第30章 遅れて届いたメッセージ
これまで美咲が送り続けてくれていたカセットテープ、そしてメッセージの意味が、ようやく分かった気がした。
そして今、目の前に届いた新しいカセットテープによって、それが鮮やかに、そして切なく明らかになったのだ。
届いたのは、C-30のカセットテープ。裏面のインデックスカードに書かれた曲名は、たった一曲だけだった。
『いつまでも変わらぬ愛を』
添えられたメッセージの用紙には、ただ一言、乱暴で愛おしい文字が躍っていた。
『聞きやがれ! バーカ!』
その不器用な文字を見た瞬間、あの『The Power of Love』に込められた意味が、静かにほどけてつながっていくのを感じた。
美咲は僕のために、時間もお金もかけて、自分の溢れるほどの気持ちをずっとぶつけ続けてくれていたのだ。
あの曲が伝えていたのは、何があっても愛する人を守り抜こうとする気持ち。そして、たとえ距離が離れていても、心はいつも相手のそばにあるという想いだった。
美咲は、毎回カセットテープを送り続けることで、どれだけ離れていても、僕とのつながりを絶やさないようにしてくれていたのだ。
横須賀に来る前の喧嘩も、すれ違いも、彼女のまっすぐな愛の前では、もう何の意味も持たなくなっていたのかもしれない。
そんな美咲の、悲痛なまでの愛のメッセージに、僕はずっと気づかずにいた。
そして今日届いた、たった一曲だけのテープ『いつまでも変わらぬ愛を』。
そこに大きく書かれた『聞きやがれ!』というメッセージ……。
それこそが、強がりな彼女が精いっぱい差し出してくれた、飾り気のない本当の心だった。
僕はベッドの上に、今まで美咲から送られてきたメッセージとカセットテープを一面に広げた。
しばらく、息をすることすら忘れたように動けなかった。
夕暮れの部屋では、コンポから『The Power of Love』が静かに、そしてドラマチックに繰り返し流れていた。
そして、僕はもう一つ重大な事実に気がついた。
『The Power of Love』が入っていたテープの消印を見ると、それは一番最初に送られてきたカセットテープだったのだ。
美咲は、最初から、ずっと変わらず僕に愛を伝え続けていた。
僕はこの数か月間、一体何をしていたんだ……。
自分の弱さから逃げるように横須賀へ来たくせに、美咲からカセットテープとメッセージが届くたび、悪態をつかれたように感じてイラッとしていただけだった。
でも、美咲にとっては、それが遠く離れた僕と心をつなぎ止める、たった一つの命綱だったのだ。
数日前、湘南の波打ち際で、ひなたちゃんが遠くを見つめながら話していた言葉が、波音のように耳の奥で蘇る。
「わたしだったら距離なんて関係ないかなぁ。どこにいたって、気持ちが無きゃ同じだと思うし。たとえば、いつも一緒に横にいても気持ちが無かったら意味ないじゃん? 逆に離れていても、気持ちさえ繋がっていれば……」
あのひなたちゃんの切ない言葉は、まさに『The Power of Love』そのものだったのだ。
気づくと、視界がじんわりと熱いもので霞んでいき、ポロポロと涙が溢れ出てきた。
そのまま僕はベッドに倒れ込み、涙で滲む無機質な天井を、ただじっと眺めた。
胸の奥が痛いほど熱く、締めつけられる。
(僕も……何か美咲に……僕の想いを届けたい……)
そう思いながらゴロリと寝返りを打った、その時。
コンポが置かれている机の脚に目が留まった。
もともと脚に不具合があって傾いていた机。その足元には、工場から拾ってきた、ちょうどいいサイズの五センチ四方の木材を挟み込んで、高さを調整していた。
僕は吸い寄せられるように、その木材を抜き取った。
机がガタンと傾いたが、上に置かれたコンポは何とかバランスを保っている。
そんな斜めになった世界のことなど気にも留めず、僕は押し入れの奥にしまい込んでいたボストンバッグの中から、一本のナイフを取り出した。
そのナイフは、昔、宮大工をしていた大好きな爺ちゃんの形見だった。
幼い頃、おじいちゃんの作業場で木の匂いに包まれながら、夢中で見よう見まねの手伝いをした記憶が蘇る。
宮大工の木組みの基本、欄間彫刻、昔から手先が器用だった僕の手に、おじいちゃんが残してくれた、唯一の技術だった。
ナイフを片手に持ち、壁に掛けられたカレンダーに目をやった。
「8月」と大きく記された数字の下には、一機の飛行機の写真があった。
ボーイング・ステアマン、Model 75。
第二次世界大戦当時、アメリカ陸海軍の練習機として青空を飛んだ、優美でクラシックな複葉機だった。トニーがくれたそのカレンダーの飛行機に、僕は自分の翼を重ねた。
無心で木材にナイフの刃を入れ、削り始めた。
静かな部屋に、木を削る音だけが響く。
トントンと、木くずが落ちていった。
何時間が経ったのだろう。
窓の外は、群青色から茜色へ、そして眩しい朝の光へと移り変わっていった。
工場の始業時間が過ぎていくことなど、今の僕にはどうでもよかった。
ただ、美咲への想いだけを刃先に込め、一筋一筋、木を削り続けた。
気がつくと、真夏の太陽が部屋を包み込む午後一時になっていた。
出来上がった。
指先の中で光を浴びているのは、完璧なボーイング・ステアマンのフォルムだった。
上下二枚の美しい翼が重なり、その前には、小さなプロペラが風を待つように誇らしく佇んでいる。
全長三センチくらいだろうか。
見事な一刀彫だった。
これを美咲にあげたい。
木切れ一つに、たいした価値などないことは分かっている。
けれど、ここには言葉にできない僕の時間と、溢れる想いが詰まっている。
この心を届けたかった。
そこで、ふと思った。
僕も美咲と同じやり方で……音楽に乗せて、僕の答えを返そう、と。
僕は吸い寄せられるように寮を出て、夏空の下、駅前のレンタルビデオショップへと走った。
店内には、当時の甘酸っぱい青春の匂いが漂っていた。プラスチックケースの独特な匂い。少し薄暗い照明の中に、最新のCDやビデオが並んでいる。
僕は迷わずCDコーナーへ向かい、今の胸の高鳴りと、美咲へのまっすぐな想いを代弁してくれる数曲を選び取った。
録音用の空のカセットテープと大きな封筒を買い、帰り道の眩しい陽射しの中で切手も買い求めた。
真夏の風が通り抜ける部屋に戻ると、僕は傾いた机の上のコンポにCDと買ったばかりのカセットテープをセットし、静かに録音ボタンを押した。
テープが回る低音とともに、僕の心が音になって刻まれていく。
(この曲なら、絶対に僕の気持ちが伝わる。美咲、お前なら分かってくれるやろ……)
二人だけの暗号のような、このやり取り。
だからこそ、あえて電話なんて使わなかった。
録音が終わると、僕は一枚の便箋にペンを滑らせた。
『ハイエナ美咲へ。
聞きやがれ! これがこたえじゃ!
待っとけ! ば~か。』
なぜ「ハイエナ」なのか。
大阪にいた頃、僕が一度だけ美咲からの電話を無視し続けたことがあった。初めて身体の関係を持った後のことだ。
その時、彼女はしつこく、何度も何度も電話をかけてきた。
諦めて電話に出ると、美咲は自分からこう言ったのだ。
「私からは逃げられへんで! ハイエナ美咲やから!」
「しつこい女」という意味で、ハイエナと表現したのだろう。よく分からない例えではあるが……。
でも、今となっては愛おしくて、愛おしくてたまらない。二人だけの特別な呼び名だった。
僕はそのメモと、心を込めて録音したカセットテープ、そして翼を広げた木彫りのボーイング・ステアマンを、壊れないように梱包して封筒へ入れた。
寮を出ると、夕暮れの赤に染まる街の中、すぐ外にある赤い郵便ポストの口へ、その封筒を愛おしむように滑り込ませた。
ポストの底に届いた音を聞き届け、ふと天を仰いだ。
夕焼けの美しいグラデーションが、空一面に広がっていた。
……そこで、僕はハッと正気に戻った。
(あ…………今日、無断欠勤してもーた……)
ドラマチックな余韻も、美咲への愛の誓いも、一瞬で吹き飛んだ。
あまりの事態の重さに青ざめた僕は、夕暮れの路上でガクッと膝から崩れ落ちたのだった。




