第25章 カセットテープ
休日の店内は、家族連れやカップルで賑わっていた。明るい蛍光灯の光、あちこちから流れる商品PVソング、最新家電をアピールする音声。それらが入り乱れ、独特の活気に包まれている。
僕が一直線に向かったのは、オーディオ機器の売り場だった。
横須賀駅前にある大型家電量販店。そこには、重厚なスピーカーを備えたCDミニコンポや、最新のダブルカセットデッキを搭載したハイパワーなシステムコンポがずらりと並んでいた。金属的な質感と、各メーカーのロゴが誇らしげに光っている。
僕が欲しかったのは、もちろんカセットテープをきれいに再生できて、重低音が響く本格的なコンポだ。
売り場をじっくりと見て回り、スタイリッシュなデザインと重厚な木製スピーカーが印象的な一台の前で足を止めた。
試聴用のボタンを押すと、クリアで深みのある音が伸びやかに響く。
(これや……これしかない!)
僕は意を決して、近くを通りかかったエプロン姿の店員に声をかけた。
「あの〜」
「はい!」
ハキハキとした店員さんが振り返った。
かわいい!
これはSクラスや!
ちょっとテンションが上がったのも束の間、左手の薬指に指輪があることに気づいた。
くそ!
そう思いながら、僕は尋ねた。
「これ、もらえますか?」
「承知しました! こちらへどうぞ!」
(う〜ん、どこへでもついていくよ〜!と思いながら)
かわいい店員さんの元気な声に導かれ、レジへと向かった。
期間工で稼いだ給料から、決して安くはない買い物を済ませる。ずっしりと重い大きな段ボール箱を両手に抱えて店を出た。
腕に食い込む箱の重みが、なんだか妙に愛おしく感じられた。
くそ……車が恋しい……。
寮へ戻ると、箱を丁寧に開封し、部屋の机の上にコンポを設置した。電源コードを差し込み、左右のスピーカーの位置を調整する。
準備は整った。
机の上に置いていた、美咲の手書き文字が踊るZARDのテープを取り出した。
コンポのカセットトレイのボタンを押すと、カチャリと静かにデッキが開く。そこに丁寧にテープをセットし、パタンと閉じた。
息をのんで、再生ボタン(PLAY)を押す。
……ウィーンという静かなモーター音のあと、スピーカーから「サーッ」という心地よいテープのヒスノイズが流れてきた。
そして——。
スピーカーの振動とともに、どこまでも透き通った坂井泉水の歌声と、重厚なサウンドが部屋いっぱいに広がった。
ウォークマンの音とはまるで違う。部屋の空気が一瞬で、温かく優しい音楽に満たされていく。
(……ほんまに、送ってくれたんやな……)
ベッドに腰掛け、目を閉じた。
手元にある紙切れの乱暴な文字が頭に浮かぶ。
『聞きやがれ くそ野郎!』
『金も時間も使ってるねんぞ〜 くそ野郎!』
『今日 イケメンと出会った。くそ野郎!』
「くそ野郎、くそ野郎って……ほんま気に入らんな……」
でも、なぜか胸の奥から熱いものがこみ上げてきた。
美咲は、一人でレンタルショップに通い、1曲ずつ選び、デッキの前で時間をかけてテープに録音してくれたのだ。
自分の愚痴や強がりを紙切れに書き殴りながら、どんな顔をしてこの作業をしていたのだろう。
健太さんの言葉が、脳裏によみがえった。
『寂しいんじゃないの? 結局』
『喧嘩は、どっちかが折れない限り終わらないよ』
折れない限り……か。
部屋いっぱいに響くZARDのメロディを聴きながら、僕は天井を見上げ、静かにつぶやいた。
大阪に残してきた未練も、素直になれなかった自分も、全部この音楽が優しく溶かしていくようだった。
コンポを買ってからというもの、休みの日に街へ繰り出すことも減り、部屋にこもる日がめっきり多くなっていた。
あれから数日後、ポストを開けると、またしても美咲から封筒が届いていた。
今度は福山雅治のベストアルバムのテープだった。相変わらず手書きの丸っこい文字で、曲名がびっしりと裏面に書かれている。
同封されていたメモを開くと、こう書かれていた。
『も〜どうなるかな〜イケメンと。くそ野郎!』
「……なんやねん、このメッセージ」
思わず独り言が漏れた。
一体、どういう気持ちで書いているのだろう。
「イケメンとどうなるか分からない」なんて書いて、僕の注意を引きたいのか? 焦らせたいのか?
ほんま、しょうもないことしやがって……。
だが、呆れつつも胸の奥がキュッと締め付けられた。
このテープ、毎回毎回CDショップやレンタル屋に通って、本当に1曲ずつ丁寧にダビングしているのだろうか。
なんで……?
なんで、こんな「くそ野郎」な僕のために、そこまでするんや……?
美咲なら、絶対にもっといい男が見つかるはずなのに。
横須賀に来てから散々ナンパして女の子と遊んできたけれど、いざ真剣な恋愛となると、僕には女心というものがさっぱり分からない。
一体、僕の何が良くて、こんなにも時間と労力を割いてテープを送ってくれるのだろうか……。
福山雅治の甘く低い歌声が、新しいコンポから静かに流れ、部屋の空気を包み込んでいく。
答えの出ない問いを頭の中でぐるぐると巡らせていた、その時だった。
トントン!!
部屋のドアが激しくノックされた。
「おれです」
聞き覚えのある声。ショウだ。
「どした?」
ドアを開けると、そこには疲れ切った顔をしたショウが立っていた。僕が声をかける間もなく、ショウは限界を迎えたように、倒れ込むように部屋へ入ってきた。
床から体を起こしたショウだったが、ふと我に返ったように部屋を見回した。
「なんすか、これ?」
「なにが?」
「いや……この音楽というか……コンポ買ったんスか?」
「うん」
「マジっスか! めっちゃいい音じゃないっスか!」
興奮気味に喋りながら、ショウが机の上のカセットケースを手に取った。
「特選洋楽ベストシングル……」
そう読み出した瞬間、僕は慌ててケースを手からひったくった。
「さわんな! ボケ!」
「いや……それ、どうしたんですか?」
「どうでもいいやろ!」
「でもそれ……女の子の字ですよね〜」
ニヤニヤしながら煽ってくるショウに、僕は顔を赤くして怒鳴り散らした。
「やかましい! お前には関係ない!」
「え〜、もしかして彼女っスか〜?」
「やかましいわ! で、なんしに来てん!」
一喝すると、ショウはハッと何かを思い出したように手を打った。
「あ! そうでした! モーガンがタケさんに渡したいものがあるから、今日バーに来れるかって聞いてきました!」
「え? モーガンが……?」
なんだ……?
まさか、また新しい金髪美女でも紹介してくれるのか?
まあ、行ってみる価値はありそうだ。
「おっし! 行くぞ!」
「えっ、今からですか? 待ち合わせ、夜の1時ですよ?」
時計を見ると、まだ夜の11時だった。
「まあ、あっち行ってぶらぶらしようや!」
僕はコンポの電源を切り、二人で部屋を飛び出した。
寮の外に出ると、肌をなでる夜風の冷たさがすっかり和らいでいることに気づいた。湿り気を含んだ、春の終わりと少し気の早い夏の気配が混ざり合った独特の匂いが夜気に満ちていた。
夜の横須賀駅周辺は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っている。
オレンジ色の街灯が静かなアスファルトを照らし、遠くの港からは潮の香りがかすかに漂ってくる。駅前を離れるにつれて、米軍基地周辺の異国情緒あふれるネオンがぼんやりと夜空を焦がし、時折すれ違うガタイのいい米兵たちの笑い声が静寂を切り裂いていた。
季節が一つ移り変わろうとしているのを感じながら、僕とショウは夜の横須賀の街へと足を進めた。
「もうちょっと時間あるな〜」
「そうッすね」
ぶらぶらと歩いていると、ショウが急に立ち止まり、通りの向こうを指さした。
「なになに?」
指の先を追うと、そこには息をのむほどの超S級の女の子が二人立っていた。
これまでの僕の経験から言っても、どう見てもナンパ待ちだ。ミニスカートから伸びる脚、抜群のスタイル。通りを挟んでいても、そのオーラがはっきりと伝わってくる。
ショウが目を輝かせて言った。
「いきましょうよ!」
だが……なぜだか今日の僕は、というか最近の僕は、あまりナンパする気になれなかった。
ほかの女と遊ぶというのが、なんだか気が進まないのだ。
……って、ほかの女ってなんだ?
いや、別に美咲がどうとかじゃなくて……とにかく今はナンパなんてする気分でもないし……。
一人で腕を組んで考え込んでいた、その時だった。
パッと横を見ると、すでにショウが女の子たちのもとへ一直線に駆け寄っていた。
(あいつ……! あ〜もう! こうなったら仕方がない!)
乗り気ではないが、ここは男のサービス精神として行くしかない。
自分に強く言い訳をしながら、僕も大急ぎで駆け寄った。
「わ〜! かわいい子みっけ!」
これが僕の第一声だった。
すると、女の子は嬉しそうに微笑んだ。
「え? マジでそう思ってる?」
「マジ! かわいい! え、なんかモデルみたい!」
「またまた〜! うまいこと言っちゃって!」
「いやいやいや! マジでほんまに! ちょっととりあえず、飲みでも行こうか?」
調子よくトークを回していると、横からショウが小声で囁いてきた。
「……タケさん、この後モーガンですよ!」
「あ!」
我に返った。
そうだ、今日はモーガンに会いに来たのだ。
だが……しかし!
目の前に本物のダイヤが輝いているのに、なにが悲しくてあの熊みたいな米兵に会いに行かないといけないのだ?
今は目の前のダイヤ一筋! すべてはこれ次第だ。
女の子が首をかしげて尋ねてきた。
「もしかして、関西の人?」
「せやで! 大阪! でも大阪の子なんかより君の方が100倍かわいい! もう大阪なんて帰らない! 名前なんて言うの?」
「ひなたです!」
「おれはタケト!じゃあ、ひなたちゃん! これからカラオケなんかいかが?」
「え〜、どうしようかな〜」
ひなたちゃんが迷っていると、またしてもショウが横から突っついてきた。
「もう時間ヤバいッすよ!」
(くっ……! モーガンの野郎……! いや、モーガンは悪くないのだが……!)
僕は断腸の思いで気持ちを切り替え、ひなたちゃんに向き直った。
「じゃ! とりあえず今日は連絡先だけ交換して、今度二人で遊びに行こ!」
ひなたちゃんはバッグから携帯を取り出し、電話番号とメールアドレスを交換してくれた。
(どや! このスムーズな切り替え! しかも連絡先もバッチリゲット! おっし、明日からまた人生楽しもう!)
「じゃあね!」
別れ際、もう一人の女の子が僕をまじまじと見つめて言った。
「あの〜……もしかして、最近横須賀で女の子をナンパしまくってるイケメン関西人って、武人さんのことですか?」
(あ……なんか噂で聞いたことあるな……。僕ってそんな有名人なん?)
ちょっと照れくさくなりながらも、僕は意を決して決めポーズを作った。
「そう! 俺がその関西人や!」
右手を大きく突き上げ、バシッとポーズを決める。
決まった!
心の中でガッツポーズをした、その瞬間だった。
「あの〜、私たちタレントなんですけど……深夜番組の『ビキニ』って知ってますか?」
「……え?」
僕の頭の中は「?」でいっぱいになった。
一方、横にいたショウは何やらピンと来たようで、目を限界まで見開いて輝かせている。
ぽかんとしている僕に向かって、女の子が種明かしをした。
「これ、その番組の企画で『最近横須賀で女の子をナンパしまくってる謎のイケメン関西人』っていう企画で、隠しカメラで撮影させてもらってたんです!」
「……え??? テレビ???」
ショウが大喜びで叫んだ。
「ええっ!? これ映るんスか!? テレビ出れるんスか!?」
ハイテンションで跳ね起きるショウ。
だが……それを聞いた僕は、背筋に氷を突っ込まれたような衝撃を受けた。
やばい……やばすぎる……!!
こんな醜態、もしテレビで流されたら……!!
大阪の美咲、直樹、ねえやん、由奈ちゃん、さくらちゃん、京子ちゃん、家族……あいつらがこの放送を見た日には……恥ずかしくて生きていけない!!
あかん! 絶対にあかん!!
「絶対いや〜〜〜〜〜ッ!!!!」
深夜の横須賀の街に、僕の大絶叫が響き渡った。
通行人が全員「なんだなんだ」と一斉にこちらを振り返る。
異様な事態に危険を感じたのか、物陰からテレビ番組のスタッフが慌てて飛び出してきた。
「す、すいません! こういう企画だったので、放送のOKを出してもらえませんか……!?」
両手を合わせて必死に頼み込んでくるスタッフ。
だが、僕は「絶対に無理!!」と言い放ち、その場をそそくさと全速力で立ち去った。
ショウが後ろから追いかけてくる。
「別にいいじゃないッすか〜! テレビ出れたのに〜!」
だが、こんな醜態を世間にさらすわけには絶対にいかないのだ。
(僕はモーガンに会いに来たんだ……! ナンパしに来たんじゃない……!)
心の中で自分に強く言い聞かせながら、僕は止まることなく、モーガンとの待ち合わせのバーへ向かって歩き続けた。
追いついてきたショウが「あ〜あ、もったいない……」とブツブツ言っている。
「黙れ」
「……」
「今日の目的はなんや!?」
「モーガンです!」
「よっし!」
「もう喋んな!」
ショウを黙らせ、僕たちは目的のバーのドアを押した。
店に入ると、モーガン、トニーをはじめとする米兵4人が、すでに勢揃いしていた。
「コンバンワ〜!」
再会を喜び、みんなでアメリカ流の激しいハグを交わした。
テーブル席につくと、マスターが「今日は店のサービスです」と言って、僕にはモスコミュール、しょうにはコーラを運んできてくれた。
(こいつはコーラなんや……)
そう思いつつ、僕が口火を切った。
「で、モーガン、どうしたん?」
するとモーガンは、隣にいたトニーと顔を見合わせた。
次の瞬間、4人が一斉にドッと立ち上がった。
「アリガトウ ゴザイマシタ!」
少し訛りは残っているものの、ハッキリとした美しい日本語で頭を下げられた。
あまりの突然の出来事に驚いた。立ち上がったこともそうだが、彼らの日本語が劇的に上達していたからだ。
「ま、ま〜座り〜や!」
僕がそう言うと、彼らは素直に着席した。
(ん……? この関西弁のニュアンスまで通じてる!?)
トニーが笑顔で言った。
「ショウから、イロイロ マナビマシタ! アリガト、ショウ! タケ!」
感心してしまった。
ショウに全部丸投げしたというのに、あいつ、ちゃんと根気強く日本語を教えていたのだ。
すると、モーガンが真剣な表情になり、ゆっくりと語りかけてきた。
「キョウハ、アマリ ジカンガ ナイデス。ワタシタイ モノガ アリマス」
モーガンは胸ポケットに手を伸ばし、小さな布製のパーツを取り出した。
「コノ マークハ、ワタシノ ブタイ『スコーピオン』ノ メンバーノ アカシ。ショウ ト タケ モ、CQC デキタカラ……ナカマ! ナカマノ アカシトシテ、コノ ヤツ アゲル! コレデ ブタイノ イチインヨ!」
差し出されたのは、ミリタリー映画でしか見たことがないような、本物の特殊部隊のワッペンだった。
ベルクロ仕様の頑丈な生地の中央には、巨大なサソリ――スコーピオンの絵柄が刺繍されていた。
「これ……」
胸が熱くなり、目頭がツンとした。
本物の特殊部隊の兵士が、僕たちを「仲間」と認め、部隊の一員としてこれをくれたのだ。
これは一生ものの宝物だ。
マスターの話によると、モーガンたちの部隊「スコーピオン」は、急な任務の関係で、今から一旦アメリカ本国へ戻ることになったらしい。
だから出発前に、わざわざ僕たちを呼び出してくれたのだ。
モーガン……お前、ほんまにええ奴やな。
僕は溢れる感情を抑えきれず、大声で言った。
「モーガン師匠! ありがとうございました!」
そうだ。モーガンは僕のCQC(近接格闘術)の師匠だった。
彼のおかげで、僕は本場のCQCを身体に叩き込むことができたのだ。感謝してもしきれない。
その後、覚えたての日本語を交えながら、短い時間を心から楽しんだ。
わずかな時間だったけれど、この日の、この夜の出来事を、僕は一生忘れることはないだろう。
別れの時、4人は店の出口まで僕たちを見送ってくれた。
最後に僕は、モーガンとガシッと強い握手を交わした。
「がんばれよ!」
日本語で声をかけると、モーガンはニッコリと白い歯を見せて答えた。
「オマエモ ガンバレヨ!」
一瞬、え? と思ったが……すぐに正気を取り戻した。
(……ショウ、お前、余計な日本語教えたな……ジミー大西やないか!)
それが、僕とモーガンたちとの最後の別れだった。




