沙羅の妖力
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沙羅が揺らぐ空間に足を踏み入れた瞬間、轟轟という強風の音と、まるで嵐のような風に背を押され、洞窟の上部に持ちあげられた。夏の暑い空気が洞窟の上部を人間界の方に流れていく、その流れに飲み込まれて沙羅は自身が風になったかのように、空中を探されていく。踏み込んだ瞬間足元には冷たい空気が溜まっているのを感じた。これが人間界からやって来た冷気なのだろう。
巨大な洞窟の中には明らかに暑気と冷気の通り道があり、そこから外れた風が交じり合っている場所もある。沙羅は揺らぐ空間の向こうに、人間たちが刃物や弓矢をいつでも扱えるようにしているのを見つけた。やはり、この洞窟を出たらすぐに殺されるのだろうと思った。
土の中に棗と簪を埋めたいと思っていたが、どうやらそんな時間はありそうにない。
突然、揺らぐ空間の向こうが真昼のように明るくなり、次いで周辺の木が燃えているのが見えた。気づけば沙羅は、温かい風から降りていた。冷気が体にまとわりつく。そう言えば今着ている者は単衣だと思い出した沙羅は、外に出ていくのを躊躇した。
死にたくない。
おそらく、この揺らぐ空間を抜ければ、一斉に攻撃されるはずだ。だが、ずっとこの空間に隠れていることなどできないだろう。
その次の瞬間、先程よりももっと強烈な光が見えた。
「雷?」
なぜか心が騒いだ。あれほどの明るさならば、雷は出口のすぐ近くに落ちただろう。人間がどのような武器を持っているのかわからないが、もし鉄器であれば直撃された者もいるかもしれない。
温かい風が「早く行け」と言わんばかりに沙羅を押す。
沙羅は意を決して走り始めた。鬼族の里でも、数年に一人、雷に打たれて死ぬ者がいる。母からは、人間は鬼族よりも体が遙かに弱いものだと教えられてきた。鬼族であろうと人間であろうと、助けられるものなら助けたい。
洞窟の出口の空間が大きくぐにゃりと歪んだ後、滝を通過したような感覚を経て、沙羅は人間の世界に飛び込んだ。周囲には焦げ臭い匂いが立ちこめ、人も馬も倒れている。あちこちからうめき声が聞こえ、中には半狂乱になっている馬もいる。
あの馬を落ち着かせないと、人が踏まれてさらなるけが人が出てしまう。
沙羅はまず、めちゃめちゃに走り回る馬に駆け寄ると、ぴたりとその首筋に手を当てた。馬に蹴られたところで、鬼族である沙羅には痛くもかゆくもない。恐れることなど何もなかった。
母は手を触れるだけで、相手と会話できる力があった。邸に迷い込んだ猫と話をして、飼い主の所に届けさせたこともある。森の動物たちから「大地震る」と伝えられたことをお頭に伝え、崖の下に住む者を移動させたところで本当に地震が発生し、家族に感謝されたこともある。
その力は伽羅には伝わらず、沙羅にだけ伝えられた。その力があることは、亡くなった父と母、そして伽羅の三人しか知らない。母はその力を恐れられて人間界で孤独だったそうだが、動物たちと話せたからひとりぼっちではなかったとさみしそうに言っていたことを思い出す。
沙羅は暴れる馬に向かって念じた。
「鎮まりなさい」
半狂乱だった馬は、沙羅に話しかけられて我を取り戻した。
『助けて』
「どうしたの?」
『僕のご主人様が、息をしていないんだ!』
馬の目から涙が落ちた。
「どこ?」
『こっち!』
馬は周囲をよく見ながら歩き出した。
『この人!』
沙羅は手のひらから火を出した。鬼火だ。馬は驚いたようだが、鬼族にとっては普通のことだ。
明かりで様子を見ると、呼吸をしているようには見えない。だが、心の臓はわずかに動いているように見える。
「背中を打ったのかしら?」
『うん、僕から落ちた時、地面に背中を打ったんだ』
沙羅は男の上半身をそっと持ち上げると前屈みにさせ、背中を強くたたいた。
カハッという音と共に、呼吸を再開した男は、その後ゲホゲホを咳き込んだ。
「少し休んでいてください」
雷は遠ざかり、既に雷鳴も聞こえない。沙羅は大きな木の幹に男をそっともたれかけさせた。
「あ」
「まだ落ち着いていないでしょう? 少し休んでいて。他の人たちの様子を見てきます」
沙羅は倒れていた人たちを一人ひとり持ち上げて雪と泥が混じった泥濘から引き出すと、やけどを負っている者とそうでない者に分けた。
先ほどの馬がやってきた。
『僕の仲間は?』
「人間の手当をしたら、次にあなたのお友達を助ける。もし、急を要する子がいたら私を呼んでもらえるかしら」
『分かった!』
沙羅は雷の直撃を受けたと思われる男の額に手を当てた。己の妖力を男の全身に巡らせて「修復」すれば、見る間に体の中の異常は消えていく。表面の火傷痕については、人間たちが勲章と捉えるのかどうなのか分からないので、とりあえずそのままにしておく。男の呼吸が落ち着いたのを確認し、次の男の元に行って妖力を巡らせる。
必要な者に必要な処置を与え、次いで馬たちの様子を見た。雷の直撃は受けなかったが鞍が燃えて火傷を負ったものや、驚いて躓き足を骨折したものが何頭かいる。
『骨折した馬は、安楽死させられるんだ』
最初の馬にそう教えられた沙羅は、馬たちの火傷を治すと、骨折して動けない馬たちの所に向かった。
『わたし、死ぬの?』
痛みと恐怖で震える牝馬を、最初の馬が慰める。
『大丈夫、この鬼が助けてくれる』
『鬼なの? 鬼って怖いんでしょう?』
『でも、ご主人様たちも他の馬も、この鬼が治してくれたよ』
『本当に?』
「ええ、心配しないで。骨接ぎするから、じっとしているのよ?」
沙羅が妖力を巡らせて骨折箇所を元のようにつなげてやれば、牝馬はうれしそうに起ち上がった。
『すごい! 痛くないわ! ありがとう!』
「じゃあ、他の子も治してくるから」
沙羅は二頭の馬を従えて馬たちの治療をした。
「それにしても、人間は馬の足が折れるとどうして安楽死させるの?」
『治療が難しいからだって』
「妖力で治さないのね」
『人間には妖力がないからね』
その通りである。鬼族は人と妖怪の中間のような存在だ。最も人に近い姿形をしていながら、人間にはない強い力を持っている。そのほとんどは人間の何倍もある筋力の増強に使っているが、中にはその妖力を違う形で用いている鬼族もいる。幻覚を見せる者、遠い場所にあるものを見通す者など、その種類は様々だ。
沙羅の父は、妖力を自己修復に使えた。斬られても骨折してもその瞬間に妖力で治すので、周りの鬼族からは不死身に見えただろう。
沙羅は父から修復の妖力を受け継いでいた。その力もまた、家族内の秘密にしていた。そうしなければ、角なしの沙羅など死ぬまで治療のために使い潰され、死んでいたはずだ。
だからこそ、沙羅は角だけでなく、何の能力もない者として蔑まれることになったのだが。
全員の治療を終えると、沙羅は最初の男の元に向かった。治療された者たちはピンピンしている。この男は背中を打って呼吸困難になっただけだから、治療をしていない。その分、ダメージが残っている。
「ありがとう」
「いえ、では、私はこれで」
「待ってくれ。あなたには不思議な力があるのだな。人だけでなく、馬も治してくれたのだろう? お礼をしたいし、もうじき鬼があの鬼門から出てくる。危ないから、鬼の退治が終わるまでは動かない方がいい」
「あ、その……」
「心配するな。恩人を死なせるわけにはいかない」
沙羅は困り果てた。角がないから、鬼だと思われなかったようだ。みんな雷に打たれて倒れていたから、誰も沙羅が洞窟から出てきたところを見ていない。「私が鬼です」と言えば、今すぐ殺されるだろう。だが自分から殺されにいくのは、それも話が違う。沙羅だって、願うことなら生きたいのだ……ひっそりと、誰にも知られずに。
「何か困ったことがあるのだろう? こんな夜更けにこの山の中にいるなんて」
「ええ、まあ……」
その時、元気になった隊員が近づいてきた。
「隊長、無事か?」
「ああ。伊吹は?」
「俺も何とか。今、鬼門を確認してきたが、既に閉じられているようだ。鬼の姿も見えない」
「鬼がいないだと?」
「ああ」
身なりからして一兵卒ではなさそうだ。
「あの落雷を受けたのかもしれんな」
伊吹と呼ばれた隊員は、ちらと沙羅を見た。
「先ほどはありがとう。隊員たちが誰も死なずにすんだ」
「いえ、私はできることをしただけで」
「それで、お前は何者だ?」
「……」
伊吹にじっと見つめられて、沙羅は居心地の悪さを覚えた。不審者を見る目なのだ。
「こんな時間に、こんな場所で、若い女が一人。それも並々ならぬ力を持っている。人間とは思えない、まさに鬼……」
「やめろ! 黒鉄隊の恩人に対して無礼であろう」
「は」
伊吹は忌々しげに沙羅を見ると、隊長と呼んだ男に次の指示を仰いだ。
「とりあえず、帰ろう。鬼の遺体は発見できなかったが、鬼は雷に打たれて消滅したと思われると報告する。隊の者たちを早く湯を使わせてやりたい」
「承知、いたしました」
伊吹はもう一度沙羅を見た。そして立ち去り際に、沙羅にだけ聞こえる声で言った。
「隊長に傷一つでもつけてみろ。得体の知れぬお前など、いつでも排除できるのだからな」
「おい、伊吹! 彼女に何を言った!?」
「いえ、身の程を弁えるようにとだけ」
伊吹と呼ばれた男はそのまま隊員たちの方へ行ってしまった。
「すまない。あんなに感情的になる伊吹を見たのは初めてだ」
「私が得体の知れない者であるのは間違いありませんから」
沙羅は隊長と呼ばれた男を見た。どことなく、母の面差しに通じるものがある。母と血縁がある人間であれば沙羅とも血縁があることになるが、母が人間界で辛い日々を過ごしていたという話を思い出し、黙っていようと決めた。
隊員たちに紛れて離れて行こうとした沙羅だったが、袖をとられた。振り返ると、驚いた表情の大将殿がいた。
「何か」
「いや、ちゃんとお礼をするから、どこかへ行かないでくれないか?」
ここで逃げ出そうとすれば、却って怪しまれる。そう考えた沙羅には、答えなど一つしかない。
「わかりました」
「その足で歩くのか?」
「それ以外にどうやって移動するのです?」
「私の馬に乗ればいい」
「馬に乗ったことなどございませんので」
「心配いらない」
隊長は沙羅をひょいと抱え上げて馬に乗せると、自身もヒラリと馬に跨がった。たいまつの灯りが周囲を照らしているだけなので、視線が高くなっただろうと思われるが実感がわかない。この馬の背の高さから考えれば、父に抱き上げられたときと同じくらいの高さだろうか、などとぼんやり考える。
『心配しないで。落とさないから』
馬にまで心配されている。他の馬たちからも『大丈夫だよ』と声がかかる。
都に向かって進み始めた。馬上で隊長に「あなたの名前は?」と尋ねられた。一瞬迷ったが、ここには自分を知る者などいない……いや、沙羅と同じように節分で人間界に送り込まれた者の中には生き延びた者もいるようだとお頭の母君から聞いたが、接点を持つつもりもない。ならば、偽名を名乗ることもなかろうと思えた。
横乗りしている沙羅は、左にいる隊長を見た。視線はそれほど変わらないが、わずかに見上げながら告げた。
「沙羅、と申します」
「まさか、真名か?」
そういえば、母が、人間の世界では真名は隠すのが上流階級の者は真名を秘匿するのだと言っていたなぁと思い出す。
「私は真名を隠さねばならないような身の者ではございません」
「そうか。私は黒松の大将と呼ばれている。この黒鉄隊の隊長だ。真名を教えてもらったのに、こちらからは教えることができずに申し訳ない」
「いえ、構いません。それであの、大将様。一つお願いがございます」
「なんだ?」
「やっぱり、人里に降りる前に私を下ろしていただけませんか?」
「なぜだ?」
「人里には降りたくないのです」
「……逃げてきたのか?」
「いえ、追放された身でございます」
「追放されるようなことをしたのか_」
「いいえ」
「ならば、なぜ?」
「里の長から、今年の贄に選ばれましたので」
「贄だと? まだそのような野蛮なことをしている里があるのか」
黒松は嘆息した。
「どこだ?」
「遠いところでございます。贄には贄のお役目がございますので、どうか山にお留めおきください」
「ならぬ。黒鉄隊の恩人が山犬や熊に襲われるのを黙って見ていることなど、私にはできない」
沙羅は思わず黒松を見た。父母亡き後の鬼族の里にいる間には言われたことがない優しい言葉に、ひどく驚いたからだ。それほど変わらぬ視線が交わり、黒松の大将の真剣なまなざしに、沙羅は逃げるように視線をそらした。
「数ならぬ身のことなど、どうかお心に留め置かれませぬよう」
「沙羅は、都の女たちとは大違いだな」
黒松はそう言って嘆息した。
「少しでも条件のよい男を捕まえようと、みな手ぐすね引いている。既成事実があると言いだす女がいるので、常に式神に自分の周囲を守らせている。だが、沙羅に彼らが反応しない。つまり、沙羅は私にとって、悪しき存在ではないということだ。だからこそ、受けた恩を返させてほしい」
「……かしこまりました。それでしたら、どうかあまり人の目の多くないところでお願いしとうございます」
「里の者に見つからないように、か」
「はい。どこに目があるか分かりませんから」
「用心深いのはいいことだ」
黒松に丸め込まれたとは思うが、とりあえず、人間の世界のことを知り、この先どうやって生きていくかを考えるための時間にしよう。
もし、本当に何か願い事を叶えてくれると言うのであれば、あばら屋でいいから住む場所を願うことにしようかしら。
沙羅はそんなことを考えながら、馬に揺られていった。
鬼の定義はいろいろありますが、元は「隠」が語源だとか。つまり目に見えぬ者ということですね。
中国語である「鬼」は、いわゆる霊魂などこの世のものではない存在を表します。だから「鬼籍に入る」という言葉もあるわけで……
ということで、今回の「鬼」の定義は私なりに「異世界の人類の一種」として扱ってみることにしました。
読んでくださってありがとうございました。
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