第29章 ひなたと湘南
夜の19時。僕は部屋着から私服に着替え、バイクで横須賀駅へと向かった。
昼間の灼熱のような暑さは多少和らいでいたものの、夜になっても、むっとした熱気がまとわりついてくる。駅前のロータリーには、提灯の明かりが灯る居酒屋の看板や、仕事を終えたサラリーマン、工場勤務を終えた期間工たちの姿がぽつぽつと見えた。昼間の喧騒が嘘のように、どこか長閑で、少し物悲しい地方都市の夜の空気が漂っていた。僕はバイクを駅の裏側にある路肩に駐車し、ロータリの方へ向かった。
改札口の近く、黄色い明かりに照らされた待ち合わせ場所で、僕はウォークマンのイヤホンを外した。タバコに火をつけ、煙をくゆらせながら待つ。
(ほんまに来るんかいな……)
半信半疑でロータリーのタクシー乗り場や階段のあたりを眺めていると、京急の電車が到着したらしく、ドアの開閉音が遠くから響いた。改札から、ぱらぱらと人が出てくる。
その人波の中に、周囲の横須賀の空気とは明らかに違う、華やかなオーラをまとった小柄な女性がいた。
帽子を深くかぶり、へそ出しTシャツにミニスカート。抜群のスタイルと洗練された雰囲気は、隠そうとしても隠しきれない。
ひなたちゃんだ!
彼女は周囲を気にするようにキョロキョロと辺りを見回し、僕の姿を見つけると、ぱっと表情を明るくして手を振ってきた。
「たけさん! お待たせ~!」
小走りで近づいてくる彼女を見ながら、やっぱりめちゃくちゃ可愛い……と、改めて思った。グラビアアイドルには、ここまでのオーラがあるのか。
「ひなたちゃ~ん! こんなところまで来させてごめんね~」
とりあえず謝ると、ひなたちゃんはクスッと笑った。
「何をおっしゃいますやら、たけさんに会いたかったのです!」
信じられないような言葉!
天使か! この子は天使なのか!
心の中で叫びながら、僕は尋ねた。
「どうする? どっか行きたいところある?」
一応、グラビアアイドルなのだから、顔が知られたら大変なのではないか。そんなことも考えていると、ひなたちゃんはとんでもないことを言い出した。
「たけさんの行きたいところなら、どこにでもいきますよぉ~」
うぉ~~~……。
これはもう、自分を見失ってしまいそうだ。僕の心の中の悪魔が、天使を踏みつけようとしている。
そんなことを考えていると、彼女は申し訳なさそうに付け加えた。
「たけさんのおすすめのお店とかあったらいきたいな~……あっ! でも、ごめんなさい! 一応、あまり人に見られたら……私なんかでも知ってる人は知ってるし、一応ファンもいるし……できるだけ目立たないところがいいな……」
なるほど。やっぱりテレビに出ていると、いろいろ大変なんだな。
人目が少なくて、顔が知られにくい場所。それでいて、適度に賑やかなところ……。
僕は考え込んだ。
ん? あるやん!
いいところを思い出した。あそこなら、きっと大丈夫だ。
「いいとこ思い出したで! 行こ!」
僕はひなたちゃんの手を取り、マスターのバーへと向かった。
いつの間にか、普通に手を繋いで歩いていた。周りから見たらカップルみたいなんだろうな……と思うと、ちょっと誇らしい気分になった。ひなたちゃんも嫌がる様子はなく、まんざらでもなさそうだった。
ただ、マスターの店があるのは、あの外国人街だ。
僕は平気だが、ひなたちゃんはどんな反応をするのだろう。
そんなことを考えながら、いかついSPがいる飲み屋街を、二人で軽い足取りで歩いていった。ひなたちゃんは平然としていた。(なかなか肝座ってる子やな・・)
店内に入ると、米兵が4、5人いるだけだった。カウンターにはマスターがいる。
僕たちは迷わずカウンター席に座り、マスターに挨拶した。
「いらっしゃい! おっ! 今日は彼女連れてきたの?」
マスターが、ニヤニヤしながら尋ねてきた。
「いや……」
僕が答える前に、ひなたちゃんが嬉しそうに聞き返した。
「やっぱり彼女に見えますか?」
僕はポカーンとした。マスターは僕とひなたちゃんを交互に見ながら、
「そうじゃないの?」
と首をかしげている。
僕が何も言えずにいると、ひなたちゃんは笑顔ではっきりと言った。
「友達以上彼氏未満ってとこです! 今のところは!」
マスターはニヤけながら、僕に視線を向けた。
「じゃぁ、これからだね~。色々と……」
とりあえず、僕はいつものモスコミュールを頼んだ。
「私も同じの!」
ひなたちゃんも、同じものを注文した。
そこからは、お互いの仕事のことやプライベートなことまで、いろいろな話をした。
ひなたちゃんは、どうやら鎌倉の方に住んでいるらしい。関西人の僕には距離感がいまひとつピンとこなかったが、ここから電車で1時間ちょっとくらいかかる場所だという。
ひなたちゃんからは、大阪のことをたくさん聞かれた。直樹のこと、姉やんのこと、岡下のこと、探偵をしていたこと……いろいろな話をした。
当然、美咲のことは話せなかった。
なぜか、ものすごい罪悪感があった。
すると、マスターがふと思い出したように尋ねてきた。
「そういえば、The Power of Loveの謎は解けたの?」
ひなたちゃんが不思議そうに聞き返す。
「The Power of Loveって何? 何のこと~?」
マスター! あれは……この子じゃなくて……今は……。
そんな思いが頭をよぎったが、僕は苦し紛れに答えた。
「いやぁ~、最近英語勉強してて……難しいね~、英語の謎は~……」
マスターに助けを求めるように言葉を濁すと、察してくれたのか、マスターも話を合わせてくれた。
「謎は謎のままにしておくか!」
ひなたちゃんは、
「え~、気になる~!」
と言っていたが、僕は強引に話題をモーガンのことへとすり替えた。
そんなこんなで時間はあっという間に過ぎ、気がつけば、もう12時前になっていた。
「ひなたちゃん! 電車! 大丈夫!?」
焦って尋ねると、彼女はきょとんとして、
「よくわかんない……ないかも……」
と呟いた。
「どうすんの? 明日も仕事やろ?」
「うん。朝一東京~!」
いや、尚更ヤバいやん!
「もう帰ろ!」
僕は叫び、手早く会計を済ませた。
酒が入っていい気分になっているひなたちゃんを店から連れ出す。彼女は少し千鳥足になっていたが、僕の酔いはすっかり醒めていた。
ひなたちゃん、これはかなりヤバいぞ。どうしよう。
ミニスカートなので、おんぶするわけにもいかない。とりあえず彼女の肩を抱き寄せ、右手で腰を支えながら駅方面へ向かった。
しかし……今、僕はひなたちゃんの生のくびれに右手で触れている。
細い……そして、すべすべとした肌の感触が指先から伝わってくる。
たまらない気持ちになる。
ひなたちゃんは、今にも眠ってしまいそうな声で呟いた。
「たけさん……ごめんね……こんなつもりじゃ……」
この状態でグラビアアイドルを電車に乗せるのは無理だ。
(バイク! バイクなら乗れるか……?)
幸い、僕はバイクで来いる。駅近くに止めていた。スティードにはシーシーバー、つまり背もたれがついている。ある程度意識が残っていれば、後ろに乗せて送っていけるはずだ。
「バイクあるけど、後ろ乗れそう? 鎌倉まで送っていくよ」
僕が顔を覗き込んで尋ねると、ひなたちゃんはパッと顔を上げた。
「乗りた~い!!」
深夜の街に響き渡るような声だった。
(さっきまで顔バレ気にしとったのに……)
思わず苦笑しながら、肩を貸したまま、やっとの思いで駅前までたどり着いた。
ひなたちゃんに予備のヘルメットを被せ、スティードの後部シートにまたがらせる。ミニスカートから伸びる白い脚がアメリカンの車体に映えて、とてつもなくセクシーで目の毒だった。
だめだ! 今はそんなことを言っている場合じゃない。
僕もヘルメットを深くかぶり、エンジンを始動させた。
ドスドスドス……。
重厚なVツインの鼓動が、静まり返った真夏の深夜に低く響き渡る。
ひなたちゃんが後ろから僕のウエストにしっかりと両手を回し、背中にぺたりと身体を預けてきた。柔らかい温もりと心地よい重みが、背中越しに伝わってくる。
おっぱいでかい……と思いつつ。
時計の針は、深夜1時を回っていた。
重いクラッチをつなぎ、僕たちは静まり返った横須賀の街へと滑り出した。
昼間の灼熱が嘘だったかのように、夜の海風が心地よく肌を撫でていく。街灯のオレンジ色の光が、黒く濡れたアスファルトの上を幾重にも流れては消えていった。
横須賀から鎌倉へと続く山あいの道に入ると、沿道の濃密な夏草の匂いと冷ややかな夜気が、ヘルメットの隙間から吹き込んできた。
バックミラーをちらりと見ると、ひなたちゃんは僕の背中に額を押し当てたまま、気持ちよさそうに目を閉じていた。まぁ、ヘルメット越しではあるが・・。
頭上には、雲の切れ間から満天の星空と青白い月が浮かんでいる。
昼間の工場の騒音や汗臭さ、そして『The Power of Love』の解けない謎や美咲への罪悪感さえも、この幻想的な夜のドライブの中では、遠い出来事のように思えた。
エンジンの地響きのような重低音と、背中に伝わる彼女の温かい呼吸だけが、静寂の夜の中に確かに存在していた。
風を切って走るスティードは、月明かりに照らされたワインディングロードを抜け、眠りについた鎌倉の街を目指して、どこまでも夜を切り裂いて進んでいった。
途中、ひなたちゃんはバイクを走らせる夜風で目が覚めてきたようだった。
「たけさ~~ん! きもちいい~~!!」
ヘルメット越しに聞こえた叫び声で、彼女の意識がしっかり戻ってきたのが分かった。走る夜風が心地よく、酔いをすっかり吹き飛ばしてくれたらしい。
途中、明かりの眩しいコンビニに立ち寄り、冷たい缶コーヒーを買って少し休憩した。ひなたちゃんは、もう完全に目が覚めていた。
「たけさん! バイク最高だね!!」
瞳を輝かせて言う彼女に、僕は答えた。
「そやね! でも昼間なら景色も見えて、もっと気持ちええかもね~」
「夜でも全然いいよ~!」
弾んだ声でそう答えたひなたちゃんは、ふと何かを思い出したようにパッと顔を上げた。
「あ! 湘南寄ろうよ! 江の島にね~、いいところがあるんだ! 行こ!」
言い終わるやいなや、彼女は早々とスティードの後部シートにまたがった。
「道は私が教えるから任せて! GO~!」
明日の朝イチの東京での仕事は、ほんまに大丈夫なんかいな……。
一瞬そんな考えが頭をよぎったが、夜風に心地よく背中を押された僕たちは、そのまま湘南へ向けて走り出した。
134号線に出ると、左手には夜の漆黒の海がどこまでも広がっていた。打ち寄せる波の音と、ほのかに湿った潮の香りがヘルメットの中に飛び込んでくる。
オレンジ色の街灯が続く海沿いのストレートを、スティードの排気音を響かせながら軽快に駆け抜けていく。ひなたちゃんが指差す通りに進路を変え、僕たちは夜の静寂に包まれた江の島へと渡る橋を走っていった。
島に入り、急な坂道を少し登った高台の展望スポットに着いた。
昼間の賑わいが嘘のように静まり返ったその場所には、いくつもの「愛の鍵」が鎖やフェンスにぎっしりと繋がれていた。月明かりに照らされた鍵たちが、怪しくも美しい光を放っている。
「ここ、恋人たちが鍵をかけて永遠の愛を誓う場所なんだよ」
ひなたちゃんはそっとフェンスに手を置き、海を見下ろしながら静かに呟いた。
その言葉の裏にある彼女の純粋な想いが透けて見えるようで、胸がキューッと締め付けられた。
「へぇ……こんな場所があったんやな」
僕が呟くと、ひなたちゃんは振り向き、少し照れくさそうに笑った。
「たけさんは誰か好きな人いる? 心に思ってる人とか?」
突然の質問にびっくりした。
けれど、どうしてだろう……今、ひなたちゃんと一緒にいるのに、その質問に対して浮かんできたのは、美咲のあの笑顔だった。
それを察したのか、ひなたちゃんはからかうように言った。
「いるんだね~、やっぱり!!」
そして、どこか寂しそうに笑った。
「やっぱいるか……その子、幸せだね!」
(幸せ?……誰が?……美咲? いや! 今はひなたちゃんと一緒にいるんだ! 失礼だ!)
僕は心の中で自分に言い聞かせた。
その後、僕たちはバイクで湘南沿いを走り、駐車場に停め、ヘルメットをシートに置いて、夜の湘南の砂浜へと降りていった。
昼間の熱気をまだほのかに残す温かい砂を踏みしめながら、波打ち際を二人で並んで歩く。寄せては返す白い波頭が、青白い月光を受けてキラキラと揺れていた。
波の音だけが周囲を満たす、贅沢な静寂。その中で、僕たちの足跡が砂浜に二筋の線を描いていく。
ひなたちゃんはサンダルを脱ぎ捨て、素足で冷たい海水に足を浸しながら、ふふっと楽しそうに笑った。
「たけさんとこうやって二人で海を歩けるなんて、なんか夢みたいだな~」
(こっちこそ夢を見ているみたいだ!グラビアアイドルだぞ!)
以前、テレビのドッキリのあと、しょうとコンビニに寄ったとき、しょうが雑誌の中から、ひなたちゃんのグラビア写真を探し出して見せてきたことがある。
黒いビキニ姿で砂浜に四つん這いになり、誘うような表情をカメラに向けていた、何ともエロティックな写真だった。
そのひなたちゃんが、今、僕の横にいる。
そんな目で彼女を見ている自分が、なんだか恥ずかしかった。
ひなたちゃんは風に揺れる髪を押さえながら、まっすぐな瞳で僕を見つめてきた。その美しさと儚さに、一瞬息をのんだ。
「今日は、私にとってはすごく刺激的で楽しかった。毎日毎日仕事しんどくて……でも元気出た! たけさんのおかげだよ」
「俺の方こそ、グラビアアイドルとこんな夜中に湘南歩くなんて、一生に一度の経験やわ」
(この瞬間が、一生続いてくれないかな……と、本気で思った。)
照れ隠しに軽口を叩くと、ひなたちゃんは僕の腕をぽんと叩いた。
「もう、彼女いるくせに!」
それから、少し大人びた表情で遠くの水平線を見つめた。
「たけさんの彼女ってどんな人?」
(彼女?……いや、彼女なのかな……)
答えに詰まっている僕に、ひなたちゃんは海を見つめたまま言葉を紡いだ。
「でもさ、大阪と神奈川って遠いよね……。でもね! わたしだったら距離なんて関係ないかなぁ。どこにいたって、気持ちが無きゃ同じだと思うし。たとえば、いつも一緒に横にいても気持ちが無かったら意味ないじゃん? 逆に離れていても、気持ちさえ繋がっていれば……私はその方がいいな。だから『いつも一緒にいる』って思っていられることが、一番大事なんだと思う」
——離れていても、気持ちさえ繋がっていれば、か……。
「ダメだ……私、まだ酔ってるのかな? なんかわけのわからないこと言ってる気がする……」
ひなたちゃんは恥ずかしそうに下を向き、黙り込んだ。
そして、波音に消えそうなほど切ない声で付け加えた。
「明日からはまたお互い忙しい日常に戻っちゃうけど……今日のこの夜のこと、絶対に忘れないからね!」
夜風に乗った彼女の優しい声と、ずっと胸に引っかかっていた曲の答えが重なり合い、真夏の夜の海辺に静かに染み渡っていった。てか・・結局ひなたちゃんは何で、今日、当然僕を誘ったのか・・その答えはもう永遠に分からない。




