第24章 ベンチの男
横須賀での生活が始まってしばらく経った頃、僕は教習所に通い始めていた。
そう、バイクの免許(中型二輪)を取るためだ。
大阪を出る時に掲げた「金を貯めて、バイクを買い、そのバイクに乗って大阪へ帰る」という目標を達成するためには、これは絶対に外せない必須事項だった。
できるだけ毎日教習所に通えるよう、工場での勤務シフトも夜勤メインに変更してもらった。その甲斐あって、仕事と教習所の往復というハードスケジュールをこなし、1ヶ月もかからずに無事に免許を取得することができた。
(よし……これで残るはバイク本体だけや!)
そんなことを考えながら、工場からの帰り道を一人歩いていた。
最近はモーガンたちの日本語指導でショウが引っ張りだこになっており、勤務時間が重ならなくなったこともあって、僕ひとりの時間が増えていた。まあ、もともとは僕が無理やり押し付けたようなものなのだが……。
そんなことをぼんやり考えながら歩いていると、ふと、いつもの帰り道にある公園のベンチに、一人の男性がぽつんと座っているのが目に留まった。
(……ん? どこかで見たことあるな……)
記憶を手繰り寄せる。
そうだ、横須賀初日の説明会の時に見かけた顔だ。(あのやばそうな奴や・・)
見た目がめちゃくちゃいかつく、口数が少ない。寮の中でも、みんなから一目置かれているような独特のオーラをまとった人だった。確か年齢は僕より3歳くらい上の、26歳前後のはずだ。
だが、その背中からは、どこか深く悩んでいるような重い雰囲気が漂っていた。
(元探偵の勘が動く……)
僕は吸い寄せられるように公園へ足を踏み入れ、そっとベンチへ近づいていった。
気配に気づいたのか、その人がすっと顔を上げた。
(げ……やっぱ近距離で見るとめちゃくちゃいかつい……! やっぱ大阪の野木さんレベルにいかついやんけ……)
一瞬ひるみそうになったが、ここで逃げたら男が廃る。
僕は意を決して話しかけた。
「あの〜……もしかして、同じ寮の方じゃないですか?」
すると、その人の強面が一気に緩み、穏やかな表情に変わった。するとその人は表情をゆがませ「あ〜……誰だっけ。あの……金髪の子とよく一緒にいる……」
「そうです!横、座ってもいいですか?」
「どうぞどうぞ」
その人はそう言うと、隣に置いてあったカバンを退けて席を空けてくれた。
「すいません……なんか一人でゆっくりされてるところを。いや、ちょっと気になったもんで。説明会の時に見かけたっきりで、今歩いてたら見えたのでつい……」
「はは、そうだよね。俺は夜勤組だから、なかなか顔合わせることなかったもんね。でも、いろいろ噂は聞いてるよ(笑)」
「え! 噂!? それって良い噂やったらいいんですけど……」
「両方聞いてる(笑)」
「えーーー! マジですか……なんか気まずいですね……」
僕が苦笑いしていると、その人が言った。
「名前聞いていい? 俺は健太。そっちは?」
「武人です」
「そうそう! タケト! 知ってる知ってる!」
(そんなに僕は有名なのか……?)
そう思っていると、健太さんがニヤニヤしながら続けた。
「よく聞くよ。なんか301号室と302号室は女の出入りが激しいって、寮内で大噂になってるよ」
「マジですか! いや……ちょっと前まではそうやったかもしれませんけど、今はもう違いますよ!」
焦って弁明する僕に対し、健太さんは大人な笑顔で優しく言った。
「いやいや、別にいいじゃん。楽しくやってるんだから。言いたい奴には言わせとけばいいんだよ。ただ、ひがんでるだけだから」
(おー……なんて大人な人だ……)
この貫禄と余裕は、見た目のいかつさだけじゃない。中身が本物なのだ。
「大阪から来てるんだよね?」
「はい。健太さんはどこからですか?」
「俺は北海道」
「へぇ〜! そうなんですね。……健太さんは、なんでこの仕事しに来たんですか?」
健太さんは少し遠くを見つめ、静かに答えた。
「お金……かな。やっぱ」
「そんなにお金を貯めて、何か買うんですか?」
僕が尋ねると、健太さんは大きく首を横に振った。
「僕さ……彼女がいて、もうすぐ娘が生まれるんだ。……でもさ、彼女の妊娠を知った時、怖くなって逃げちゃってさ。ここに逃げてきたんだ。でも……やっぱり男だったら、戻って責任を取るべきだって思って。今はできるだけ彼女と子供のために金を貯めてから帰ろうと思ってるんだ……。
彼女は『身ひとつでもいいから帰ってきて』って言ってくれてるんだけど、やっぱり男としてけじめつけないとね。一度逃げたっていう事実は、なかなか取り返せないから。
人間って、信用を得るのは難しいけど、失うのは一瞬じゃん。だからこれからは、その信用を取り戻す一歩として、ここではやり切ってから帰りたいんだ……」
僕は言葉を失った。
一度失った信用……。
その重みが胸に刺さる。
「……武人君は? なんでここに来たの?」
「あ、俺は……金を貯めて、バイクの免許取って、そのバイクで大阪に帰るっていう目標があって。それを達成するために来ました」
「いいね〜! ちゃんと目標持ってんじゃん。……彼女は? 武人君なら彼女なんていっぱいいるんじゃないの?」
「いや〜、そんなことないです……。正直、ここに来る前に、しょうもない喧嘩をしてそのまま……みたいな」
言葉を発しながら、自分でも違和感を覚えた。
(あれ……? 僕の中では、美咲とはもう終わったはずじゃなかったんか……? なんで『喧嘩してそのまま』なんて言い方したんやろ……)
健太さんの不思議な温かさの前に、自分でも気づかない本音がポロリと漏れ出てしまっていた。
健太さんが尋ねる。
「喧嘩中? 長い喧嘩だね。ちゃんと連絡してる?」
「いや……まったく」
「ははは! それでか! あんなに無茶して遊び回って……寂しいんじゃないの? 結局」
「え?」
間髪入れずに健太さんの言葉が飛んでくる。
「彼女と喧嘩して、腹が立って、ヤケになって遊びまくって……でも何か満足できない。満たされない。違う?」
ビクッ……と体が跳ねた。
なんだこの直球は……。
胸の奥を直接つかまれたような衝撃だった。
「どんな喧嘩したの?」
聞かれるままに喧嘩の経緯を話すと、健太さんは大笑いした。
「ハハハハハ! なにそれ! ただの売り言葉に買い言葉じゃん! そんなんで別れないよ、普通。高校生じゃあるまいし。……二人とも、意地だけは強そうだね(笑)」
「いや、でも……自分の中ではもう終わってますから」
意地を張ってそう言うと、健太さんはニッコリ笑って突っ込んできた。
「あれ? さっきは『喧嘩してそのまま』って言ってたよね?」
「え……あ……」
ぐうの音も出ない。
「きっと、もうお互いの中では答えは一致してると思うよ。たぶんね」
そう言うと、健太さんは時計を見てパッと立ち上がった。
「あっ、もう戻らないと! ここ、何時間でも働けるから、一回退勤してもまた現場に戻れるの知ってた? だから俺、今からまた残業してくる! ごめんね、また時間あったら話そう!」
健太さんはカバンを肩にかけ直し、歩き出そうとした。
そして数歩進んだところで、ふと振り返り、僕に向かって言った。
「喧嘩は、どっちかが折れない限り終わらないよ! じゃあね!」
そう言い残し、走って工場へと向かっていった。
(……なんやねん、一体)
思っていた展開とまるで違った。
何か悩んでいるなら、僕が相談に乗って元気づけてあげようと思っていたのに……完全に僕の方が話を聞かれ、心を見抜かれ、見事に転がされてしまった。
健太さんは、本物の「大人」だった。
どこか、古巣の服屋の店長と喋っているような、そんな圧倒的な器の大きさを感じた。
何かモヤモヤとした思いを抱えたまま、僕は帰り道を歩いた。
健太さんの言葉、美咲の顔、大阪の風景……いろんなことが頭を巡り、気づけばあっという間に寮へ到着していた。
だが、どうにも部屋に入る気分になれず、ホールで立ち尽くした。
ふと、ホール横の壁に設置された、部屋ごとのポストに目が留まった。
「301号室」のポストを何気なく覗くと、中に何か大きなものが入っている。
(ん……? 郵便……?)
恐る恐るポストのダイヤルを回して蓋を開けた瞬間——
ガサガサッ、コロコロッ!!
まるで雪崩のように、硬くて軽い物体がポストからあふれ落ち、床に転がった。
「うわっ!?」
慌てて拾い上げる。
差出人の名前がない封筒が5個ほど。中には硬いものが入っていた。
そのうちの一つを、その場で破って開けてみた。
中から出てきたのは……1本の『カセットテープ』だった。
(なにこれ……?)
裏面を返して絶句した。
手書きの丸っこい文字で、ZARDのアルバム曲の一覧がびっしりと書かれていた。
ZARDのテープ……?
この文字……見覚えがある。絶対にどこかで見たことのある字だ。
封筒の中を覗くと、二つ折りにされた一枚の紙切れが入っていた。
指を震わせながら開く。
そこに書かれていたのは——
『聞きやがれ くそ野郎!』
の一言だった。
「……ッ!?」
心臓が跳ね上がった。
僕は焦って、他の封筒も次々に破いた。
出てきたテープはDEEN、TUBE、そして『最新ベストシングル集』と『特選洋楽ベストシングル集』と書かれたテープが2本。
それぞれの封筒に入っていた二つ折りの紙切れを開いていく。
『帰ってくんな クソ野郎!』
『生きてんのか?』
『金も時間も使ってるねんぞ〜 くそ野郎!』
そして、最後の一枚——。
『今日 イケメンと出会った。くそ野郎!』
……美咲か。
なにこれ……? なんなん……?
「くそ野郎」って何回言うねん……。
でも、手元にあるカセットテープを見つめると、胸の奥がギュッと締め付けられた。
ZARD、DEEN、TUBE、最新ベストシ……特選洋楽ベスト……全部、僕が大好きなアーティストの曲ばかりだった。
美咲が……わざわざCDを買うか借りるかして、お金も時間も使って、僕のために1曲ずつテープにダビングして送ってくれたのだ。
僕は弾かれたようにホールを飛び出し、階段を駆け上がった。
301号室のドアを乱暴に開け、部屋に飛び込む。
カバンを放り投げ、棚の奥にしまい込んでいたパナソニックのウォークマンを引っ張り出した。
震える手で『ZARD』のテープをカチャリとセットする。
ヘッドフォンを耳に当て、深呼吸をひとつ。
そして——
再生ボタン(PLAY)を強く押した。




