生きていてもいい理由
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夜、黒松がやって来た。早蕨に呼ばれた沙羅は、応接用の間へと急いだ。黒松は朝来ていたのと同じ狩衣姿だ。直衣ではないのは、武官だからだろうか。
黒松は疲れた様子で、「沙羅への褒美は兵部で決めることになったため、もうしばらく時間がかかることになってしまった」と詫びた。
「早く山に戻りたいと言っていた君を無理やり引きとどめるようで申し訳ないが、あと少し、時間をくれないか」
「私は褒賞なんていらないんですよ? 黒松様さえ承知してくだされば、今すぐに山に行ってしまいたいと思っています」
「おや、そんなに山に戻りたいのかい? あんたが望めば、このお社で『巫』としてお勤めすることだってできるよ」
まるで見計らったかのように、巫女婆が白湯の入った湯呑を持って応接の間に入って来た。
「なんだ巫女婆、酒じゃないのか」
「うちのお社じゃ、お神酒を下げものとしていただくのは正月の後だけだって知っているじゃろうが」
「分かっているって」
黒松にとって、巫女婆はどんな存在なのだろう、と沙羅は思った。実の親子や祖母と孫には見えない。ただ、気安い空気がそこには確かに流れている。それは両親が生きていたころの沙羅には感じられたが、伽羅と二人生きるようになった日からは遠のいてしまったものだ。
うらやましい、と沙羅は思った。心をさらけ出すことも、甘えたことを言うことも、沙羅の日常からは遠く離れてしまったものだ。何も知らなければ渇望などしない。知っているからこそ、それが失われた時に、そしてそれが二度と手に入らないものであると気づいた時に、誰もが狂おしいまでに再び手に入れたいと手を伸ばしてしまうもの。
「沙羅、どうした?」
「え?」
「泣いている」
沙羅ははっとして自分の頬に触れた。黒松の言う通り、涙の道ができている。
「あら? どうしてかしら? 変ですねぇ、私、泣いたことに気付きませんでした」
笑い泣きしながら、沙羅は涙をぬぐった。そんな沙羅を、黒松はじっと見つめている。
「すみません、見苦しいものを」
「沙羅は、そうやっているも我慢して生きて来たのか?」
唐突にそう言われて、沙羅は動けなくなった。
「さっき、うらやましい、と言っただろう?」
「あら、私、口に出してしまっていましたか? 恥ずかしい」
「巫女婆との会話だけでうらやましいと思わず口を突いて出るような生活をしてきたのだろう? その上、生贄として里から追い出されたと言っていたな? どこだ、そんな里は? 物申してやる」
「遠い遠い所ですから、どうかお気になさらず」
「いや、気になるね」
巫女婆も同じように怒っている。
「沙羅、あんた分かっていなかったようだが、あんたは間違いなく『巫』だよ。気づかぬうちに神様から与えられていたんだろうね。
話を聞いたが、猪に噛まれた子どもの傷を一瞬でふさいだだけじゃない、何かしたんだろう? 獣に噛まれて熱を出さないなんて聞いたこともない。あんたには普通の人間にはない力がある。それは間違いなく人の力ではなく、神様から与えられたもの。神様はね、自分の力を正しく使ってくれるものに力を与えて『巫』とし、ご自分の代わりに人々を救わせていらっしゃるんだ。力を与えられた者は、それをきちんと使わなかったら、神様の御意思に背くことになるよ」
「そうだな、我としても、黒鉄隊の隣になるこのお社で、沙羅が怪我を治してくれる『巫』となってくれると本当にありがたい」
「ですが、私は追放された身で……」
「追放されたんだから、どこでどう生きようがこっちの勝手じゃないか」
「勝手、ですか?」
「ああ。追放と考えると気持ちが沈むだろうが、里から解放してくれたと思えたら、随分見え方が違ってくるんじゃないか?」
「あ」
沙羅は目から鱗が落ちたような気持ちになった。今までのもやもやが突然晴れたような気がした。胸に詰まっていた物が、すとんと腑に落ちたと感じられた。
そうか、鬼神様は、私を虐げる人たちがいるあの世界から、私を解放してくださったんだ。だからこそ、私が殺されぬよう、信用を得られるよう、雷雨を起こしてくださったのか。
だが、沙羅は自分の力は神によって与えられたものではないと知っている。鬼族である父と、人間の母が持っていたものを生まれながらに引き継いだだけのこと。
それに、私が鬼だと気付かれたら、即座に討伐対象となるのだろう。
沙羅は今日一日過ごす中で、鬼族なら誰もが持つ妖力が人間には本当にないのだということを知った。母から聞いた話は本当だった。ただ、母には「動物と会話できる」という特別な力があった。それは鬼族では聞いたことのないものだった。「巫」に与えられた神の力がどのようなものなのか、巫女婆にしか教えてもらっていない沙羅には判断しかねるところだが、存在しないものを分析することはできない。つまり、沙羅の力が鬼族の「妖力」なのか神から与えられた力なのかを判別できるのは、目の前にいる巫女婆だけだということになる。
嘘にまみれた生涯など送りたくはない。だが、真実をつまびらかにすることだけが生き方ではない。「優しい嘘」は存在する……沙羅を蔑みながらもそれを隠して接してきた鬼族たちのことを、沙羅は露骨に蔑んでこなかったというその一点だけで「救い」だと何度思ったか知れない。
同時に、自分の力がこれほどまでに人間の間でも役に立つのだと知り、感謝される喜びと、自分の存在意義があるのだと思えた時に感じた高揚感を味わいたいと渇望する自分にも気づいていた。
役に立とうとすれば、ここにいることになる。だけど、鬼であることを知られて殺されるかもしれない。
役に立つことを諦めて山奥に去れば、けがを治して喜ばれることはもうないだろう。
沙羅はうじうじと考えていたが、鬼神さまがこの世界に沙羅を送り込んだ意味を考えるなら、沙羅がとるべき道は一つだ。沙羅は腹を括ることにした。
「私、『巫』になります。黒鉄隊の皆さんや、近くの里の人たちを助けたい」
鬼族であることがバレそうになったら、その時は逃げよう。たくさんの人間を救えば、鬼族にだって乱暴ではない者もいるといつかは人間たちも納得してくれるようになるかもしれない。
「『巫』になることが、私が生きていてもいい理由になるなら……やります」
黒松と巫女婆の顔がほころんだ。
「さて、明日は新しい『巫』任命の儀式をせねばのう」
「褒賞の件も、野にあった『巫』だと奏上すれば、通りやすいだろう」
とりあえず、今、目の前の二人は嬉しそうだ。この世界で世話になったと思える人たちの役に立てるなら頑張ろう、と沙羅は心に決めた。
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