第二話
扉が開いた瞬間、工房の静寂は窓から逃げ出していった。
入ってきたのは、金の縁取りが施され、まばゆいばかりに磨き上げられた銀の鎧に包まれた男だった。その輝きは、工房の薄暗い隅々にまで土足で踏み込んでくるような、無作法な明るさだった。
その後ろには、安っぽい自尊心を高価な装備で塗り固めた取り巻きたちが、影のようにへばりついている。その表情は、みな一様に下卑ている。魂もそうだろう。
男の腰にある剣の鞘は、鏡のように光っていた。引き抜かれることのない刃も、同じ姿なのだろう。
それは貴族の屋敷の暖炉の上に飾っておくには最適だが、泥を啜り、血のぬかるみを歩く戦場では、持ち主の臆病さを告白するだけの鉄の棒にすぎない。
「……書くんだ、女。最高級の逸品をな」
男が机に投げ出した皮袋は、石の床に落ちた死体のような、重く鈍い音を立てた。
マリアは金貨の枚数を数えることもしなければ、男をまともに見やることもなかった。ただ、埃よりも乾いた声で呟いた。
「内容は?」
「俺と仲間を『勇者』にしてもらう。どんな魔物も一太刀で両断し、空を裂く魔力を持てる術式だ。時間は長ければ長いほどいい」
男は、自分がもうすぐ世界のすべてになれる、と確信しているような顔で胸を張った。マリアは、その細すぎる手首と、一度も重い荷を運んだことのない平らな指先を眺めた。
「勇者の術式は、人間の神経と肉体を無理やり引き絞る。あなたの体では、力が器を突き破るわ。二度と歩けなくなるかもしれないけれど、それでもいい?」
「俺様を値踏みするとは、いい度胸じゃあないか、女。くだらない脅しはいい。金ならいくらでもあるんだ。つべこべ言わずに完璧なものを書け」
忠告というものは、往々にして、それを最も必要とする人間に届く前に空気中で霧散するものだ。マリアは椅子を引き、棚からひときわ大きな羊皮紙を取り出した。
「わかったわ」
前掛けを締め直し、羽ペンをインクの闇に浸す。
そこからは、ただマリアの時間だった。
ペン先が羊皮紙を削る音だけが、耳鳴りのようにかすかに工房を支配した。
マリアの視線はもはや人間など見ていない。男たちの下俗な動きや、物好きな視線さえ、彼女の領域を侵すことはできなかった。正確には、彼らの言動には、その価値がなかった。
複雑に絡み合う呪文、文様、魔法陣。そしてそれらを固定するための冷徹な数式だけが、彼女の網膜を埋めていく。
書き進めるにつれ、羊皮紙が鉄の臭いを孕んだインクで満たされていく。それは神々しく、同時に、触れれば魂まで焼き切れそうなほどに禍々しい。
やがて、ペンが止まった。
インクが乾くのを待ち、マリアはそれを無造作に手早く丸めて、革紐で縛った。
「完成よ。発動すれば一刻の間、筋力と魔力回路は通常の十倍に跳ね上がる。ただし、一度きり。反動はすべてあなたの肉体が引き受けることになるわ」
「十倍か! これだ、これこそが俺の求めていた力だ。女、その金貨は好きにしろ。行くぞ、野郎ども!」
男は警告を最後まで聞かず、巻物をひったくると、意気揚々と去っていった。
*
三日後。
工房の前に、一台の豪華な馬車が止まった。
扉が開かれ、数人の従者に抱えられるようにして運ばれてきたのは、あの男だった。いや、それを「男」と呼ぶには、あまりに無惨な姿だった。
四肢は包帯と当て木によって、かろうじて人の形を保っている。その白々しい外側が、内側に起きた崩壊を何よりも雄弁に語っていた。
その瞳から傲慢さは消え、ただ焼き付いたような痛みの残滓と、燃え上がるような憎しみだけが漏れ出していた。
「……治せ。女、貴様の巻物のせいで、俺の体は……」
男の声は、枯れ葉が擦れるような掠れ声だった。マリアは画板に向かったまま、振り返りもしなかった。
「警告はしたわ。反動が返ってくる、と」
「ふざけるな、女! 俺は金を払ったんだぞ!」
マリアはゆっくりと椅子を回転させた。彼女の瞳には、三日前と同じ、凪いだ湖のような静寂があるだけだった。
「注文通り、あなたが勇者になれる巻物を書いたわ。魔王の幹部を素手で引き裂いたそうね。それは偽りのない勇者の力よ。あなたは巻物を買い、そして、自身の肉体を使い切った。私は警告し、あなたは耳を貸さなかった。……それだけのことよ」
「女……っ!」
「帰りなさい。ここは工房よ。これ以上騒ぐなら、衛兵を呼ぶわ」
男は血を吐くような呪詛を撒き散らしながら、再び従者たちに引きずられて馬車へと戻っていった。車輪が石畳を叩く音だけが、虚しく遠ざかっていく。
マリアの工房は、彼女自身の心音以外、空気を揺らすものがない静謐へと戻った。
床には、男が暴れた際にこぼれた金貨が数枚と、それが入っていた分厚い革袋が転がっている。
マリアはそれを拾い上げた。重かった。新しい革の匂いと、安っぽい欲望の重みが、手のひらを通して伝わってきた。
これが彼の人生の重さだったのか。もう二度と会うことのない他人同士、それを確かめる術はない。
マリアは革袋の埃を丁寧に払い、テーブルに置くと、水場へ向かって蛇口を捻った。
指先についた、鉄色のインク。それは水に溶け、排水口の深淵へと消えていった。
「……言ったでしょう」
タオルで指を一本ずつ拭い、再び椅子に腰を下ろす。
窓の外では、夕闇が静かに街を飲み込もうとしていた。店じまいの時間だ。ドアを閉じ、重い閂をかける。
明日はどのような巻物を書くのか。あるいは、何一つ書かない日になるのか。
それを知っているのは、夜の帳が降りる前の、この不確かな静寂だけだった。




