第27章 しょうの裏切り
7月中頃、いつものように僕は工場でせっせとドアを取り付けていた。
広い工場内は、逃げ場のない熱気が充満する巨大な蒸し風呂状態だった。各自の作業場にはスポットクーラーが置かれているものの、汗は噴き出すそばから作業着に染み込んでいく。巨大なプレス機の重低音や、インパクトレンチの不連続な金属音が工場内に響き渡っていた。
僕は今日、日勤だった。
これからは、そんなに焦ってお金を稼ぐ必要もない。心には、どこかゆったりとした余裕ができていた。
そんな時、またライン待ちが発生した。
その瞬間、周りの人たちが一斉に、いちばん近くにあるスポットクーラーを目指して猛ダッシュする!
幸い、僕の持ち場にはいつも真横にスポットクーラーがあった。ドアの取り付けは結構大変な作業なので、配慮してくれていたのだろう。おかげで、いつも独り占めだった。
ラインが動き出すと、みんな慌てて持ち場へ戻っていく。
僕は最近、その待ち時間に冷たい鉄板の上に座り、スポットクーラーの風を浴びながら、みんなの様子を眺めていた。
(いつも誰が一番に来るんやろ?)
そんなことを一人で予想して楽しんでいた。毎日、そんな繰り返しだった。
僕のドア取り付けのレベルは、もうMAXになっていた。限られた時間内に4枚すべてのドアを取り付けられる。取り付けが終わった後の「ラッピング」という、車体を保護するシートを手ヘラで貼り付ける作業も難なくこなしていた。
ただ、工具のナットランナーの反動で、指が腱鞘炎になってしまった。この仕事ではよくあることらしい。
そんなことを思いながらも、ひたすら作業を続けていた。
すると、いつものブザーが鳴り響き、ライン待ちが始まった。
周りが一斉に動き出したその時、僕のラインの責任者である西村さんが、こちらへ向かってきた。
「武人くん! なんか事務所に電話かかってきてるよ!」
僕は言われるがまま、西村さんと事務所へ向かった。西村さんは僕の持ち場に代わりの人を連れてきてくれたので、ラインは再び動き出した。
事務所に入ると、工場長も心配そうな顔をしていた。工場長は何も言わず、電話の子機を渡してくれた。
電話に出ると、聞き覚えのない男性の声がした。
「携帯にご連絡させていただいたのですが、お出にならないようなので……失礼ながら、こちらにお電話させていただきました。少し確認したいことがありまして、連絡させていただいたのですが……」
それが、その男性の第一声だった。
話を聞いた僕は、気がつくと工場を飛び出し、駅に向かって猛ダッシュしていた。
真夏のギラギラとした日差しが容赦なく降り注ぎ、アスファルトからはモワッと熱気が立ち上っている。汗が噴き出すのも構わず、必死で足を動かした。
走る視界の端では、青々とした茂みや無機質な工場街の建物、遠くにギラつく横須賀の海が、ものすごい速さで流れていった。
(まじか……なんで……なにしてんねん……あいつ……どういうつもりや……)
胸の中で渦巻く激しい怒りを、必死で抑え込もうとしていた。
それでも、怒りのどこか裏側には、どうしてもあいつを心配してしまう自分がいた。
息を切らしながらたどり着いたのは、駅前にある消費者金融「武富士」だった。
店の前で荒い息を整え、自動ドアをくぐった。
店内はエアコンが強く効いていて、肌に刺さるほどひんやりとしていた。正面には長いカウンターがあり、お揃いの制服を着た女性店員さんが二人、こちらを向いて座っている。
カウンターの奥には、パーテーションで区切られた接客スペースがあった。足元しか見えなかったが、テーブルを挟んで向かい合うソファー席があるのが分かった。
片方のソファーには、男性二人らしき革靴が見えた。
そして、その向かい側――。
足元を見ただけで、一発で分かった。
間違いない。しょうだ。
受付の女性に声をかけ、案内されたパーテーションの中へ入った。
僕が顔を出すと、スーツ姿の男性二人が、困ったような、気まずそうな顔で深々と頭を下げてきた。
しょうは膝の上に手を置いたまま、うつむき、意地でも顔を見せようとしない。
男性店員の一人が、
「どうぞ、お掛けください」
とソファーを勧めてきた。
「立ったままでええです」
僕は短い声でそう返した。
男性の一人が、申し訳なさそうに口を開いた。
「先ほどお電話させていただいた者ですが……。先ほどもお話ししました通り、こちらの方がご融資の件でご来店されたのですが、身分証の提示をお願いしたところ、保険証を提示されまして。申し込み用紙の内容と生年月日などに多少の相違があったため、詳しくお話を聞いたところ、『あなたから頼まれた』とおっしゃられまして……」
男性は、しょうへ視線を向けた。
「あなたの保険証を不正に利用して融資を受けようとしている可能性もありましたので、本人に問い詰めても、それ以上は何も語らず……。お仕事中、大変申し訳なかったのですが、確認のためお電話させていただいた次第でして……」
「もし、ご承知のうえで……」
男性の話は、まだ途中だった。
僕の頭の中で、何かがブツンと切れた。
うつむいて座っていたしょうの方を向き、彼が座っているソファーごと、足で思いっきり蹴り上げた。
ガサガサガサッ!!
けたたましい音とともに、ソファーもろともしょうとパーテーションが勢いよく吹き飛んだ。
倒れたパーテーションが、床に転がったしょうの上に覆いかぶさる。僕はそのパーテーションをさらに蹴り飛ばし、倒れ込んだしょうの姿をあらわにした。
僕はしょうの胸元を両手でつかみ、壁に叩きつけるようにして背負い投げで投げつけた。壁に倒れかかったしょうの顔面を、容赦なく踏みつけた。
その間、わずか数秒。
店員たちは止める間もなく、ただ唖然としてその光景を見つめていた。
吹き飛んだパーテーションとソファー。衝撃で破れた壁のポスター。僕が蹴り飛ばしたパーテーションが直撃して倒れた本棚からは、チラシや雑誌が散乱していた。
「落ち着いてください!」
男性店員が叫びながら僕に抱きつき、必死で仲裁に入ってきた。
まあ、これ以上追撃するつもりは最初からなかった。
だからといって、優しく「どうしたんや?」なんて話を聞いてやるつもりも一切なかった。
中途半端に甘い顔をして済ませていい問題ではない。これは立派な詐欺だ。警察を呼ばれたら、こいつは逮捕されるかもしれない。
だからこそ、少しやりすぎなくらい派手に暴れて見せたのだ。
これだけの修羅場を見せつければ、店側も「大事にしたくない」と考え、警察に通報せずに見逃してくれるのではないか――。それが僕なりの計算だった。
まあ、たまたま場所が悪くて、店内がちょっと散らかりすぎてしまったが……。
僕はすっかり冷静さを取り戻したフリをして、
「すいません! すいません!」
と言いながら、倒れたパーテーションを起こそうとした。
巻き込まれたしょうに同情した男性店員が駆け寄り、身体を気遣っている。
「君……大丈夫か……?」
しょうの口元からは、たらりと血がにじんでいた。女性店員も慌てて奥からタオルを持ってきて、しょうの口元に当てている。
僕ともう一人の男性店員は、床に散らかった本や備品を無言で拾い集めた。
店内に居合わせた数人のお客さんも、「何が起こったんだ?」という顔で、引き気味にこちらを見つめていた。
客からすれば、
(武富士で金を返さへんかったら、こんな目に遭うんか……?)
と勘違いして、怯えていたのかもしれない。
しょうの手当てがひと段落し、片付けもまだ途中の段階で、男性店員が遠慮がちに声をかけてきた。
「もう……本人も十分反省しているみたいですので……今日のところは、このくらいで……」
しかし、僕は元探偵だ。こういう相手の心理につけ込む駆け引きや脅しは、得意中の得意だった。
「これって詐欺罪、有印私文書偽造、私文書偽造・同行使、それに窃盗罪ですよね!」
あえて興奮気味に、追い打ちをかけた。
店側としては、これ以上店内で大事を起こされたくないはずだ。再び暴れられたら、たまったものではない。
そもそも、一般企業には、犯罪を知ったからといって必ず警察に通報しなければならないという法律上の義務があるわけではない。
案の定、男性店員は、
「他のお客様もいらっしゃいますので……状況は重々理解いたしましたので、今日のところは……」
と言った。
つまり、「早く連れて帰ってくれ」ということだ。
僕はしょうの後ろ襟をぐっとつかみ、そのまま店の外へ引きずり出した。
店員たちは心配そうな目で僕らを見送っていた。
店を出てからも、しょうは引きずられるまま歩かされた。すれ違う通行人から、チラチラと好奇の目を向けられた。
人通りのない路地裏まで連れていき、僕はバッと手を放した。
しょうは地面に小さくなったまま、心底怯えて身体を縮こまらせていた。
僕はタバコに火をつけ、煙を吐き出しながら尋ねた。
「で? なんでこんなことしたんや?」
しょうは申し訳なさそうに、今にも消えそうな声で答えた。
「ごめんなさい……」
「いや……謝ってほしいんちゃうねん。なんで俺の保険証勝手に盗んで金借りに行ったん? 借金でもあるんか? 逃げられると思ったんか? 金ないんか?」
そう聞きながら、ふと思い出した。
この前、こいつの財布をチラッと見た時、お札が一枚も入っていなかったのだ。
しょうは消え入るような声で漏らした。
「仕事を辞めて……もうお金もなくて……青森に帰ろうかって思ってました……」
昨日、こいつが仕事を辞めたことは、僕もさっき工場長から聞いたばかりだった。あの電話の時、工場長もこいつが関わっていると知っていたから、教えてくれたのだ。
「やからって、金ないことないやろ? 月40万は普通にもらってたやろ?」
「……ちょっと前までは、よく休んでたんで……モーガンのこともあって……しんどくて……でも……パチンコでも負けて……」
一瞬、ハッとした。
(そういえば……僕、こいつにモーガンの仕事を丸投げして、自分はがっつり働いて金稼いで……そん時こいつは……え、僕のせい??……いやいや! パチンコでスったんは完全に自業自得やし……)
胸の中で複雑な葛藤を抱えながら、僕は尋ねた。
「いつ保険証盗んだねん?」
「……この前、部屋行った時です」
(いつやねん! お前、毎日来とるやないか!)
まあいい。
「俺の保険証でいくら借りようとしたん?」
「10万です……それだけあれば青森に帰れると思いました……」
(青森帰るのに10万もいらんやろ……)
そう思ったが、口には出さなかった。
「で、これからどうすんの? 一銭もない状態で」
「……考えてないです……」
「寮は? もう出たんか?」
「寮は……別にすぐ出なくてもいいらしいです……」
(へ~、そうなんや……)
「とりあえず、寮戻ろか」
そう言うと、しょうは驚いた顔で呟いた。
「いいんですか……俺となんかと……」
「寮帰らなしゃあないやろ! 野宿すんのかボケ!」
間髪入れずに吐き捨て、僕は足を前に進めた。
しょうは何も言わず、大人しく後ろをついてくる。
(帰ってもこいつと隣同士か……なんか、やりにくいやんけ……。仕事戻ろかな……てか、やっぱ仕事戻ろ!)
「俺、やっぱ仕事戻るわ」
しょうにそう告げた。
その時、なぜかモーガンの仕事を丸投げしたことへの罪悪感を埋め合わせるためだったのか、自分でもこいつをどうしても放っておけなかった。
僕は財布から10万円を取り出した。
「これ、10万貸しやからな! パチンコしたら殺すぞ!」
そう吐き捨てて、10万円を渡し、再び歩き出した。
しばらく沈黙が流れた。
後ろからしょうが声を張り上げた。
「絶対に返しますから! ありがとうございました! 今度大阪行きます!」
僕は振り返りもせず、生返事のまま、そのまま工場へと足早に戻った。
工場に戻ると、当然のように仲間や上司から質問攻めに遭った。適当にごまかしてその場をやり過ごし、その日はどうしても部屋へ帰る気になれず、夜の23時くらいまで残業して、ひたすら黙々と働き続けた。
仕事を終えて工場を出ると、昼間の猛暑が嘘のように夜風が通り抜け、汗ばんだ作業着を冷やしていった。
静まり返った工場街の上空には、ぽっかりと浮かぶ月と星が輝いていた。昼間の騒動の余韻と、14時間近く動き続けた身体の疲労が、ずしりと肩にのしかかる。
僕は静かな夜道を、重い足取りで寮へと向かった。
寮のロビーに入ると、喉の渇きを潤すために自動販売機で缶ジュースを買った。
プシュッと音を立てて缶を開け、一口飲んだあと、ふと目の前の集合ポストに目を向けた。
自分の部屋である「301号室」の投函口を覗くと、中に一通の郵便物が見えた。
気がつくと、僕はそれを手に取っていた。
封筒の差出人欄には、「御堂美咲」と書かれていた。
僕は封筒を左手に持ち、右手にジュースを持ったまま、3階まで駆け上がった。
隣の302号室にいるしょうのことも頭をよぎったが、今はそんなことより、この封筒の中身が気になって仕方がなかった。
今までは、差出人なんて一切書かれていなかった。
でも、今回は初めて名前が書いてある。
謎だ……。
そもそも、今までは何だったのか? 美咲じゃなかったのか?
そうだ。美咲がここの住所を知っているはずがない。直樹にしか教えていないのだから。
まあ、直樹が美咲に住所を教えることくらい予想できていたが……それにしても、今日は確実に美咲本人から届いたのだ。
手に取ると、いつも通りのカセットテープの感触があった。
あれから2週間に1回くらいのペースで、送り続けてくれている。
僕は飲みかけのジュースをテーブルに置き、ベッドに腰を掛けた。
封筒を開けようとした。
でも、その前に、なぜかコンポの電源を入れた。
セリーヌ・ディオンの『The Power of Love』が流れ始める。
なんだかムードが欲しかったのかもしれない。この封筒の中身を確認するために。
『The Power of Love』は、この部屋でもよく聴く曲だった。
もちろん、美咲が送ってくれたテープに入っていた曲だ。朝、目覚める時にも、いつもこの曲を流していた。
封筒を開けると、出てきたのはいつも通りのカセットテープだった。
今回のインデックスには「FIELD OF VIEW」と書かれている。
そして、封筒の中を覗くと、いつものように小さく折りたたまれた紙が入っていた。
なぜか、急激に胸がドキッとした。
『The Power of Love』のバックミュージックのせいなのか。今まで、テープのメッセージを見てこんなふうにドキッとしたことは一度もなかった。
嫌な予感なのか、それとも良い予感なのか、自分でもよく分からない。
恐る恐る紙を開き、そこに書かれた文字を目で追った。
『いつ帰ってくるの!?……バカ!』
たったそれだけの、短い言葉だった。
セリーヌ・ディオンの圧倒的な歌声とドラマチックなメロディが、静かな部屋の中に広がっていく。
その壮大な曲調とは対照的に、目の前の紙に躍る歪で真っ直ぐな文字が、僕の視界を強く塞いだ。
(いつ帰ってくるの……って……)
心臓が、ドクンと嫌なほど大きく打った。
言葉の意味が頭に染み込んでいくにつれ、胸の奥から熱い塊がこみ上げてきた。
美咲は、ずっと待っていたのか?
言葉を濁し、ただ好きな曲を録音したテープを送り続けることでしか繋がっていられなかった彼女が、初めて僕に向かって本音をぶつけてきた。
その一方で、最後に添えられた「……バカ!」という一言には、なんとも美咲らしい意地っ張りなところが滲み出ていた。
素直に「会いたい」とも「寂しい」とも書けず、照れ隠しと怒りと恋しさを、全部混ぜこぜにして投げつけてきたような、不器用な文字だった。
強がっているくせに、限界を迎えて漏れ出てしまった彼女の本音なのか。
この「いつ帰ってくるの?」の背景には、一体何があるのだろう。
ただ何となく聞いているだけ?
それとも……。
ああ、僕には分からない!
同時に、僕は考えていた。
(いつ帰る……? 僕は、いつ帰るんや……?)
14時間労働で疲れ切っていたはずの身体に、鋭い痛みが走った。
大阪での仲間たちとの思い出。そして何より、横須賀で一人もがきながら金を稼いでいる、今の自分。
いろんなものが交差して、頭の中がぐちゃぐちゃになった。
返事に詰まる問いを突きつけられた焦燥感。
それでも、こんな僕を待っていてくれているのかもしれない、というたまらない愛おしさ。
その二つが入り混じり、僕は『The Power of Love』が響く部屋で、紙切れを握りしめたまま呆然と立ち尽くしていた。




