第21章 北久里浜
季節は3月下旬。
すっかり凍えるような寒さは和らぎ、春の陽気が街を包み始めていた。
大阪から荷物ひとつで飛び出し、新幹線と電車を乗り継いで、ようやくたどり着いたのは、神奈川県横須賀市にある京急線・北久里浜駅だった。
駅に降り立つ。
目の前に広がるのは、大阪とは違う、見慣れない街の景色。
駅舎はどこか近代的でありながら、派手さはない。駅前には大きなクスノキが立ち、街を行き交う人々の姿が見える。
海や軍港が目の前に広がるわけでもない。
そこにあったのは、地元の人たちの日常が流れる、ごく普通の駅前の風景だった。
けれど、僕にとっては何もかもが新しかった。
(……マジで来てしもたな)
僕は手に持ったボストンバッグを持ち直し、深く息を吐き出した。
大阪のあの賑やかな仲間たちや家族、そして美咲のこと……。
すべてを置いて飛び出してきた。
半分は美咲から逃げるようにしてたどり着いたこの街で、僕の期間工生活が、今まさに始まろうとしていた。
するとその時、
「期間工の方々! こちらにお集まりください!」
責任者らしき男性の大声が響いた。
散らばっていた男たちが、ぞろぞろと集まってくる。
ざっと60人くらいだろうか。
年齢層は実にバラバラだった。50歳くらいのおっさんもいれば、18歳くらいで友達同士で参加している若い子たちの姿も見えた。
そして、当然のことながら男ばかり……。
少しガックリしたが、こればかりは仕方がない。
責任者の男性がパンパンと手を叩いた。
「この近く、歩いていける距離に皆さんの寮をご用意しています。これからそちらに向かうので、皆さんついてきてください!」
そう言い放つと、男性はスイスイと歩き出した。
その後に、60人の男たちが重い荷物を抱えてゾロゾロとついていく。
どこかの政治デモか何かの行進のようで、周りの視線が痛く、なんだかめちゃくちゃ恥ずかしかった。
そんな行進の途中、道沿いにあるロイヤルホストの横を通り過ぎた。
その瞬間、僕は見逃さなかった。
僕の誇る「美人探知レーダー」は、こんなアウェイの地でも一切鈍っていなかったのだ。
店内にいる店員の中に一人、とんでもない「S級」の美女がいた。
(マジか……! 横須賀すげえな。ここは近いうちに絶対に顔を出さなあかんわ)
そんなアホなことを企みながら歩いていると、本当に駅から目鼻の先、徒歩5分ほどで寮に到着した。
寮の外観は……まるで学校の校舎そのもののようにドカンと大きかった。
中に案内されると、これまた校舎の大会議室のようなダダっ広い部屋へ通された。
前方には作業着を着た5人ほどのおじさんたちが待っており、壁には見たこともないほど巨大なホワイトボードが設置されている。
その手前には、おじさんたちが座る長テーブルと椅子が置かれていたが……僕たちが座るような椅子は見当たらない。
おじさんの一人がマイクを持った。
「それでは皆さん、説明会を始めますので、お好きなところにお座りください」
(って、やっぱ地べたかよ!)
体育館の床に直接座らされているような感覚だった。
おじさんが喋り始める。
「え〜皆さん。本日は遠方からもお越しいただき、誠にありがとうございます。お疲れだとは思うので簡単に説明させていただきます。ちなみに、皆さんどちらから来られましたか? 『私は遠いぞ!』って方、いらっしゃいますか?」
一瞬の静寂の後、一人の男性がピンと手を上げた。
「私、石垣島から来ました!」
それを皮切りに、「俺は北海道!」など、それぞれ手を上げて出身を語り出し、場の雰囲気が少し和らいだ。
なるほど……このおじさんは、この初対面だらけの重苦しい緊張感を和らげるために、あえてこんな他愛のない話題から入ったのだな、と感心していたその時だった。
なぜか説明係のおじさんとバッチリ目が合ってしまった。
「あなたはどちらから?」
と唐突に振られ、僕は咄嗟に答えた。
「大阪! 大阪ですわ! 大阪の堺っちゅうとこですわ!」
「堺! あの刃物の街、包丁と言えば堺市の堺だね!」
おじさんは知った風に返してきた。
(そうなん? 堺って包丁の街なん……?)
心の中で密かにツッコミを入れつつ、説明会はそのまま進んでいった。みんな真剣に聞いている。まわりを見渡すと色々な人がいる。そんな中、一人際立って目立つ人がいた。イカツイ・・大阪の野木さんレベルにイカツイ・・その人と目が合いそうになったのでおれはすぐに視線を外した。(あれ・・絶対やばい奴や・・。)説明会も終盤になり。
•職場までは寮から電車で追浜駅まで行き、そこから徒歩20分。
•勤務体制は日勤・夜勤の交代制で、工場のラインはフル稼働。
•基本の勤務時間は9時から17時までだが、残業したい人は何時まで残ってもOK。
•残業手当は通常の1.5倍支払われる。
一通りの説明が終わり、「詳しい仕事内容は各自持ち場が違うので、明日現場で説明を受けてください」とのことだった。
説明会が終了し、会場を出る際に一人ずつ自分の部屋の鍵が渡された。
「301」
僕の部屋は3階のようだ。
(ちっ……1階がよかったなぁ……)
重いボストンバッグを肩に担ぎ直し、階段を上って3階にたどり着いた。
フロアに立った瞬間、(うわ、マジで学校やん!)と思った。
長い廊下の感じといい、扉の並びといい、完全に学校の廊下に立っている感覚だった。
301号室なら、階段のすぐ横、一番手前の部屋のはずだ。
期待を込めてすぐ横の扉のプレートを確認すると、『310号室』と書いてあった。
(……え? めっちゃ端やん! てか一番奥!? 遠すぎやろ!)
と思いながらも、301を目指して長い廊下を歩き続けた。
すると途中、フロアの中央あたりに別の階段があるのを発見した。
(ってことは、301も端っこやから、もしかしたらそっちの階段のすぐ横にあるかも!)
期待を込めて向かうと、やっぱり301号室のすぐ横に階段があった。
ラッキーである。
鍵を開けて中に入ると、そこは殺風景な空間だった。
部屋の広さは結構あり、ちょうど学校の教室を半分にしたくらいのサイズ感だ。一人で過ごすには十分すぎるほど広い。
窓際の隅には木製の机が置かれており、その上にテレビがポツンと載っている。
その反対側の窓際には、パイプ製のシングルベッド。
床はフロアタイル。冬は冷たそうだ。
エアコンは窓に取り付けられているタイプで、普段見慣れたものとは違っていた。
そして窓の下には、白いセントラルヒーティングの放熱器が鎮座している。
(そういえばこれ、廊下とかいろんなところにあったけど……一体なんなんやろ?)
当時の僕にはそれが何なのか知る由もなかったが、とりあえず寝るだけなら困ることはなさそうだ。
ベッドに腰を掛け、テレビをつけてみた。
画面から流れてくるCMは、見たこともない関東ローカルのものばかり。
なんだか一気に寂しさがこみ上げてきた。
(関西電気保安協会のCMが見れへん……)
……まあ、そんなことはどうでもいい。
説明会での話によると、食堂は朝7時から22時までの通し営業らしい。夜勤明けの人間もいるため、こんな長時間営業になっているのだろう。
まだ時間は15時過ぎ。
長旅の疲れもあり、少しベッドで横になろうとしたその時、携帯がけたたましく鳴った。
画面を見ると、直樹からだった。
「お〜! どんな感じ? そっちは?」
まだ数日しか経っていないのに、なぜだか無性に懐かしく感じる直樹の声だった。
「お〜、今ついて一服してるとこ! 部屋めちゃ広いで!」
それから1時間ほどだろうか、くだらない雑談で盛り上がった。
念のため、寮の住所と緊急連絡先を直樹に伝える。
「もし俺が携帯出んくて緊急の用事があったら、この寮の番号に電話して! オカンが死んだ時とかな!」
そんな冗談を言って笑い合い、電話を切った。
時計を見ると、16時7分を回ったところだった。
まだまだ晩飯を食うには時間があって暇だったので、寮の中を探索してみることにした。
部屋を出て、一階まで降り、食堂、大浴場、会議室があるフロアをじっくりと見て回る。
食堂には、数人の男たちがポツポツと座っていた。
「そろそろ部屋に戻るか」と食堂を後にしようとしたその時——
「あの……」
後ろから、弱々しい声で話しかけられた。
振り返ると、そこに立っていたのは……丸刈りの金髪、耳にはピアス、ダボダボの服を着た、どう見てもコテコテのヤンキーだった。
年齢は同い年か、少し下くらいだろうか。
僕はちょっとビビりつつも、身構えて不愛想に返した。
「なに?」
すると、そのヤンキーは言った。
「あ〜っと、え〜……さっき説明会で喋ってた、大阪の人ですよね?」
「せやけど……なんなん?」
「それそれ! それですよ! 僕、関西弁にめちゃくちゃ憧れていて……身近にいないんで、仲良くしてください!」
唐突すぎるハイテンションなノリに少し圧倒されつつも、問いかける。
「自分、出身どこなん?」
「青森っす! 名前は大森翔太っていいます! ショウって呼んでください!」
(こいつ、めちゃくちゃグイグイ来るやん……。女の子やったら嬉しいけど、なんでこんな金髪ハゲピアスの相手せなあかんねん……)
僕が引き気味でいると、ショウは目をキラキラと輝かせて聞いてきた。
「名前、教えてもらってもいいっすか!?」
しばらく考えてから答えた。
「……タケトや」
「じゃあ、タケさんって呼んでいいっすか!?」
「別にええけど……なんなん? ラリってんの?」
「いい! その突っ込み! めちゃくちゃいいですよ!」
さらにテンションを上げて絡んでくるショウ。
(なんやねんこの状況……これは僕に与えられたなんかの試練なんか……?)
気圧されながらも、心底不思議に思っていた。
——この時の僕はまだ、知る由もなかった。
まさかこいつが、どうしようもないクズで、後に僕の大切な人に手を出そうとすることになるなんて、この時は思いもしなかったのだ。




