第28章 The Power of Love
気づけば、8月の頭を迎えていた。
3月下旬に横須賀へやって来てから、もうすぐ5か月が経とうとしている。
朝の8時前だというのに、太陽は容赦なく照りつけ、アスファルトからはすでに、むわっとした濃密な熱気が立ち上っていた。蝉の突き刺すような鳴き声が街中に響き渡り、歩いているだけで作業着の背中がじんわりと汗ばんでくる。
寮を出て、いつもの通勤路を歩く。
先月まで隣を歩いていたしょうの姿は、もうどこにもない。
あの10万円を手にして、あいつは本当に青森へ帰っていったのだ。最後に、あいつは部屋の机にこんな書き置きを残していた。
『僕たち二人はスコーピオン! 男の中の男! 男である以上、必ず借りは返しに行きます! お世話になりました!』
一人になった通勤路は、どこか物足りなく、寂しさもあった。
その一方で、いつも僕の周りをチョロチョロしていた金髪ヤンキーがいなくなったことに、少しホッとしている自分もいた。
あいつには悪いが……。
そして今、僕の耳と心は、別のものに完全に占領されていた。
ウォークマンから伸びるイヤホンを両耳に差し込み、再生ボタンを押す。
流れてきたのは、FIELD OF VIEWの『この街で君と暮らしたい』。
美咲が最後に送ってきた、あのテープに入っていた曲だ。
爽やかで、どこか切ないメロディと真っ直ぐな歌詞。最近の僕にとって、この曲はすっかりヘビーローテーションになっていた。
朝の澄んだ空気――それでいて灼熱の夏の空気の中でこの曲を聴いていると、猛暑の鬱陶しさも少しだけ和らぐような気がした。
歩道の向こうには青々とした街路樹。夏の強い光を浴びて、ビル群が白く輝いている。
工場へ向かう期間工たちの群れに紛れながら、僕は心の中で何度もそのフレーズを繰り返していた。
(この街で君と暮らしたい……か)
工場に到着し、着替えを済ませて自分の持ち場へ向かう。
ドア取り付けのラインに立つと、朝一番から、巨大な蒸し風呂のような熱気が充満していた。プレス機の重低音や、インパクトレンチの甲高い金属音が工場内に響き渡る。周囲の作業員たちは、黙々と汗を流していた。
僕は手慣れた手つきで、次々と流れてくる車体にドアを取り付けていく。
作業の合間も、頭の中ではずっと『この街で君と暮らしたい』の旋律が流れていた。
身体が自然に動き、意識しなくても作業をこなせる「レベルMax」に達した今だからこそ、音楽と一緒に、いろいろなことを深く考えられる。
そして、ふと思い出す。
あの日、301号室でセリーヌ・ディオンの曲を流しながら、あの手紙を開いた瞬間のことを。
胸が強く跳ね上がった、あの強烈な「ドキッ!」という感覚。
それに、美咲が送ってきたFIELD OF VIEWのテープには、『突然』や『DAN DAN 心惹かれてく』と一緒に、まさに『ドキッ』というタイトルの曲も収録されていたのだ。
(なんなんやろな、これ……)
汗を拭いながら、レンチを握る手に少しだけ力を込める。
あの手紙を開く直前に感じた、理由のない胸騒ぎ。
そして、開いた紙に書かれていた、美咲のまっすぐで不器用な問いかけ。
『いつ帰ってくるの!?……バカ!』
あの奇妙な胸の鼓動と、FIELD OF VIEWの『ドキッ』という曲。
ただの偶然と言ってしまえば、それまでだ。
美咲が、狙ってそんな仕掛けをするようなタイプでもない。
けれど、あのときの僕の感情の高ぶりと、彼女がくれたテープに刻まれた曲のタイトルが重なったことに、どうしようもなく運命めいた可笑しさと切なさを感じてしまう。
『いつ帰ってくるの!?』
工場内のけたたましい機械音の隙間から、美咲の叫びのような声が聞こえた気がした。
ラインの上を整然と流れていくボディにネジを締め込みながら、僕は心の中で思っていた。
(なんか最近、美咲のことばっかり考えてるな……)
仕事のときも、休みの日も。
振り払おうとしても、なかなか振り払えない。
というより、振り払いたくない自分が、どこかにいるような気がしていた。
17時になり、もう残業をしようとも思わなかった。
僕は着替えを済ませ、ウォークマンを聴きながら、そそくさと帰路についた。
いつもの街の風景。いつもの海の匂い。
通り過ぎる公園では、親子が楽しそうにサッカーボールで遊んでいる。
平和そのものだった。
寮に着き、部屋に入ると、コンポの電源を入れた。
スピーカーから流れてきたのは、『The Power of Love』。
僕はベッドに横になり、天井を眺めながら、先週の休みの日のことを思い返していた。
『The Power of Love』を聴いていたとき、この曲が、なんだか美咲からのメッセージのように思えたのだ。
最初は、英語の意味も分からないまま「なんとなくいい曲だな」と聴いていた。
ところが、だんだん気になり始めた。
探偵時代の「調査」という習性が染みついているのか、気になり出すと止まらない。
休みの日、僕はこの歌の意味が無性に知りたくなった。
そこで、モーガンたちとよく行ったバーへ足を運び、マスターに歌詞の内容を尋ねてみた。
翻訳を聞いて、僕は少し驚いた。
(これって、もしかしてメッセージなんちゃうか?)
そう思ってしまうほどの内容だったのだ。
美咲は外語学院に通っていた。英語の歌詞の意味は、当然知っているはずだった。
マスターは「この曲は要するに『あなたのためなら何でもする』って言いたいのかな?」と言って、歌詞の意味を説明してくれた。
『眠っている恋人、朝になると囁き合う。あなたの瞳を見ると、稲妻のように鳴り響く。
あなたの体を抱きしめて、その動きの一つひとつを感じて。あなたの声は温かく優しい。
この愛は何に代えても守り抜く。だって私はあなたの運命の女性、あなたは私の運命の男性。あなたが手を伸ばせば、いつだって私はなんだってする。
もしも二人の距離が遠く感じることがあったとしても、どこにいるかなんて関係ない。
だって私がいるのはいつもあなたの横。私はあなたのために生まれてきて、あなたは私のために生まれた。
手を伸ばせば、いつだって私はあなたのためになんだってする。二人でともに何かを求め、進んでいく。たとえ行ったことのない場所だって、私は準備ができている。
あなたの愛の力を知りたい。波打つあなたの鼓動の音が突然教えてくれた。続けられないなんて気持ちは、もうどこかへ吹き飛んだ。
だって私はあなたのものだし、あなたは私の大切なひと。あなたが私を求めるのなら、私はなんだってする。私たちは求めるものがあるから前へ進む。
行ったことのない場所だって怖くなって震えてしまうけど、私は準備ができている。愛の力をいま感じてる……』
マスターは訳し終えると、こう付け加えた。
「英語の翻訳は日本語みたいにバッチリとははまらないけど、私の感覚ではまあこんな感じかな」
僕は、歌詞の中から心当たりのあるフレーズをノートに抜き出してみた。
これも探偵時代の癖なのか、調べ出したら止まらなかった。
そして、どれも自分たちに当てはまっているような気がした。
特に気になったのは、僕が大阪で超ダサい告白をしたとき、美咲が直樹に「(武人は)私の大事な人だから」と告げたという話だった。
これは、僕の考えすぎなのだろうか。
しかも、今になって気がついたことがあった。
この『The Power of Love』は、特選洋楽ヒット曲集として送られてきたテープのA面に入っていた。
だが、カセットケースの裏面にある曲目のインデックスカードを見ると、なぜかこの曲のタイトルだけ、ボールペンではなく、昔よく使われていた極細のマッキーで書かれていたのだ。
そう。この曲だけ、明らかに違うペンで書かれていた。
最初は、単に「ボールペンが出なくなったから、一時的にそばにあったマッキーで書いて、ほかのボールペンが見つかったからまた戻しただけか」くらいに思っていた。
このときの僕は、まだ何も知らなかったのだ。
その一本のペンの違いが、何を意味していたのかを。
今日もいつも通りの一日を終え、部屋でゴロゴロしていた。
例の『The Power of Love』の謎は、まだ解けないままだった。
ちょっとイライラしていた。
そんなとき、電話が鳴った。
画面には「ビキニひなた」と表示されていた。
(あっ! あの女だ! タレントか何か知らんけど、僕をハメた女や!)
……まあ、「ハメた」は言いすぎか。仕事でやっていたことだし。
僕は電話に出るかどうか迷った。
またハメられるかもしれない。
いや、でも電話でハメようがないか。
とりあえず出ることにした。
警戒しながら、携帯電話の通話ボタンを押した。
すると、電話の向こうから、かわいらしい声が聞こえてきた。
「もしもし? たけさん?」
続いて、
「ひなたですけど、わかりますか? 覚えてますか?」
と言ってきた。
僕は、ちょっとわざとらしく答えた。
「あ~、ひなたちゃん! 覚えてるで~! どうしたん?」
まずは探りを入れてみる。
すると、ひなたちゃんも探るように聞いてきた。
「たけさんって今、何してますか?」
ここはどう答えるべきか……。
まさか『The Power of Love』の謎を解いてました、なんて言えるわけもない。
「今はゴロゴロしてる~」
普通にそう答えた。
すると、ひなたちゃんから意外な言葉が飛び出した。
「もし、たけさん今暇なら……私、いま横浜なんだけど、ちょっと会えないかな~なんて思って……無理なら全然いいよ!」
まさかのお誘いだった。
(マジか……これは……またドッキリか??)
そう思った僕の考えを見抜いたのか、ひなたちゃんは、僕が聞く前に言った。
「あっ! これはTV関係ないですから!」
ホッと安心した。
しかし、それなら――。
毒を食らわば皿まで。据え膳食わぬは男の恥。
やってやろうではないか!
相手はグラビアアイドルだ。
僕は聞いてみた。
「TVじゃなかったらいいよ~。ひなたちゃん一人?」
ひなたちゃんは、少しテンションが上がったのか、かわいらしい声で答えた。
「うん! 今は一人! 今日は仕事休みで、さっきまで横浜の友達に会ってたんだ」
「いま横浜なんや~」
そう返しながら、心の中では思っていた。
(ちょっと遠いな……)
どうしようか迷っていると、ひなたちゃんが言った。
「横須賀行こうか?」
(マジか!)
ちょっと興奮した。
「わざわざいいの?」
そう聞くと、彼女は笑いながら答えた。
「わざわざも何も、私が誘ったんだから当たり前じゃん!」
そんなやり取りの末、横須賀駅で20時に待ち合わせることになった。




