第三話
その男は、使い古された不安を上等な外套で隠していた。だがその隠し方は、まるで素人が安物の壁紙でひび割れた土台を塞ごうとするような、危うい手つきだった。
差し出された金貨は汗で湿り、男の瞳には、愛を信じきれない者特有の卑屈な光が宿っていた。
「彼女は自由奔放で、誰にでも微笑むんです。僕はそれが耐えられない。僕だけを、病める時も健やかなる時も、ただ僕だけを愛し、片時も離れないでいてほしい。そんな彼女になってほしいんです。彼女を、僕のものにしたい……そんな術式は書けますか?」
マリアは羽ペンの先を整えた。その動作は、処刑人が自らの斧の刃を丹念に研ぐときのような、退屈だが完璧な儀式に見えた。 彼女は男をまともに見やることもなかった。
「生身の人間の執着を、魔術で加速させるのはお勧めしないわ。それは、馬車のブレーキを無理やり壊して、馬に追い鞭をかけるようなものなの」
「構いません。彼女の愛を、僕だけのものにできるなら! 僕はこんなに彼女を愛している! 彼女の愛が手に入れられるなら!」
男は喉が裂けるような声を張り上げた。それは、真夜中の図書館で鳴り響く警笛のように、マリアの工房の静謐を無遠慮に、そして修復不可能なほどに引き裂いていった。
「……じっくりと愛を育んでいく、という選択肢はしないのね」
マリアは、インクの染みた指先で新しい羊皮紙の端を撫でた。
「言ったでしょう、彼女は自由奔放なんだ! いつかどこかの男に誑かされるかもしれない、そう思うだけで、毎日が不安に満たされるんです!」
男はなにを言っても聞かなかった。聞き入れなかった。これ以上は聞こうとも思わないだろうし、マリアも、この男に聞く耳を持たせられるような言葉は見つけられなかった。
「……わかったわ。でも、覚えておいて。一度火がついた心は、あなたが『もういい』と言っても、灰になるまで止まらないわよ」
*
十日後。
切羽詰まった連打だった。
工房の扉を叩く音は、かつての青年の、血色さえよければどこかの王子や貴族をも上回るような美しい面影を微塵も感じさせない者が起こしていた。
なだれ込んできた青年の顔は土気色を通り越して、死人のような白さだった。その背後、一歩遅れて入ってきた女を見て、マリアはわずかに眉を動かした。
女は、恐ろしいほどに『正気』だった。
頬を赤らめ、慈愛に満ちた表情で、青年の二の腕をしっかりと抱きしめている。その指先は、青年の服の生地越しでも、その下の肌が白くなっていると分かるほどに強く強く握りしめていた。
「マリア! 頼む、消してくれ! 彼女が、彼女が……!」
青年が椅子に崩れ落ちると同時に、女もまた、流れるような動作で彼の足元に跪いた。
彼女の手は、一瞬たりとも青年の体に触れるのをやめない。
空いた手で、彼女は一冊の革装のノートを取り出した。ノートの角は、まるで愛着のある玩具を慈しむ子供のように、あるいは獲物の喉笛を狙う獣のように、滑らかに摩耗していた。
それは、マリアが巻物を渡したあの日から書き始められた、新しい『日記』だった。
「どうしたの、あなた。ここは私たちを結びつけてくれた、大切な場所でしょう? 私は、あなたのすべてを一滴も漏らさずに愛で満たしたいだけ」
女は澄んだ声で、日記の最新のページを読み上げ始めた。その声は、葬儀の朝に鳴る銀の鈴のように美しく、そして聴く者の血を凍らせるほどに透明だった。
「四月十二日。午前二時十四分、あなたは寝返りを打ち、私の名前を二回呟いた。幸せ。午前七時三分、あなたはいつもより三秒長く鏡を見て、右の眉尻を気にしていた。幸せ。午前十時四十二分、職場の窓際で、あなたは通りを眺めて溜息をついた。三階の向かいの窓から見るあなたの横顔は、少しだけ寂しそうだったわ……」
「やめてくれ……! なぜ僕が仕事をしている間まで、ずっと監視しているんだ!」
「監視だなんて、ひどいわ。さっきここへ来る途中、隣人のハリスさんに言われたじゃない。『いつも仲良しで羨ましい、君たちは理想の番だ』って」
女は青年の耳元に唇を寄せ、毒のように甘い声を流し込む。
「つくづく、あなたが何を言っているのかわからないわ。だって、私たちは世界で一番、幸せな恋人同士になれたんですもの。ねえ、昨夜の午前二時、あなたは夢の中で私の名前じゃない人を呼んだでしょう? 誰のこと? 教えてくれるまで、私、あなたの心臓の音をずっと聴いているわね」
女の耳が、青年の胸元にぴったりと押し当てられる。青年はマリアに縋るような視線を向けた。だが、マリアはインクの汚れを拭うこともせず、ただ冷徹に彼を見据えた。
「『仲良し』で結構じゃない。外側の人間は、家の中でどんな血が流れているかなんて興味はないわ。……注文通りよ。彼女はあなたの言葉を、その文字通りに、一分の狂いもなく実行している」
「消してくれ、この術式を!」
「ここは工房であって、後悔を買い取る場所じゃないわ。返品は受け付けていない。あなたが求めたのだから。さあ、帰りなさい」
マリアが冷たく言い放つと、女は満足そうに微笑み、青年の指先を一本ずつ、丁寧に舐めるようにして握り直した。
「さあ、帰りましょう、あなた。今日の夕食は何がいい? あなたの喉を通る音が一番よく聞こえる料理を作るわね」
引きずられるように出ていく二人。扉が開いた瞬間、通りを行く街の住人が『お熱いね』と冷やかしの声をかけた。青年が上げた短い悲鳴は、幸せな恋人の照れ隠しとして、賑やかな街の音に掻き消されていった。
重い閂が下りる。
マリアは鉄色のインクを水で洗い流し、タオルで静かに手を拭いた。
「……言ったでしょう。灰になるまで止まらない、と」
それは、恋は燃え上がり、やがて愛の灯となる。
しかし燃えて落ちるとき、燻り灰しか残さないと、マリアが知っていたからかもしれない言葉だった。




