水の妖怪3
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水の中は、人間が住む世界ではない。それは水面という目に見える境界で隔てられた異界であると言える。だから、海や川など水の世界は人に恩恵をもたらす場であるとともに、人の理とは別の理に支配された、人の命を簡単に奪う場でもある。
その証拠に、人は水の中で生き続けることができない。水の中の世界が同じ世界であれば、人はその中で長く生きられるはずだから。
異世界と言うのは、その世界の理が当然のことながら違っている世界である。ただ「別の世界」「元の世界とは空間・宇宙が異なる世界」というだけのことではない。生き物が生まれたきっかけも、生き物を構成する物質も、進化の過程も、それぞれ違っている。
だから沙羅は、水を己の世界の一部であると認識する人間とは違い、鬼族の里同様の異世界であると捉えている。もちろん、鬼族の里のある世界にも川や海はあったし、そこに住む妖魔はいた。かれらは鬼族の里やこの世界とは全く異なる、水だけで満たされた異世界とつながっており、その水世界と交流していると鬼族の里にいる時に本で読んだことがある。
鬼族の里がある世界とこの世界が年に一度つながるように、あちこちの世界で常に、あるいは決められた日にだけ閉ざされた扉が開いて行き来している可能性は絶対任がないなどと、誰が言えようか。
言葉は通じないかもしれない。だが、触れれば異なる言語体系であっても意思の疎通はできる。触れたら死ぬような相手だと困るし、触れることを禁忌とするような文化を持っていたら問題が大きくなるかもしれないという不安はあるが、もし沙羅のように無理やり送り込まれたのだとしたら、なんとか共存の道を探したい。
沙羅は今日も又黒松と同乗して松風に揺られている。今日は歩くと言い張ったのだが、「その巫の服は、長距離歩くのには不向きだ」とはねつけられた。自分一人で乗ると食い下がったが、却下された。
「黒鉄隊所属の馬に、隊員以外を一人で載せるわけにはいかない。そのまま走って逃げられても困るからな」
規則があると言われれば、沙羅も引き下がるほかない。隊員たちから好奇心に満ちた目で見られ、沙羅はいたたまれない。
『心配しなくていいよ』
松風の背から、言葉が伝わってくる。
でもね、恥ずかしいのよ、という言葉は飲み込んだ。黒松には聞かせられない。
居心地の悪さに時々身じろぎしながら、沙羅たちは問題の里にたどり着いた。霧沢の里と呼ばれるそこは、山の硬い岩盤に川の水が流れを変えさせられ、川底が深くえぐれた大きな淵が何か所もある、山間の集落である。上流からの川の流れだけでなく、山から直接湧水が沢や小さな滝のような形で流れ込む、夏の節分を過ぎてひと月ほどが経っており、もう少し立てば梅雨の時期になる。
「大雨になると、この川は相当増水する。だから、里の者は川の傍に家を建てない。川の傍だと、家が流されるからだ」
黒松の説明に、沙羅は頷いた。
「合理的ですね」
「合理的?」
「理にかなっているということです。自然に逆らっても、いいことはありませんから」
「確かに、太陽に文句を言っても人間の力ではいかんともしがたい。ならば、文句を言うのもおろかだということか」
沙羅はとある家の前で、馬から降ろされた。
「ここに、水の妖怪に襲われた母子が住んでいるそうだ」
黒松と沙羅が小さな小屋の扉の前に立つと、黒松の随身が扉をほとほとと叩いた。最初は武官である黒松に随身が付くのは不思議だと感じたが、黒松がどうやら高貴なお家の出身らしいと知ってからは(とはいえ具体的には何も聞いていないのだが)そういうものなのだと納得している。
尤も、一番強い者が権力を握る鬼族の里から考えると、全く理解できないことではあるのだが。
扉を開くと、一人の男が顔を出した。そして、黒松の顔を見ると「あ」と声をあげた。
「隊長様、その節はありがとうございました」
「いや、例には及ばない。妻子の方はどうだ?」
「変わりはありません。ただ、何か言おうとするのですが、どうしても声が出ないという感じですね。文字さえかけたら、それでやり取りできたのではないかと思うこともありますが、我々はこんな山の民ですから」
「気にするな。それでな、今日は巫女を連れて来たんだ。気休めではあるが、会わせてもらえないか?」
「はあ、むさくるしいところですが、どうぞ」
黒松と随身、それに沙羅は小さな小屋に入った。奥の方で、母と5歳くらいの子どもが、抱き合って震えている。
「私、行きます」
声を掛けようとした黒松を制して、沙羅は母子の二歩手前で立ち止まった。
「こんにちは。巫をしている沙羅と言います。体調を見せてほしいので、手をお借りできますか?」
母親が夫の方を見た。夫が頷くと、母親はカタカタと震える手をゆっくり差し出した。沙羅はそっとその手を取った。
「言いたいことを思い浮かべてもらえませんか?」
『え?』
母親が呆気にとられた様子で沙羅を見た。
「今、あなたの『え』という声が、手を通じて聞こえましたよ」
『ほんとに?』
「ほら、ちゃんとお話しできているでしょう?」
『ほ、ほんとだ……』
母親の目から涙がこぼれ、うわあ、と泣き声が上がった。
『もう二度としゃべれないんじゃないかって、怖かった』
「ええ、怖かったわね。聞いているかもしれないけれど、私たち、今からあなたたちが出くわした水の妖怪の所に行くの」
『だめだよ、巫様まであんな目にあったら大変だよ』
「大変な目に遭わないようにするために、どんな姿だったか、何があったのか、私に教えてもらえないかしら?」
母親は沙羅の手をぎゅっと握った。思い出すのも怖いのだろう、そう感じた沙羅は、母親の手を両手でそっと包むようにした。もう肩の方の手は、子どもをぎゅっと抱いている。
『最初に出くわしたのは、髪の長い女だった』
「髪の長い女ね」
黒松が沙羅の言葉を書き留め始めた。
『それが、緑色の髪だったの』
「緑色の髪の毛だったの? それは不思議ね!」
緑色の髪という言葉に、男三人が目を大きく見開いた。
『とってもきれいな人だった』
「とってもきれいな人なのね」
『だけど、泣いていた』
「泣いていたの? どうして泣いていたのか、わかる?」
『落ちたって言っていたよ』
「落ちた?」
子どもが沙羅の手に触れた。沙羅は驚いたが、子どもは沙羅の指をぎゅっと握った。
『ここはどこって泣いてたよ』
子どもは母と沙羅の様子を見て、理解したようだ。自分も説明しようと、手を伸ばしてくれた。それが、沙羅にはうれしかった。
「ずっとその淵にいたんじゃなくて、どこかから流されてきたのかしら?」
『ええ、そう言っていました』
『お家に帰りたいって言っていたよ』
「お家に、帰りたいって?」
『はい。私たちは引きずり込まれた後、不思議なことに水の中なのに呼吸はできたんです。でも、私たちは泳げません、こんな川の底で、突然溺れたり、息ができなくなったらどうしよう、この子だけでも帰してって言ったのだけれど、緑の髪の女の人は、寂しいから一緒にいてと言って、ただ泣いているばかりだった』
「他には誰もいなかったの?」
『河童がいたよ』
子どもが言った。
『最初、河童は緑の髪の女の人に近づいてこなかったんです。むしろ怖がっているみたいでした。河童が怖がるくらいだから、恐ろしい妖怪なんじゃないかって、気が気じゃありませんでした』
沙羅は自分の知識の中から、水とかかわりのある、緑の髪の、女性の生き物を特定した。
『それなのに、数日経ったところで、河童たちが押しかけて来たんです。この子を取って食うから寄越せと言いました。緑の髪の女の人は、私たちに『逃げなさい』と言って、岸辺に連れて来てくれましたが、女の人は河童たちにつかまって連れ去られてしまいました。河童が恐ろしいとは聞いていたけれど、あんな獰猛な生き物だったなんて』
母親は再び震え始めた。子どもも思い出したように身を震わせた。食われるかもしれない恐怖の中で、、逃げることに精一杯だったのだ。
「それなら、その緑の髪の女性は、あなた方が助かったと知って、きっとほっとしているでしょうね」
『お願いです、河童は退治してほしいんですが、あの人は助けてもらえませんか?』
沙羅は黒松を見た。
「子どもを食べようとした河童は退治してほしいけれど、河童たちから彼女たちを守った緑の髪の女性は助けてほしいそうです」
「現地で確認後、善処しよう」
母親はぺこぺこと頭を下げた。
「吉報を待ってくださいね」
黒松は河童の討伐プランを考えているだろうが、沙羅は河童とも話し合えないかと考える。
「沙羅。緑の髪の女など聞いたことがないのだが、沙羅は知っているか?」
「おそらくですが、ルサールカではないかと思います」
「るさーるか? 猿なのか?」
「違います。別の世界から、夏の節分の時に流されてこちらに来てしまった水妖だと思われます」
読んでくださってありがとうございました。
ルサールカは、スラブ系の文化圏にいる水の精霊とも妖怪とも言われる存在ですが、あくまで異世界のルサールカなのでどうなるかはお楽しみ。
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