第20章 旅立ちの準備
翌日、目が覚めたのは昼の12時だった……。
実に12時間は寝た計算になる。
(あ〜……もうそろそろ横須賀行く準備せなあかんな……)
そう思いながら起き上がろうとしたが、まだ身体が言うことを聞かず、起き上がる気分になれなかった。
ベッドの上で、そのままゴロンと寝返りを打つ。
ぼんやりと天井を眺めていると、なぜか――あの美咲の、すやすやと心地よさそうに眠っている綺麗な横顔が、唐突に目の裏に浮かんできた。
「あ〜〜っ!!」
僕は思わず大声を上げて、バッと起き上がった。
(なんであんな奴の顔思い出してんねん、僕……。もう終わったんや……!)
でも本当に、もうなぜか美咲への気持ちはなくなっていた。
心の中で自分に強く言い聞かせ、顔を洗うために部屋を出た。
洗面所から出てくると、廊下でオカンとすれ違った。
オカン:「やっと起きたんか? はよ準備せなあかんのちゃうの?」
まるで僕の心の迷いを見透かしたかのように言ってきた。
僕:「……うん。ちょっと買い出しいってくるわ」
そう答え、部屋に戻って着替えを済ませると、愛車のキーを掴んで自宅前に止めてる
車に乗り込む。
窓を少し開けると、車内に流れ込んできたのは、春の暖かな日差しと、どこか優しくやわらかな空気だった。
すっかり冬の凍えるような冷たさは消え去り、陽炎がうっすらとアスファルトの向こうで揺れている。
(まず……パンツに靴下、下着類は必須やな! でも、そんな大荷物持って行きたないし、できるだけ軽装で行こう!)
そう決めた僕は、かつて働いていた古巣の服屋へ向かうことにした。
昨夜、帰り際に直樹には「このことは誰にも言うなよ」と固く口止めしておいた。だから店に行っても、誰からも突っ込まれることはないはずだ。
車を走らせると、見慣れた堺の街並みがウィンドウの向こうを流れていく。
街を行き交う人々もすっかり薄着になり、色鮮やかな春服を身にまとっていた。街路樹には小さな青々とした新芽が吹き出し、柔らかい春の風に揺れている。
何度も通ったこの道、この街並み。
あと数日でここを離れるのかと思うと、ふと妙な感覚に襲われた。
車を停め、店の前に立つ。
ウッド調の重厚な自動ドアが開くと、店内からはカントリー調のBGMと、あの懐かしい革と服の匂いが漂ってきた。
店内はすっかり春物のラインナップに模様替えされていた。カラフルなチェックシャツや淡いデニム、新作のTシャツが綺麗にディスプレイされており、僕が働いていた頃とは微妙に棚の配置が変わっている。
レジには直樹が一人で立っていた。
メンズコーナーでは店長が相変わらず真剣な顔つきで商品の整理をしている。そしてレディースコーナーでは、ねえやんが女性客の接客に追われていた。
僕はレジの直樹をあえてスルーし、店長に軽く会釈して挨拶をしてから、店内をしばらく物色した。
下着のパンツ、Tシャツ、靴下を手に取り、レジへと向かう。
レジではちょうど、ねえやんが先ほどの女性客の清算をしていた。
会計が終わり、ねえやんは「ありがとうございました〜!」と爽やかな笑顔で見送った。
元レディースの総長という過去など一切感じさせない、見事な接客ぶりだ。
(これが……もし普通なら、全然ええ女やのに。胸もごっつデカいし、年上やけど見た目だけなら十分ストライクゾーンやねんけどな。惜しいな、こいつ……)
そんなことを失礼ながら心の中で思いつつ、手に持っていた商品をレジカウンターへ雑にドカッと置いた。
ねえやん:「あれ? 今日は一人? みーは?」
案の定、聞いてきた。
この様子なら、直樹も昨日の出来事は口を滑らせずに黙っていたらしい。
僕:「いや……たまたまね」
素っ気なく答えると、ねえやんは僕が買い込んだ多めのパンツをレジに通しながら、ニヤニヤとからかってきた。
ねえやん:「お! どうした? 性病にでもなったか? こんなパンツいっぱい買って!」
僕:「いや……ちょっと必要で……」
ねえやん:「必要……?」
ねえやんが不思議そうに首をかしげる。
(しまった……! 余計なこと言ってもうた……!)
勘の鋭いねえやんに追及されるのを回避するため、僕は咄嗟に下ネタで誤魔化すことにした。
僕:「相変わらずちちデカいな! 一回触らせてや!」
するとねえやんはニヤリと笑い、目を細めて睨んできた。
ねえやん:「あたしに触れるなんて、10万年は早いわ!」
僕:「(笑)」
ねえやん:「わたしのこの可憐なボディは、決めた人にしか触らせられないの〜。も〜恥ずかしい〜〜!」
柄にもなくクネクネと可愛らしいポーズを取ってみせるねえやん。
(もうどうでもええから、早く会計終わらせてくれ……!)
心の中でそう切に願っていると、そこへ直樹がニヤニヤしながらやってきた。
直樹:「おう! 調子どう? パコパコやってる〜?」
そう言いながら、腰をグラインドするように振っている。
(アホかこいつは……)
と思いつつも、ノリを合わせて返した。
僕:「やってるで! これからZARD(京子ちゃん)とパコパコやりに行くんや!」
笑いながら言うと、そこからは以前みんなで仕掛けられた「ZARDドッキリ」の思い出話で一気に盛り上がった。
以前、美咲の携帯を使ったねえやんからの呼び出しでこの店に呼び出され、ZARD(京子ちゃん)や美咲たちの前で大取り調べを受けたあの事件だ。
直樹が隠し撮りしていた「僕と京子ちゃんが密着してソリに乗っている写真」をデジカメで突きつけられ、白状させられたこと。そして実は、あの怒涛の連行劇が岡下のビンタの恨みによる仕返しドッキリだったこと……。
「あのデジカメ見せられた時の武人の顔、マジで傑作やったな!」
「『必要最低限の接触です』って急に敬語になったもんな!(爆笑)」
当時の焦りようを思い出し、3人で声を合わせて大笑いした。
あの頃と変わらない、バカバカしくて温かい店の空気。
ひとしきり思い出話で笑い転げた後、僕は手提げ袋を受け取り、「じゃ、また!」と言って店を出ようとした。
その時――。
「……ちゃんと、みーちゃんに電話しなよ」
背後から声が聞こえた。
振り向くと、さっきまでの冗談めかした顔とは打って変わって、ねえやんがどこか優しく、そしてどこか寂しげな表情で僕を見つめていた。
(……直樹の奴、やっぱり話してたんか)
僕は何も言えなかった。
ただ小さく頷くような、誤魔化すような仕草をして、そのまま静かに自動ドアが開き、外に出た。
外の空気に包まれる。
店から出ると、爽やかな春の風が僕の頬を静かに撫でていった。
見上げると、抜けるような青空に薄い春雲がふんわりと浮かんでいる。日差しはポカポカと温かく、体感温度も心地いいはずなのに、胸の奥だけがどこかすーすーと寒かった。
ねえやんの「電話しなよ」という言葉が、春風に乗って何度も頭の中でリフレインする。
(電話……か)
見慣れたショップの看板、駐車場に停めた自分の車、そして澄み渡る春の空。
すべてが新しく始まる季節の中で、僕だけが止まったままのような、言いようのない切なさが胸いっぱいに広がっていった。




