第22章 初出社
ベッドの上でゆっくりと目を開けると、時刻はちょうど朝の5時だった。
実は僕は昔から不思議な体質で、自分で目覚まし時計をセットすると、なぜかアラームが鳴り響くほんの数分前に必ず目が覚める。
体内に完璧な時計でも埋め込まれているんじゃないかと思うほどで、おかげでこれまで寝坊というものをほとんどしたことがない。
あっ! でも、一回だけあったな……。
19歳の時、ミキと車で東京ディズニーランドへ行こうと計画を立てた時のことだ。
朝の2時にミキの地元である岸和田まで迎えに行く約束だったのに、見事な寝坊をぶちかましてしまい、結局迎えに着いたのは朝の5時過ぎ。
冷や汗をかきながら謝る僕に、ミキは怒るどころか、
「タケはもう、しゃーないな〜」
とニッコリ笑いかけてくれたっけ……。
そんな甘酸っぱい昔の記憶が、ふと頭をよぎった。
起き上がって窓際に歩み寄り、カーテンをすっと開ける。
パッと視界が開けると、雲ひとつない春の空から、優しくやわらかな朝の日差しが部屋一面に差し込んできた。
窓枠の形に伸びた光の影が、殺風景な床とパイプベッドを暖かな橙色に染めていく。
ガラス越しに触れる日差しには、冬の痛いような冷たさはもうなく、どこかポカポカとした春の温もりを感じさせた。
光の粒の中で部屋のホコリがゆらゆらと舞い、遠くからは港の船の汽笛がぼんやりと響いてくる。
(……よし、ちょっと早いけど準備しよか!)
どこか切ない思い出を振り払うように深く息を吐き、僕は日産での初出社に向けて準備を始めた。
各階にある洗面所に向かうと、まだ誰もいなかった。
そりゃそうだ。9時出勤なのに、朝の5時に顔を洗っている奴なんて、そうそういるはずもない。
顔を洗い、歯を磨いて部屋に戻ろうとしたその時、隣の302号室のドアがガチャリと開いて、誰かが出てきた。
こ、こいつは……!
昨日食堂で絡んできた、あの金髪ヤンキーだった!
ショウは満面の笑顔で、
「おはようございます!」
と深く頭を下げてきた。
「あ……お、おはよう……」
戸惑いながらも返事を返すと、僕はすかさずツッコミを入れた。
「お前……隣やってんな! マジか!」
「はい! 厳密に言うと『今』隣になりました!」
……どういうこと??
頭の上に大量のハテナを浮かべていると、ショウが得意げに語り出した。
「いや〜、実は僕、最初は1階の部屋だったんスけど、昨日タケさんの鍵の番号見て『301』って知ったんで、302号室の人にお願いして部屋変わってもらったんスよ! 隣同士の方がいいじゃないスか!」
僕は呆然とした……。
こいつホモか? なんなんやマジで……。
「じゃあ、その1階の部屋俺によこせ!」
「えっ、タケさん1階がいいんスか!? じゃあなんとか用意しましょうか? 一緒に1階に移動します!?」
食い気味に提案してくるショウ。
なんじゃこいつ……。どうやって部屋を交換させたのか知らんが、なんで僕の隣に執着してくるねん! きもいわ!てか、こいつなんでこんな早く起きてるねん!
「めんどいからもうここでええわ!! お前もめんどいねん! 消えろ!」
吐き捨てるように言って、僕は部屋の中に駆け込んでバタンとドアを閉めた。
ベッドに腰掛け、深いため息をつきながらタバコに火をつける。
なんであんな変な奴が隣やねん。
てか、まさか前の住人を脅して無理やり変わらせたんちゃうやろな……。
まあ、なんでもいいか。
しかし……仕事開始までまだ3時間以上もある。ヒマすぎる。
なんだか一人で部屋にいると、急に寂しさが押し寄せてきた。
これがホームシックというやつだろうか。
……と、そこでふと思い出した!
ロイヤルホスト!
あっこで朝食を食べれば……あの「S級美女」に会えるかもしれない!
そう思い立つと速攻で身支度を整え、部屋を飛び出した。
ドアを開けると、302号室の前で直立不動の姿勢をとり、真顔で、
「すいませんでした〜!」
と頭を下げるショウの姿があった。
「なんやねんお前……俺忙しいから先行くわ!」
冷たく言い放って横を通り過ぎようとすると、ショウが僕の服の袖をグッと掴んできた。
「じ、自分もご一緒させてください!」
よく見ると、背中にはリュックを背負い、すでに完璧に仕事の準備を済ませているようだった。
「ご一緒って……どこ行くかわかってんのか?」
「どこでも構いません!」
こいつ……ほんまなんなんや。
呆れつつも、根は悪い奴ではなさそうなので、
「じゃあ勝手に付いて来いよ。でも邪魔すんなよ!」
と言い残して僕は歩き出した。
ショウは腰を低くしながら、嬉しそうに後ろを付いてくる。
寮を出たのは5時40分。ロイヤルホストまでは歩いて約8分。
時間はある!
僕はダッシュで駆け出した。
後ろから「ちょ……!」と叫ぶショウの声が聞こえたが、お構いなしに追いかけさせる。
目的のロイヤルホストに着いたのは5時47分。
あとは……あのS級店員がいるかどうかだ!
少し遅れてショウが、
「ハァ、ハァ、ハァ……」
と肩で息を切らしながら追いついてきた。
「ここ……だったんスか、目的地……」
「せや!」
僕は店内に入り、続いてショウも入ってきた。
店内をぐるりと見回す……。
……いない。
S級がいない……。
盛大にガッカリした。
その時、何も知らないショウが空いている席に向かおうとしていたが、僕はそれを無視してスッと店を出た。
焦ったショウが慌てて追いかけてくる。
「え? タケさん、一体なんだったんスか? モーニング食べ……」
「だまれ」
僕が静かな口調で言い切ると、ショウは察したように口を閉じ、黙って僕の後ろを付いてきた。
あ〜最悪や!
せっかく早起きして来たのに空振り……。
よく考えたら、昨日ここを通ったのは15時過ぎだった。
ということは、あの子は日勤(遅番)のシフトだ。この早朝の時間帯にいるわけがない。今いるのは夜勤明けの店員だ。
日中に来ないと会えない……でも日中は仕事……。
どうしたものか……。
そんなことをそんなことを悶々と考えながらも、まだ時間には余裕があることに気づいた。日産の工場までは歩いてすぐという距離ではない。北久里浜駅から京急線で追浜駅まで約30分。そこからさらに徒歩で約20分かかる。
僕は寮に戻らず、そのまま北久里浜駅へ向かい、京急線に乗った。
初めて通う職場。車窓から流れていく街並みを眺めながら、これから始まる生活に思いを巡らせる。
やがて追浜駅に到着すると、今度は工場を目指して歩き出した。
駅から工場までは徒歩で約20分。
慣れない道を進みながら、僕はようやく、これから毎日通うことになる日産の工場へとたどり着いた。
時計を見ると、まだ始業まで時間があった。
どうしようか考えていると、すっかり存在を忘れていたショウが、後ろで申し訳なさそうに佇んでいた。
「あっ! お前付いてきてたん?」
「うっす……」
男二人で仲良くお喋りする気にもなれなかったので、時間潰しに工場内を散策してみることにした。
警備員に通行証を提示し、セキュリティゲートをくぐって工場内へ足を踏み入れる。
……広い。
とにかくデカい。
大阪で言えば、新日鉄の堺製鉄所よりも巨大に感じられた。
敷地内には幾つもの巨大な建屋が立ち並び、早朝から作業着姿の人たちがちらほらと歩いている。
ここで全国に送り出される日産車が作られているのだと思うと、なんだかわくわくしてきた。
ふたりで社会見学のように歩いていると、後ろから声をかけられた。
「お〜、君たち! 早いね〜」
振り返ると、昨日の説明会で仕切りをしていた、あのおっちゃんだった。
「いや……どんなところか、早めに来て見てみたくて……」
僕はとっさに爽やかな嘘をついた。
まさか「ロイホのねえちゃんに会いに行ったけどいなかったので暇潰しに来ました」なんて言えるはずがない。
おじさんは嬉しそうに目を細めた。
「感心だね〜! じゃあちょっとおいでよ!」
おじさんは僕たちふたりを、建屋の階段を上った先にある「事務所(機械制御室)」へと案内してくれた。
ドアを開けると、そこは工場全体を上から見渡せるガラス張りの中二階、キャットウォーキングフロアだった。
「うわぁ……すご……」
思わず声が漏れた。
上から見下ろすと、広大な工場内の生産ライン、行き交う搬送ロボット、コンベアの工程が一目で見渡せる絶景が広がっていた。
初めて見る巨大な自動車工場のスケールに、僕とショウはすっかり圧倒されて立ち尽くした。
そんな僕たちに、おじさんが「はいこれ」と温かい缶コーヒーを手渡してくれた。
「ありがとうございます!」
ふたりで一礼し、コーヒーをすすりながら引き続きラインを眺める。
おじさんは誇らしげに説明してくれた。
「ここはね、機械制御室なんだよ。ここでラインが正常に動いているか、どこかで問題が起こっていないかをモニターや目視で確認・監視する場所なんだ」
おじさんの言う通り、何本ものラインが複雑に交差し、様々なパーツを載せたレーンが規則正しく行き交っている。
「君たちもね、この工場のどこかに配属されて作業することになるんだよ」
そう言うと、おじさんは「ちょっと待ってね……特別に……」と言いながら、バインダーに挟まれた書類をめくり始めた。
「あ、これこれ。君は……」
おじさんが僕を指さした。
「君は『トリムライン(組立ライン)』という車体レーンだね。主に流れてくる車体にドアを取り付けていく作業だ。内装や配線が組み上がった状態の車体が流れてくるから、最後にドアを取り付けて仕上げる重要なポジションだよ」
「えっ、ドアですか?」
「ほら、ここからでも見えるあそこ!」
おじさんが指さす先をよく見ると、まだドアのついていないツヤツヤの車体が、ゆっくりと、しかし確実にコンベアで流れてきていた。
そこへ作業員たちが群がり、ものすごい手際とスピードで4枚のドアをカチッと取り付けていく。
速い……!
「すごいスピードですね……僕にできるかな……」
不安そうに呟くと、おじさんはポンと僕の肩を叩いた。
「大丈夫! すぐ慣れるから。慣れたら簡単だよ」
「でも、もし遅れたら車が通り過ぎちゃいませんか?」
「作業が遅れてもレーンは動き続けるから、最初は間に合わなかったりするかもしれないね。でも安心して! 最初から一人で4枚全部なんてやらせないから。それに万が一の時のために、各作業場には『ライン緊急停止ボタン(アンドン紐・スイッチ)』がついているんだ。それを押せば全レーンがストップするから大丈夫だよ」
へ〜、そっか……。
なんだか話を聞いているうちに、だんだん楽しそうな仕事に思えてきた。
「で、君の方は……」
おじさんはショウの方を向いた。
「君はブレーキパッドとか、足回りの細かい部品を組んでいくセクションかな。手順通りにやれば誰でもできる作業だから、安心していいよ」
優しく教えてくれている、その時だった——!
ジーーーーーッ!!
工場内に地鳴りのような巨大なブザー音が響き渡り、さっきまでスムーズに動いていたすべてのレーンがピタッと停止した。
ラインの上頭部にある表示板、アンドンの赤いランプがピカピカと点滅している。
「えっ!? 何!? 火事!?」
僕とショウがパニックになりかけると、後ろからおじさんの「ハハハ!」という呑気な笑い声が聞こえてきた。
「大丈夫大丈夫。誰かがラインの停止ボタンを押したんだよ。作業が間に合わなくてね(笑)」
「えっ、止めてもいいんですか?」
「通称『ライン待ち』って言われてね。この間は全レーンが止まるから、現場の人間にとってはちょっとした『休憩のチャンス』かな?」
おじさんは笑いながら缶コーヒーを口に運んだ。
僕とショウは「ほ〜〜っ……」と感心したような声を漏らし、真似をしてコーヒーを口に運んだ。
そんな感じで、おじさんは工場の仕組みや裏話をたくさん教えてくれた。
気づけば時刻は8時50分を回っていた。
「さあ、そろそろ昨日の日勤組が出勤してきて、配属先の発表の時間だ! まぁ、君たちはもう自分の配属先を知ってるけどね!」
おじさんはそう言って笑いながら、僕たちを集合場所のホールまで案内してくれ、「がんばりなよ」と言って工場の中へと戻っていった。
僕とショウは顔を見合わせた。
僕が「すげえな! でも……あのおじさん何者なん? めっちゃ優しいし、コーヒーまで奢ってくれたし」
すると、ショウが目を丸くして言った。
「タケさん……あのおじさん、工場長っすよ! え? 知らなかったんスか!?」
……マジで!?
工場長におっちゃんとか言ってたんか、僕は……!?
まあ口には出してないけど、めちゃくちゃ偉い人やったんや……。
冷や汗が流れたが、こいつの前で恥を晒したくなかったので、僕はイキって言い返した。
「……工場長なんくらい最初からわかっとるわ! でも、工場長にしては気さくで優しいな〜って話をしとんねや! アホか!」
すると、ショウはなぜか目をキラキラと輝かせた。
「それ!! それですよタケさん!! その本場の大阪弁のツッコミ、めちゃくちゃ欲しかったんスよ〜〜!!」
そう叫ぶやいなや、ガシッと僕に抱きついてきた。
(……こいつ、話の内容聞いてへん。ただ単に大阪弁が聞きたいだけやな)
僕は呆れながらも、ショウの頭をペシッと叩いて振り払った。
いよいよ、横須賀での期間工生活、その初日の幕が上がろうとしていた。




