第11章 児童公園の缶コーヒー
1月下旬。
僕の実家がある堺の冬は、特に寒かった。
家から一歩外へ出ると、全身が凍りつくような冷気が突き刺さる。
しかし、待ちに待った本格的な冬の到来——つまり、スノーボードシーズンの幕開けだった。
今日は仕事が終わったあと、夜中に大阪を出発して、兵庫県のスキー場へ直樹と二人でボードに行く予定になっていた。
ボードへ行くときは、いつもこの二人だ。
愛車のハイラックスサーフを走らせ、直樹の自宅(兼ねぇやんの家)へと迎えに行った。
もともとサーフはボードに行くために買った車なので、まさに本領発揮である。
深夜12時。
直樹の家の前に車を止め、電話で呼び出す。いつものパターンだ。
本来なら女の子でも誘いたいところだったが、当時はまだスノボ人口自体が少なく、滑れる女の子もほとんどいなかった。
車内でしばらく待っていると、家から出てきたのは……なぜか、ねぇやんだった。
(……なんか、ヤバい予感がする)
ねぇやんは車のガラスではなく、ドアのボディを拳で「ドンドン!」と激しく叩いてきた。
(こわっ!!)
ビビりながらパワーウィンドウを下げると、ねぇやんは、
「ちょっと寒いから乗せてや!」
と言い放ち、勝手に助手席に乗り込んできた。
この極寒の季節に、なぜか半パンにTシャツという凄まじい格好だ。
言い忘れていたが、ねぇやんは容姿自体は悪くない。ただ、口が異常に悪いだけだ。
身長は145cmほどと小さく細身で、どちらかといえば綺麗な方に入る。年齢は僕らより12歳上の大人で、あと……胸がやたらとでかかった。
かつて岡下が罰ゲームでその胸を触った際、ガチの拳で顔面を殴り飛ばされていたのを、今でも覚えている。
助手席に収まったねぇやんは、開口一番、ドスの効いた声で言った。
「あんた……直樹に聞いたけど、また『やり逃げ』したんやて!? あの美咲ちゃんのこと!」
ビクッ!! と肩が跳ね上がった。
(や、やり逃げちゃうわ!!)
連絡はちゃんと取っているし、そりゃあ以前よりは会う回数が減ったかもしれないが、絶対に逃げてなんかいない!
「逃げてないで! きっちり向き合ってるって! もう会った時なんか、僕が運転席から降りて、助手席のドア開けて乗ってもらうくらいの勢いやから!」
「アホか! そんなん聞いてるんちゃうねん!」
パシィンッ!
容赦なく頭をはたかれた。
「あんた、最低なことしたらしいな」
あの時の僕は、「最低」という意味がよく分かっていなかった。
今思えば、確かに僕は最低だったのだと思う。
あの日、美咲とホテルに行った夜。
行為が終わり、僕は運転の疲れもあって、ぐっすりと熟睡してしまっていた。
だが、僕は知らなかったのだ。
美咲にとって、あれが人生で初めての体験だったということを。
行為の最中も終わってからも痛くて仕方がなく、お腹の激痛で一晩中眠れずにいたのだという。
翌朝、僕が目を覚ました時、美咲は「おはよう!」と最高の笑顔を向けてくれていたはずだった。
確かに「お腹痛くて寝れへんかった〜」とは聞いていた。
だが、当時の僕は「そうなんや〜」で片付けてしまっていた。
初めてだったと聞いて驚きはしたものの、それ以上深く考えていなかったのだ。
……ねぇやんに怒鳴られるまでは。
「あんたな、女の子の初めての時にそんな雑なことしたらな、ほんまに傷つくんやで! 精神的にも、肉体的にも! それ考えて美咲ちゃんと話してるか? 話してないやろ! ろくに気にもせず、アホみたいな話ばっかりしてるんやろ! ちがうか!?」
「あ……それは……考えてなかったですかね……はい……」
すっかり縮み上がる僕に、ねぇやんは追い打ちをかけた。
「かわいそうに美咲ちゃん……今頃、男性恐怖症になってるかもな! お前のせいで!」
「…………」
「じゃあ、どのようにしたらよろしいのでしょうか……」
思わず敬語で訊ねる僕。
「嫌いじゃないんやろ? 好きなんか嫌いなんか、どっちなんや!」
「……どっちかというと、好きかな?」
その時だった。
「お股タマタマタ股の下〜〜!!」
ふざけた声を張り上げながら、直樹が後部座席のドアを開けた。
車内の重苦しい空気を察したのだろうが、時すでに遅し。
あまりにもくだらないギャグを打ち込んできた直樹に向かって、ねぇやんの雷が落ちた。
「やかましいわ!! 外で待っとけドアホ!!」
「え〜! せめて後部座席でいいや〜ん、寒いし〜!」
文句を言いながら乗り込んでくる直樹。
ややこしい奴が追加されてしまった。
「じゃあどうすんねんこれから!」
ねぇやんの追及は止まらない。
「好きなんやったらどうすんねん! って聞いてんねん!」
「え……と、謝る?」
「このドアホ! 謝ってどうすんねん!」
「……しゃ、謝罪する!」
「言い方変えただけやろ!」
バシッ!
と再び頭を叩かれた。
「男やったらちゃんと責任持て! あの子はお前らが今までナンパして遊んできた子らとは違うねん! 見たらわかる! 純粋な子や!」
(あんたらって言いつつ、直樹もいつの間にか同類に入れられてるな……)
少しウケつつも、僕は意を決してズバッと言い返した。
「わかった! じゃあ責任取るわ! 結婚する!」
「誰が結婚せえ言うてんねん! 責任取れって言うとんねん! このアホ二人!」
すると直樹が、
「え? 俺も?」
と呟いた瞬間、ねぇやんの殺気こもった「黙れ」の一言で撃沈した。
だが、ねぇやんの言葉は、僕の胸の奥深くに突き刺さっていた。
僕は腹を括った。
「……わかった、ねぇやん。俺、あいつと付き合うわ。別に嫌じゃないし、優しいところいっぱいあるから。俺も実は、なんとなく気になってた。『あ、今何してるんかな〜』とか。それって……好きってことかな?」
その瞬間、ねぇやんの顔色が変わった。
「それや!! それが『好き』の始まりや! 行け! 今から行ってこい!」
「「……えええぇぇぇーーー!!?」」
僕と直樹の声がハモった。
直樹が、
「いや、これからちょっとボードなんですけど……」
と言いかけるも、ねぇやんは、
「それ伝えてから行け!」
と一蹴。
僕は焦って、
「もうこんな時間やし、寝てるんちゃうかな……」
と抵抗する。
すると、
「そんなもん電話で確認したらええやろ! 『起きてる? 今から少しだけ家出れる?』みたいに聞け!」
と畳みかけられた。
「電話せぇ!!」
ドスの効いた声に押され、僕はねぇやんの目の前で美咲に電話をかける羽目になった。
(頼む……電話に出んといてくれ! 神様お願い! 美咲、電話に出ないでくれ……!)
祈りが通じたのか、呼び出し音は虚しく響き、美咲が電話に出ることはなかった。
「電話出ませんでした! 今日のところは私たち、後があるので、お引き取りください!」
とお願いし、なんとかねぇやんに車から降りてもらった。
助手席に乗り込んできた直樹と、逃げるようにねぇやんの自宅を後にした。
「怖かったね〜今日は一段と!」
と直樹。
「いや〜、元レディースはやっぱりちゃうな……!」
「でも、おっぱい揺れてたね〜」と直樹が言った瞬間。
ここまで真剣だった僕も、思わず吹き出してしまった。
確かにデカい。男として一度でいいから触らせてほしいというロマンはある。
直樹はねぇやんの風呂上がりのブラジャー&パンティ姿を見慣れているから、何とも思わないのだろうが。
しばらく走っていると、直樹が真顔で聞いてきた。
「でもみーどうすんの? マジで。遊びなんやろ?」
その直樹の一言が、僕の中の「何か」に火をつけた。
「……遊び? 遊びじゃなかった……あかん、俺、好きかも」
それに対し、直樹が言った。
「マジで……? でも可愛いからな、みー!」
「いや、そういうのじゃなくて……」
自分でもうまく説明できなかった。
だが、なぜか愛おしい。
ねぇやんに言われなくても、最初からそうだったのだ。
でも、僕みたいな遊び人でいいのだろうか——。
その時、僕の携帯が鳴った。
画面には「美咲」の文字。
慌てて電話に出る。
『ごめん、電話くれてたみたいやね。どうしたんこんな時間に? 今日ボードじゃなかったの?』
受話器から聞こえる美咲の声を聞いた瞬間、胸がギュッと締め付けられた。
気づけば、僕は咄嗟に口にしていた。
「今から家出れる……? 少しだけ!」
一瞬の間を置いて、美咲は答えた。
『一瞬ならなんとか……コンビニ行く感じで……』
「じゃあ今から行く! 着いたら電話するから、準備して待ってて!」
電話を切ると、隣で聞いていた直樹が、
「なんかおもろくなりそうやな……」
とニヤニヤし始めた。
サーフを走らせ、夜の闇を抜けて、いつものあの児童公園へ到着した。
「おっ、ここ前の公園やん!」
とはしゃぐ直樹を無視し、到着したことを美咲に伝える。
「これからどうすんの? 車で一発やるんか? 俺どうしたらええの?」
とアホなことを言う直樹。
しばらくすると、黒いコートを羽織った美咲が、小走りでやってくるのが見えた。
直樹はすぐに助手席のドアを開けて外へ出た。
「直樹さん! 久しぶり! 外出るの寒いよ? 私が後ろに座ろうか?」
と気遣う美咲に、直樹は、
「ごゆっくり〜!」
と言い残し、ダウンジャケットのフードをかぶって、遠くの自販機へと走っていった。
その背中を見送ってから、美咲が助手席に乗り込んできた。
「こんな時間になに? なんかあったん? どうしたん?」
開口一番、驚いたように言われた。
無理もない。すでに深夜1時30分だ。
「みーこそ大丈夫なん? 家、ヤバくない?」
「大丈夫! バレへんように出てきたから」
悪そうな顔で、フフッと微笑む美咲。
「そっか……」
そこから、しばらく無言の時間が流れた。
「なんなん一体?」
と美咲が聞いてくる。
僕自身、頭の整理がついておらず、何を喋ればいいのか分からなくなっていた。
ただ……言いたいことは、たった一つだけだった。
僕は美咲の目を真っ直ぐ見つめて言った。
「……俺が今、一番好きなのは美咲」
美咲は首をかしげた。
「そうなん? で?」
「だから、好きって言ってるねん! それを言いに来てん!」
「それだけ言うために、こんな時間にわざわざ来たん? 電話で済むやん」
確かにそうだ。電話で十分だった。
でも、直接伝えたかったのだ。
「……みーは、俺のこと好き?」
少し間が空き、美咲は首を傾げながら言った。
「さぁ〜、どうやろ……タケ次第じゃないかな?」
「……俺次第? どういうことや?」
僕は好きだと伝えているのに、「俺次第」とはどういうことなのか。わけが分からなくなる。
追撃するように、美咲が重ねてきた。
「で、何しに来たん?」
「だから、好きって……」
「それだけじゃ分からんやん。どうしたいの?」
「どうしたいって……これからもよろしくっていうか……」
「よろしくってそれじゃよく分からん。ちゃんと言ってよ」
美咲の顔が少しムッとしてきた。
「ちゃんと言ってるやん!」
「言ってない!」
沈黙が車内を支配した。
しびれを切らした美咲が、
「もう帰る。直樹さんも外で待ってるし、可哀想やから」
と言いながら、ドアノブに手をかけた。
その時、僕の口から思わず言葉が飛び出していた。
「付き合ってください……」
一瞬の間を置いて、焦った僕は余計な一言を付け加えてしまった。
「……できれば、やけど」
時が止まった。
美咲はドアから手を離し、ゆっくりと座り直した。
「……『できれば』はいらんけど・・「よく言えました!」」
そう言って、ポケットから僕の大好きな「UCCのミルクコーヒー」を取り出すと、僕の頬にポンと当ててくれた。
缶コーヒーはすでにぬるくなっていた。
だが、そこには確かに、美咲の手の温もりが残っていた。
美咲は再びドアを開け、車から降りようとした。
「ちょっ……!! で、返事は!?」
焦りまくる僕に、美咲は振り返ってニッコリと笑った。
「ん〜……考えとく!」
そう言い残すと、美咲は車を降り、遠くで待っていた直樹の方へ可愛らしく駆け寄っていった。
(……え? 何これ?? 一体どうなったん?? 僕、振られたん?? 『考える』ってなんで……えぇぇぇーーー!!?)
車内に一人残された僕は、外で楽しそうに喋っている美咲と直樹の姿をぼうぜんと眺めながら、一人パニックに陥っていたのだった——。




