永の別れ
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夕刻になると、沙羅は里の近くにある滝で水垢離をした。部屋に戻って髪を結われ、白い着物に黒い帯を締める。秋の節分の「鬼」として人間界に送り込まれる鬼族の者は、この日の夕食だけは豪華なものを与えられることが決まりだ。だが、沙羅はそれを固辞した。
「せっかくのごちそうですもの、皆さんに召し上がっていただきたいわ」
ここで働く女衆の中でも年上の者たちは、沙羅が前のお頭の娘として住んでいた時から働いている。角無しであることを恥じて部屋から出ようとしなかった沙羅に、女衆はなんだかんだと理由をつけて外に連れ出し、世話をしてくれた。今、そんな女衆が泣いている。
「沙羅ちゃん、これだけでも食べておくれ」
差し出されたのは、棗だ。鬼族の里では、森の木の実は鬼神の餐である。送り鬼になった者だけが、鬼神と同じものを食することが許される。
手渡された三つの棗を見ている内に、父が母に「内緒だよ」と言って棗を食べさせていたことを思い出した。木から直接取ることは許されないが、地面に落ちたものについては、少しだけ……森の動物たちの分を奪わない程度であれば許されるのだと父が言っていた。
「一つ食べて、二つ、簪と一緒に持って行こうかな」
懐から簪を包んだ懐紙を取り出すと、そこに棗を二つ包み、私は棗を一口かじった。ほのかに甘い、りんごのような味と香り。妙に鼻腔をくすぐって、涙が出そうになった。
「もうじき子一つだ。洞窟の入り口に向かうよ」
お頭の指示に、沙羅は立ちあがった。節分の日にだけ、この洞窟は人間界にある「秋津洲」と呼ばれる国に通じる門になる。沙羅と伽羅の母は、この「秋津洲」からやってきた人間だった。
山間にある洞窟に向かって歩きながら、この風景を見るのは最後なのだなと思った。岩壁に、沙羅の好きな白い花が咲いていた。名も知らぬその花が、風に揺れた。
あなたは、私にさよならを言ってくれるのね。
洞窟の入り口に立っていると、洞窟の中の空間が揺らぎ始めた。
世界の境界線が曖昧になり、「秋津洲」に渡れるようになった合図だ。一方踏み出そうとした時、「沙羅ちゃん」と呼ばれた。振り返るとお頭の母君が走り寄ってきた。そして沙羅の耳に口を寄せると、誰にも聞こえないような小さな声で言った。
「向こうにいる鬼はみな、人間に迷惑を掛けているそうなの。うまく生き延びられたとしても、鬼たちの所に行ってはだめよ」
小さくうなずいた沙羅は、背後の人々を見た。向き直った沙羅は深々と頭を下げると、さっと身をひるがえした。そして、まるで迷いを断ち切るかのように、洞窟の入り口に一目散に駆け込んだ。
「沙羅!」
伽羅の泣き叫ぶような声が、山間にこだましたが、洞窟に飛び込んだ瞬間、音は消えた。
きっと今頃は、お頭が伽羅を慰めているだろう。そう思うと振り返ることもできず、沙羅は歩き始めた。
・・・・・・・・・・
一方、洞窟の外では、里の者たちが見送りを終えて里に戻り始めていた。
やれやれといった顔つきの者たちがほとんどだが、沙羅をかわいがっていた者たちは涙を流している。
「おい、泣くな。あんな角無しがいるせいで、うちの里は他の里から蔑まれていたんだぞ?」
男衆の一人の言葉に、伽羅の体に力が入った。伽羅の体を抱きしめていたお頭は、伽羅をその場に残してつかつかとその男に近づくと、その手で頭をつかんだ。
「お、お頭、おやめください!」
「なぜ沙羅を侮辱した? 沙羅は我々のために贄となったのだぞ? それとも、来年の贄はお前にするよう、鬼神に願い奉ろうか?」
お頭の手に力が入る。頭をつかまれた男はうめくような声で許しを乞うている。
やがて男が気絶した。
「死んではおらん。片付けておけ」
「は」
男衆がその男を担ぎ上げた時、お頭は鬼送りのためにやって来た者たちに明言した。
「角無しだろうと、沙羅は我が里の者だった。贄をしてその身を捧げてくれた沙羅を悪く言うことは許さない」
「は」
全員が頭を垂れた。お頭はもう一度洞窟の入り口を見た。
もう、揺らぎは消えていた。
沙羅、とお頭は声に出さずに沙羅を呼んだ。角がなくたって、気立てのいい沙羅のことはずっと好きだった。
どうして鬼神様は、沙羅を私から取り上げたのですか?
唇を噛むお頭の手を、伽羅がそっと握った。
「お頭、帰りましょう」
沙羅と同じ顔が、そこにある。だから、伽羅なら愛せる。この気持ちは、誰にも言わない。
お頭は伽羅に微笑んだ。
「ああ、帰ろうか」
後ろ髪引かれる思いで、お頭と伽羅はその場を離れた。一年後、また秋の節分の時に誰かを送り鬼にするまで、この洞窟の前には誰もやってこないはずだ。
読んでくださってありがとうございました。
明日からは一日一話、夕方以降に投稿します。
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