとした熱気が立ち上る。
ヘルメットの中は汗で蒸れたが、走っている間は夜風や海風が身体を冷やしてくれた。
正午過ぎ。
由比海岸のバイパスを走りながら、左手に広がる、どこまでも青い太平洋を眺めた。
途中、サービスエリアで冷たい缶コーヒーを飲み、煙草に火をつける。
そして、胸ポケットに入れた美咲のカセットテープに、そっと触れた。
テープに込めた言葉と、電話で泣きじゃくりながら伝えてくれた美咲の声が、何度も胸の中によみがえった。
走れば走るほど、あの言葉たちが心の中で繰り返される。
横須賀で過ごした怒涛の5か月間。そして、昨日まで抱えていた迷い。
それらが、バイクの排気音とともに吹き飛んでいくようだった。
名古屋を抜け、亀山から鈴鹿峠を越えて滋賀へ。
京都の街を横目に通り過ぎ、ついに地元・大阪の堺市内へと入る頃には、西の空が深みのある鮮やかなオレンジ色から、切ない紫色のグラデーションへと移り変わり始めていた。
8時間近くスティードに乗り続け、お尻も腰もバキバキ。全身の筋肉が悲鳴を上げていた。
それでも、見慣れた堺の街並みが視界に飛び込んできた瞬間、溜まっていた疲労なんて、どこかへ吹き飛んでしまった。
かつて毎日のように走った道。見慣れた看板。そして、懐かしい景色。
もうすぐ、美咲に会える。約束通り、公園に到着する直前に電話をかけた。
「もうすぐ着くで」
短くそう伝える。
受話器越しに、美咲が息をのむ気配がした。
それだけで、胸の鼓動が一段と速くなるのがわかった。
すっかり薄暗くなった夕暮れの街。
僕は吸い寄せられるように、あの懐かしい児童公園の前にスティードを滑り込ませた。
ここは、僕と美咲が毎日のように顔を合わせていた、二人にとって特別な待ち合わせ場所だった。
探偵事務所の仕事終わりや、ちょっとしたドライブ、デートの時。いつも、ここに集合していた。
そして何より、初めて美咲と出会った日、みんなで遊んだ思い出の場所でもあった。
バイクのエンジンを止めると、腹に響いていたVツインの重厚な排気音が、ふっと消えた。
静まり返った公園には、夏の終わりの虫の声と、遠くから聞こえる生活音が心地よく響いていた。
ヘルメットを脱ぎ、額の汗を拭いながら立ち上がる。
公園にぽつんと灯る黄色い街灯。その下、ブランコの横に、一人の人影があった。
ソワソワと足を組み替えながら、道路の方を気にしている。
美咲だ。
白いワンピースを着ていた。
相変わらず、飾らない等身大の姿。髪を何度も気にするように触りながら、バイクの音が聞こえた道路の方を、必死の眼差しで見つめていた。
僕はバイクから降り、一歩一歩、確かな足取りで彼女へと歩み寄った。
「美咲?」
少し低めの声で呼びかけると、彼女はハッと肩を揺らし、弾かれたようにこちらを振り返った。
目の前に立つ僕の姿が信じられないというように、美咲は目を丸くして見つめてきた。
僕が照れくささを隠しながら、昔のように少しイタズラっぽく笑ってみせると、彼女の大きな瞳から、ボロボロと一気に涙が溢れ出した。
「ダ……ダー!?」
「おう。待たせたな! ハイエナ!」
僕が冗談交じりにそう言うと、美咲はブランコの横からゆっくりと近づいてきた。
そして、そのまま僕の胸の中へと入ってきた。
「遅いねん……ほんまにバイクで帰ってくるなんて思わへんかったやんか……。途中で事故ったんちゃうかと思って……ホントにバイク買ったんや……」
僕は、
「有言実行! やからな」
と、自慢げに答えた。
美咲は何も言わず、僕の胸に顔を押しつけてきた。
ん? これは抱きしめてほしいのか?
今、そのタイミング?
戸惑いながらも、僕は何も言わず、思いっきりギューッと抱きしめた。
すると、美咲も僕の腰に手を回してきた。
いい匂いだ……。
シャンプーか?
なんだか懐かしい匂いと、美咲のぬくもりを感じた。
美咲は何も言わず、僕に回した腕に、いっそう力を込めてきた。
ん? 泣いてる?
顔を見せようとしない。
僕は優しく声をかけた。
「美咲? どうした?……ただいま」
美咲は、ただ一言だけ答えた。
「おかえり……くそ野郎」
僕の服をぎゅっと掴み、静かに涙を流している美咲の華奢な肩を、僕は溢れる想いを込めて、しっかりと抱きしめ返した。
「こんなとこ、お母さんに見られたら大変やで……」
そう言うと、美咲は泣き声で返した。
「別にいい……」
昔と変わらない、夏の終わりの夜風が二人を包み込むように優しく吹き抜けた。
そして、遠回りした僕らの時間が、今、再び動き始めた。公園の時計は時間は19時前を指していた。




