第19章 横須賀へ
季節は巡り、寒さの底を抜けた街には、柔らかな春の気配が少しずつ漂い始めていた。
「おれ……横浜行こうと思ってんねんけど……一緒に行かん?」
「横浜ね~いいけど、いつ?」
「まだ決めてないけど、今月中かな」
「ん? 仕事どうすんの?」
「やめた!」
「まじ?」
「まじ」
「え? どういうこと?」
「泊まり? もしかして旅行!?」
「何日くらい行こうと思ってんの?」
「ん~半年くらいいこかなっておもって」
「まじ? ちょっと長くない?」
「まじ」
「一緒に行かん?」
「とうとう狂ったかお前」
画面から目を離さずに吐き捨てたのは、直樹だった。
今日は久しぶりに直樹が家に遊びに来ていた。
直樹は僕の親父やオカンとも仲が良く、泊まりに来たり、一緒に晩御飯を食べて帰ったりと、もう半ば家族みたいなものだった。
僕の自宅は、閑静な住宅街にある一戸建てだ。一軒一軒が全く違うデザインで建てられており、一軒あたりが結構広い。
僕たち家族は、僕が小学6年生の時に堺市の諏訪ノ森から、ここ泉北へと引っ越してきた。当時は空前の戸建て購入ラッシュで、なんと20倍という凄まじい抽選倍率を見事に引き当てて購入した家だった。
家全体は落ち着いたベージュ色で、どちらかと言うと四角い形をしている。屋根が平らな陸屋根で、確か「大成建設の家」だと親父が言っていたが、僕にはよく分からない。
その2階にある一つの部屋が、僕の寝床だった。
その僕の部屋で、直樹が口を開いた。
直樹:「何が楽しくてお前と横浜に半年も行かなあかんねん!」
僕:「マジか? 俺のこと捨てるんか?」
直樹:「すてるもなんも、最初からひろてないからな~」
相変わらずのつまらん返しをしてくる。
僕:「いや~おれな! ちょっと目標出来てん! 聞きたい?」
直樹:「聞きたないけど、言いたそうやから聞いたるわ」
直樹はゲームの手を止めずに言ってきたので、一気に語ることにした。
僕:「いや、横浜で……まあ厳密には横須賀やねんけど、日産の期間従業員っての募集してて、それがめっちゃ給料よくてや! で、それで金貯めて、スティード買って、それ乗って帰ってこようかなって思ってんねん! どう! この完璧な計画!」
「……ちょっと待って」
直樹が急に立ち上がり、部屋を出ていくと、2階の廊下から1階にいるオカンに向かって大声で叫んだ。
直樹:「おばちゃ~ん! こいつ頭いってもうてるで~!」
すると下から、即座にオカンの声が返ってきた。
オカン:「しってる~!」と返ってきた。
部屋に戻ってきた直樹は、一時停止していたゲームを何事もなかったかのように再開した。
僕:「なんでやねん!」
すかさず突っ込んだ。
直樹は仕方なさそうにゲームを止め、こちらを振り返る。
直樹:「で? その、ス……スペード??ってなんなん?」
僕:「違う違う! スティード! バイクや! あのアメリカンのやつ!」
直樹:「あ~、あのハーレーみたいなやつ?」
僕:「そう! それ!」
……少しの沈黙。
直樹:「……で? なんやった?」
僕:「お前、耳ついてんのか!?」
呆れながら僕は畳みかけた。
僕:「だから! バイクほしいから横浜行って金稼いで、買うねん!」
直樹:「お前、バイクの免許持ってんの?」
僕:「ない! だから取る! これも横浜で!」
いやいや……と直樹が頭を振る。
直樹:「バイク買うのになんで横浜なん? 女でもおるんか?」
僕:「あほか! なんでやねん、ちゃんと話を聞け! ええか……横浜、厳密には横須賀やけどな、そこで日産の車の工場があって、そこ短期間でめっちゃ稼げるねん! だから行くねん! 分かる? え? 分かるかい? 直樹君!」
直樹:「要は、手っ取り早く金稼いで、バイクの免許取って、バイク買って、それ乗って帰ってくるってこと?」
僕:「そや! ようわかったやんけ!」
すると直樹は、頭をガシガシと掻きむしりながら言った。
直樹:「まぁ……色々言いたいことがあるけど……あまりにありすぎて何言ったらいいかわからん。……でも、お前がイカレてるのは確かや」
そしてまたゲームに戻った。
僕:「どこがいかれてんねん! ちゃんと目標をもって一つの事をやり遂げたいねんや!」
この時なぜか、興信所の先輩とのあの時の会話がふと頭によぎった。
「今は好きなこといっぱいして、色んな経験積んで、世間勉強した方がええぞ」
松さんは、そんな助言をしてくれたな……。
そう思っている時、直樹が口を開いた。
直樹:「いいんちゃうか……知らんけど」
ゲームを続ける直樹だったが、ふと声のトーンが少し落ちた。
直樹:「おかしいというか……急にどないしたんや? 何があったんや、お前」
直樹はゲームの電源を切り、こちらに向き直った。
直樹:「だいたい、みーは知ってるんか?」
僕:「あいつには……もう関係ないねん」
直樹はびっくりした顔になった。
直樹:「なんで???」
僕:「あいつとはもう終わりや!」
直樹:「だからなんで!?」
僕:「いや……この前、電話で話しててな。最初は普通に話してたんやけど、たまたま同じ歌番組見ててん。そしたら、あんまり可愛くない女の歌手がテレビで歌っててさ。名前なんやったか忘れたけど、美咲が『かわいいやん!』って言ってきてん。でも俺は可愛くないと思ったから『かわいくないわ! 足も太いし。俺、脚フェチやから足命やねん』って言ったんや」
直樹は呆然と僕を見ている。
僕:「そしたらあいつ、『見た目だけで判断するとか最低!! あほちゃう?』とか言ってきやがって。腹立ったから『お前もそういえば足太いよな』って言ってやったら……あいつ『最悪~! 最低~! 人間のくずやなお前!』って言ってきてんぞ? 『お前』って言うねんで!? 腹立つやろ! こっちも『別に嘘は言ってないやん』て言ったら、あいつ『むかつくわ~』っていってきて、こっちも『むかつくわ~』て言い返して。『もう二度とお前の顔なんか見たないわ!』って言ってきたから、こっちも『おう! 俺も見たくないから、もう終わりやな! 別れたるわ! 終わりや!』って言ったら、あいつも『もう電話してくんな!』っていってガチャ切りや!」
息を荒げて語る僕に、少し間をおいてから直樹が顔を覗き込んできた。
直樹:「……もう話終わりか?」
僕は、あの興信所での凄絶な出来事や、仕事をやめた経緯についても話した。直樹はそれに関しては、仕事を辞めたことに深く納得していた。
少しの間、部屋に沈黙が流れた。
直樹:「でも……その仕事でのイライラも関係して、そんなレベルの低い喧嘩になったんじゃないんか?」
僕:「仕事と喧嘩は関係ない!」
僕は言い切った。
直樹は大きなため息をついた。
直樹:「にしても、お前ら……レベルの低い喧嘩してんなぁ(笑)。わろたらあかんけど、わろてまうわ」
呆れながら、直樹が続ける。
直樹:「で、仕事はいつやめたん?」
僕:「10日前」
直樹:「喧嘩したのは?」
僕:「8日前……ほんまはその電話で仕事のこと話そうとしたんやん! でもそんな話になってもうて、もうこの際いい機会やからええわっておもった」
直樹:「まじか……」
僕:「なんか、いちいち説得するのもしんどいやん。てか、もう、美咲とはいいかなって思ってしまった」
直樹は何も言わなかった。
仕事の状況とくだらない喧嘩の話が同時に発生したので、頭が回らないのだろう。
やっと出た言葉が、
直樹:「もう、行くの決まってんの?」
僕:「おう! 3日後!」
直樹が目を丸くした。
直樹:「明々後日!? めっちゃ早いやん!」
僕:「そう! 俺、決めたら早いから! あいつと別れた次の日に大阪の事務所に面接受けに行って決まってきた!」
直樹:「なんやそれ……お前めちゃくちゃやな。……てか、本当に別れたんか?」
僕:「別れた! あいつも『もう電話してくんな』って言ったし、実際かかってもこんし、そういう事やろ!」
直樹:「う~~~ん……そうなんかな?」
僕:「もういいねん! あいつのことは! なんかすっきりしたわ! これでまた遊べるし! 自由や! フリーダムや!」
直樹:「そうなんか、ほんまに……?」
直樹が怪訝な顔をしたその時、1階からオカンの大声が響いた。
「ごはんできたで~!」
二人一緒に1階のダイニングに向かった。
食卓には親父、オカン、兄貴が先に座っていた。もう一人の兄貴はいないみたいだ。あいつも遊び人だからどこかへ行ってるんだろう、と思った。
今日の食卓に並んでいるのは、豪華な手巻き寿司だった。
直樹と僕は席に着き、そそくさと食べ始めた。
オカン:「あんた、頭いかれたらしいやん」
兄貴:「前からいかれてるやん」
親父:「お前、仕事辞めてから次みつかったんか?」
僕:「みつかったで。明々後日からや!」
親父:「ほ~、そういう行動はお前、昔から早いのぉ」
オカン:「おとうさんのところで働いたらいいのに……そや! あんた、直樹くんもうちで働いたらいいねん!」
直樹まで巻き込んできた。まあ、いつものことだ。
親父は小さいながらも会社を経営している。加除式出版社と言って、法律の本を取り扱っている会社だ。現在では時代錯誤の仕事だが、当時は結構儲かっていたみたいだ。
でも、僕は入るつもりはなかった。
昔、高校卒業の時に親父から「お前はいろんなところで社会経験して来い。色々な人たちと接して社会の厳しさを自分自身で学んで来い」と言われてからは、絶対に行かないと決めていた。当時はまだ子供だったので、親父に拒否されたと思い込んで反抗していたのだ。
僕が必死になって直樹とエビの取り合いをしていると、親父が口を開いた。
親父:「次の仕事はなんや?」
エビの争奪戦で必死だったので、
僕:「日産!」
とだけ言って、直樹からエビをもぎ取った。
兄貴:「お前が日産入れるわけないやろ! 頭わいてんのか」
僕:「やかましわ!」
と言いながら、次はマグロを巻こうとした。
親父:「日産って言っても色々あるわな~、どこの日産や?」
めんどくさかったので、
僕:「え! 日産追浜工場で働く!」
と言いながら、大トロを取ろうとしたが……兄貴に奪われた!
くそ! 学生の分際で大トロ取るな!
……まぁ関係ないか。
親父がきょとんとして言った。
親父:「追浜って……横須賀のか?」
僕:「そや! 神奈川県!」
オカン:「ええっ!? いつから!?」
僕:「3日後! 横須賀駅前集合!」
兄貴:「たしかにぶっ飛んでんな……お前」
すると直樹が余計なフォローを入れた。
直樹:「いや……こいつも色々あったみたいで……」
(直樹よ、学べ! この家族にはフォローなど必要ない事を!)
親父:「じゃ、3日後には横須賀行くんやな? どんくらいや? なんか目的あるんか?」
僕:「当たり前田のクラッカーやん!」
親父:「ほ~、まあどんな目的でも目的を持つのはいい事や」
オカン:「どんな目的なん?」
心配そうに聞いてきた。
僕はハッキリと言い放った。
僕:「ハッキリ言うで。俺は半年間……いや、それ以上になるかもやけど、給料いいし寮もタダやから、あっちで金貯めて、バイクの免許取って、バイク買って、そのバイクで大阪戻ってくる!」
それを聞いた兄貴が、からかうように笑った。
兄貴:「まぁ、無理やろな!(笑)」
僕:「やかましわ。俺はやる言うたらやるんや!」
すると親父は、僕の気持ちを汲み取るように言った。
親父:「やったらいいわ。出来るかどうか、それも何もかも経験や。人生に無駄なんか何一つないからな」
意外とあっさり認めてくれた親父の言葉に、僕は小さく頷いた。
直樹との手巻き寿司争奪戦も終わり、「今日泊まるんか?」と僕が聞くと、直樹は「俺明日も仕事やから、今日は帰るわ」と答えた。
すかさずオカンが「なんや……泊まってたらいいのに」と言い、直樹は苦笑いした。
食卓にはもう親父と兄貴の姿はなく、オカンと僕たちの3人だけになっていた。
親父はリビングのソファーに深く腰掛け、受信料も払っていないNHKのテレビをぼんやりと眺めている。
オカンは呆れ顔で僕に言った。
オカン:「あんたはもう……いつも突然やな……。計画性があるんかないんか、よう分からんわ、お母さん」
僕:「何言ってんねん! めっちゃ完璧な計画やん!」
すると、直樹がすかさず横から口を挟んできた。
直樹:「全然、完璧ではないけどな……。なんか勢いで決めたとしか思えんわ」
オカン:「何の勢い?」
オカンが直樹に尋ねると、直樹はさっき部屋で二人で話した内容を、そのままオカンに喋り始めた。
すると、オカンの目が輝き、興奮気味に食いついてきた。
オカン:「あんた! 彼女おったん?? 連れといで!! お母さん見たいわ!」
僕:「……話聞いてた? もう別れたんや! 別れたのにどうやって連れてくんねん!」
オカンは僕の言葉を完全にスルーして、一人で思い出話を始めた。
オカン:「前の子……ミキちゃんやった? あの子も綺麗な顔してて、ええ子やったなぁ。……美咲ちゃんってどんな子なん?」
すると直樹が、なぜかオカン以上に興奮気味に答えた。
直樹:「いや〜、それがめっちゃ可愛いねん! こいつにはもったいないくらい!」
オカン:「へ〜! 見てみたかったわ〜。直樹、今度その子連れてきて!」
僕:「なんでやねん! だからもう別れたって!」
話がかみ合わない会話に嫌気がさし、僕は席を立った。
僕:「風呂入ってくるわ」
と言って、その場を後にした。
湯船に浸かって頭を冷やし、上がってくると……まだダイニングテーブルでオカンと直樹が話し込んでいた。
しかも、なぜか親父までそこに混ざっている。
(どういう状況や、いったい……)
まあ、どうでもよかったので、僕は声をかけた。
僕:「直樹! 帰るんやろ? もう俺寝るで!」
直樹も時間を気にしていなかったのか、ハッと時計を見て立ち上がった。
直樹:「じゃあ俺も帰るわ!」
席を立つ直樹に、親父とオカンが「またいつでもおいでや!」と声をかける。
二人で玄関へ向かい、外へ出た。
今日の直樹は愛車のインスパイアで来ていたので、送っていく必要はない。
車へ向かう帰り際、直樹がふと足を止め、真顔で僕を振り返った。
直樹:「なぁ……一応、みーに伝えた方がいいんちゃうか? ほんまに終わってまうで……」
その言葉を、僕はどこか適当に受け流すように言った。
僕:「じゃあな!」
そのまま直樹を見送り、車のテールランプが遠ざかっていくのを一人で見つめていた。
直樹の車が見えなくなり、静まり返った玄関の外で、僕はハァとひとつ大きなため息をついた。
昼間のぬくもりが嘘のように、春の夜風がひんやりと肌を撫でていく。
どこか遠くで、夜の静寂を切り裂くように虫の羽音が小さく響いていた。春特有の、湿り気を帯びた土と青くさい草の匂いが鼻腔をくすぐる。
季節は確かに、新しい季節へと移り変わろうとしていた。
街の景色も、空気も、そして僕自身の環境も。
だが、その柔らかな春風の中にポツンと取り残されたような寂しさが、じわじわと胸の奥に広がっていくのを、僕はただ一人感じていた。




