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第一話

 街の外れ、湿った夜気と静寂が支配する場所に、その家はある。


 二階建ての、飾り気のない木造家屋だ。軒先には、年月を経て緑青(ろくしょう)を吹いた銅板が、鈍い光を反射している。そこには古風な書体でこう書かれていた。




『巻物書きのマリア』




 一階の工房は、羊皮紙(ようひし)の乾いた匂いと、鉄分を含んだインクの香りに満ちている。


 壁際には大小さまざまなサイズの羊皮紙が、大きさごとに整理されて整然と並んでいた。


 中央には、使い込まれて四隅が丸くなった木製の画板。


 その上には、数本の羽ペンと、底の深い石造りのインク壺が置かれている。


 そんな部屋の中心で、マリアは画板に向かっていた。


 彼女の顔が、曇り空のよどんだ陽光に照らされている。彼女は今、東の国の風習に倣い、自ら書き上げた簡素な「熱」の巻物を用いて沸かした湯を、小さな陶器のカップで啜っていた。


 その時、静寂が破られた。


 暴力的なまでの叩きつけるような足音。そして、建付けの悪い扉が、悲鳴を上げて開け放たれた。


「……書いてくれ」


 低く地を這うような、しかしどこか震える獣のような声だった。


 入ってきたのは、まだ少年の面影を残した冒険者だ。おそらく新米なのだろう、装備は雑然としており、かつどこか華美で安っぽい。


 革鎧は至る所が裂け、肩口からはどす黒い血が滴り、工房の磨かれた床にぽたり、ぽたりと垂れていた。


 少年の背後には、見るからに幼い魔法使いの少女が立っていた。彼女の瞳は恐怖で焦点が合っていない。


「巻物を書いてくれ。……転移の巻物だ」


 少年は血塗れのまま、画板の前に身を乗り出した。マリアはカップを置き、ゆっくりと少年を見上げた。


 その瞳には、同情も嫌悪も、驚きすらない。ただ、凪いだ湖のような静謐があるだけだった。


 マリアは話を聞いた。状況は深刻だった。


「転移。あなたたちふたりと……それもあと三人を一気に飛ばすほどの高密度の術式ね。代金を払えるの?」マリアはそう告げると、前掛けを締め、羊皮紙とインク、それに羽ペンを用意していた。


「金ならある! これだ、これで書いてくれ!」


 少年が震える手で机に叩きつけたのは、重厚な装飾が施された剣の柄だった。


 そこには、拳ほどもある見事な宝玉が埋め込まれている。王家の恩賞か、あるいは名門の遺産か。それは場違いなほどに美しく輝いていた。


「……後払いでいいわ」


 マリアは宝玉には一瞥もくれず、背後の棚から、中型の羊皮紙を一枚取り出した。


「救うかもしれない巻物を、今から書く。私はそれ以上は約束しない」


 彼女は羽ペンを手に取ると、インク壺の底を静かに突いた。


 そこからは、ただひたすらに職人の領域だった。


 マリアの羽ペンは、踊ることをしない。舞うこともしない。ただ、精緻な文様と呪文を、書いていくだけだ。


 音だけが、工房に響く。カリ、カリ、と。少年たちが漏らす荒い吐息さえ、そのリズムに入り込むことは許されていないかのように、マリアのペンは書き続ける。


 マリアの視線は鋭く、指先は機械のように精密だった。一滴のインク、一筋の線。そこに迷いは微塵もない。彼女が文字を綴るたび、羊皮紙が微かに青白い光を帯びていく。


 やがてペンが止まった。マリアはインクが乾いたのを確認し、羊皮紙を丸め、紐でくくり留めた。


「終わったわ。術式は三層。基点はあなたの足元。座標は……この街の中央広場。誤差は一メートル以内。ただし、発動には――そこの魔法使いの子の魔力をすべて注ぎ込む必要がある。一度開けば、もう後戻りはできない」


 マリアは説明しながら巻物を差し出した。


 少年はそれを奪い取るように掴む。その手はまだ、血で滑っていた。


「……あんた、本当にみんなを連れて帰れるんだろうな」


 少年の問いに、マリアは答えなかった。ただ、使い終わったペンを、傍らの水場で洗い始めた。水道の蛇口から流れる水の音だけが、問いへの回答の代わりだった。


「行きなさい。時間が惜しいのでしょう」


 少年は呪詛を吐くように一つ舌打ちをすると、仲間の少女たちを抱き寄せ、巻物をひったくり、その場をあとにした。



 *




 翌朝。


 工房の扉を叩く、弱々しい音があった。


 マリアが扉を開けると、そこには昨日の魔法使いの少女が立っていた。身綺麗(みぎれい)になってはいたが、その顔は死人のように蒼白だった。


「……これ」


 少女が差し出したのは、昨夜のあの宝玉だった。少年がマリアに渡そうとした、あの美しい剣の飾りだ。


「彼とみんなは、死にました」


 少女の声は、風が吹けば消えてしまいそうだった。


「敵も味方もぐちゃぐちゃで、ひと固まりになるなんてできなくて……。みんなが、最後に私に巻物を握らせて……『お前だけでも行け』って。私、魔法使いなのに、魔力が足りなくて、仲間を助けられなかった……!」


 少女の瞳に、激しい光が宿る。それはマリアに対する、抑えきれない「恨み」だった。


「あんた、言ったよね。救うかもしれないって。あいつは信じてたんだ。高い金……その宝玉を払えば、全員助けてくれるって! なのに、結局こうなった! あいつは死んだんだ! みんなは死んだんだ! あんたの巻物のせいで! あんたのせいで!」


 少女の叫びは、街の外れの静かな空気に虚しく消えていった。


 マリアは、手のひらの上で鈍く輝く宝玉を見つめた後、それを少女の手に押し戻した。


「これは、持っていきなさい」


「……え?」


「後払いと言ったはずよ。私はまだ、代金を受け取っていない。……これは、死んだ彼の、そして仲間の葬儀に使いなさい。それが、この石の正しい使い道だわ」


「ふざけないで……! そんな施し、みんなが喜ぶと思うの!? あんたなんて、巻物書きなんて……!」


 少女は宝玉を握りしめ、泣きながら走り去っていった。


 その後ろ姿を、マリアは見送ることもしなかった。


 マリアは工房に入り、扉を閉めた。


 床にはまだ、少年の血の跡がかすかに残っている。彼女は手洗い場へ向かい、蛇口を捻った。冷たい水が、彼女の手を濡らす。


 彼女は、何を見ているわけでもなく、ただ自分の指先を洗っていた。


 術式を書き上げた時に指についた、わずかなインクの汚れ。それは水に溶け、渦を巻いて排水口へと消えていく。


 窓から差し込む朝日は、昨日の曇天とは違い穏やかだった。


 羊皮紙は、まだたくさんある。インクも、十分に残っている。


 マリアはタオルで丁寧に手を拭くと、再び画板の前の椅子に腰を下ろした。


 彼女の表情に、悲しみも、後悔も、安堵も浮かばない。


 ただ、新しい羊皮紙を一枚、無造作に広げる。


 その光景は、あまりにも泰然としていて、残酷なまでに美しかった。


 彼女は再び羽ペンを取り、インクの壺を静かに突いた。


 次の客が来るまで、彼女はただ、巻物書きとしてそこに在り続けるのだ。

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