335 帝都陥落④副団長の矜持
【視点:ルール・シモン】
「ホント、馬鹿バッカだな」
ぽつりと零れた独り言に、自分で苦笑が漏れる。
薄暗い官舎の廊下を、ふらつく足取りで進む。
この一帯は、見渡す限り軍の管理施設だ。
昼間なら、むさくるしい男どもの怒号と足音が嫌でも耳にこびりつく。日が落ちた今はやけに静かで、遠くで虫が鳴いているくらいだ。人の気配はほとんどない。
壁の向こう側は別世界だ。
飲み屋やら、色気を売りにした店やら。夜が深まるほどに、あっちはどんどん騒がしくなる。
いつもなら、その喧騒にため息を一つ吐いて終わる夜。
今日だけは違う。
ついさっきまで、私自身がその喧騒のど真ん中にいたのだから。
酒を飲む機会がなかったわけじゃない。
ただ、相手は決まって『赤の諜報団』の部下か、気の合う同期ばかりだった。
立場上、一般人と軽々しく杯を交わすわけにはいかない。酔った勢いで機密でも漏らせば、一発で首が飛ぶ。
自分で言うのもこそばゆいが、少女と見紛う童顔に、この小柄な体格だ。
初対面で舐めてかかってくる輩は後を絶たない。自然と、酒を飲む顔ぶれは固定されていく。
副団長なんて厄介な肩書きがついてしまえば、なおさらだ。
羽目を外すなんて論外。酒量だって、常に頭で計算していた。
……それでも今日は。
よく飲んだし、よく食べた。
「ホント、馬鹿」
同じ言葉をなぞるのに、さっきとは違う温度の笑みが浮かぶ。
よりにもよって、相手は王国軍。
帝国に属する私にとって、最も警戒すべき連中だ。
それを、私の方から誘った。
共に死線を潜り抜けた、あの一戦。あの時の熱がまだどこかに残っていて……つい、柄にもなく口にしてしまったのだ。
途中からは、とんでもない"大物"まで乱入してきた。
普通なら場が凍るはずが、逆に火に油を注ぐ結果になった始末。
思い出して、くすりと笑う。
ああ、ホントに。馬鹿だ。
「ご機嫌だね。ルール・シモン」
背後から、声。
反射で身体が動いた。
腰をひねり、壁に背を叩きつけるようにして距離を取る。
同時に手が腰の剣へ向かい──空を切った。
飲み屋に帯剣していく馬鹿がどこにいる。
舌打ちを飲み込む。
叫びかけた喉も、寸前で閉じた。
声を出す必要はない。余計な情報は一つも与えない方がいい。
「副団長になったんだって? 赤の諜報団の」
廊下の奥。
闇と灯りが溶け合う境界に、人影が立っていた。
一歩。また一歩。
ゆっくりと、こちらへ近づいてくる。
まとわりつくような、ねっとりした声音。
──忘れるはずがない。
光の下へ踏み出したそれは──ザリウス!
「アレー、もう忘れちゃったかい? 君を監獄送りにした男の事を」
男は肩を揺らし、愉快そうに嗤う。
その仕草の一つ一つが、神経を逆撫でする。
「お前……死んだはずじゃ……」
「勝手に殺してほしくないな」
忌々しげに、こちらを睨みつける。
「私はね、お前のそういう無神経なところが嫌いなんだ。後悔してるよ。あの時、とっとと殺しておけばよかったとね」
眼帯の男が両手を広げた瞬間。
ぼとり、と。
頬の肉が、音を立てて床に落ちた。
……腐っている。
男は何事もなかったかのようにそれを拾い上げ、顔へ押し当てる。
肉が、ぐじゅりと蠢いた。
生き物みたいに。ずるり、と元の位置へ貼り付いた。
背筋に冷たいものが走る。
「なるほど。人間やめたってわけか」
赤の諜報団、元団長。私を監獄へ叩き込んだ張本人。
王国の残党部隊によって死んだはずの男。
その"亡霊"が、いま目の前に立っている。
▽▽▽
「……どうやって入った」
低く問いかける。
ザリウスは肩をすくめ、楽しげに嗤った。
「なに、もともと自分の古巣なんだ。どこからだって入れるさ」
嘘だ。
ここ数日の警戒態勢は、限界まで引き上げられている。
裏口も通路も、すべて封鎖と監視が敷かれているはずだ。
それを抜けてきた?
違う。
抜けたんじゃない。──踏み潰してきたんだ。
証明するかのように、鼻を刺す臭いが広がった。
腐敗した肉と焼けた脂が混ざり合った、最悪の臭気。
視線を巡らせる。
廊下の奥、暗がりの中に何かが転がっていた。
見覚えのある軍靴。見覚えのある外套。
ピクリとも動かない。
「そうそう」
パン、とザリウスが軽く手を叩く。
「君が監獄に行くきっかけになった"お友達"も連れてきてるんだよ」
言葉と同時に、暗闇が蠢いた。
ずるり。ぐちゃり。
引きずる音と共に現れたのは、無数の『抜け殻』。
目は濁り、肉は裂け、骨が覗いているものすらいる。
それでも、こちらへ向かってくる。
「きさま!!」
喉が裂けるほどの怒号が飛び出した。
腹の底が煮えくり返る。
この計画に最初に反対したのは私だ。こんなものを作るなと何度も止めた。
なのにこいつは、それを王国へ持ち込む作戦まで立てた。
証拠を掴もうとして──私は嵌められた。
全責任を押し付けられ、監獄送り。
あの時の、何もできなかった無力感。
歯を食いしばる。
こいつが討たれたと聞いた時、胸の奥の澱がようやく消えたと思ったのに。
その元凶が、より最悪な形で目の前にいる。
ふざけるな。
腕を振り上げる。
詠唱は会話の裏ですでに終えていた。
あとは解き放つだけ。
『跪け──【重力制圧】!!』
空間そのものを押し潰す、必殺の拘束魔法。
ザリウスは、埃でも払うように軽く手を振った。
【術式解体】
パリン。
薄氷が砕けるような、ひどく軽い音。
それだけで、私が積み上げた魔力は跡形もなく霧散した。
「……は?」
思考が、一瞬止まる。
理解が追いつかない。
「重力魔法しかないお前に、精霊加護を持つ私には勝てん。そもそも、お前に副団長など務まらないのだよ」
ゆっくりと告げられる断定。
「今はただ、その肉を彼らの糧とするがいい」
世界が崩れた。
抜け殻たちが一斉に動く。
腐った肉の波が押し寄せてくる。
同時に背後で轟音。
振り向くまでもない。火柱が上がり、廊下が炎に飲み込まれていく。
前も後ろも塞がれた。
……詰みだ。
喉が引き攣る。足の裏から感覚が抜け落ちていく。
脳裏にこびりついた記憶が、泥のように溢れ出した。
薄暗い監獄の、冷たく湿った石床。
鉄格子越しに見下ろしてくる、奴の嘲笑。
全てを奪われ、踏みにじられた、あの時の無力感。
また、だ。
あの時と同じ。何もできず、ただ奪われるだけなのか。
視界がぐらりと揺れた。
抵抗する気力ごと、へし折られた。
乾いた音を立てて、膝が床に落ちた。
「ルール。サヨナラだ」
ザリウスの声がやけに遠い。
「食われるがいい」
迫る腐臭。粘ついた息。濁った眼球。
大きく開いた口の奥、黒ずんだ歯列が見えた。
ここまでか。
喉元に、冷たいものが触れる。
反射的に、目を閉じた。
──その瞬間。
ギギギッ、と。
嫌な音が、至近距離で鳴った。
……来ない?
恐る恐る目を開く。
目の前で、抜け殻が止まっていた。
いや、止められている。
腕、首、脚。
赤く輝くワイヤーが深々と食い込み、動きを完全に封じていた。
「戦場で目をつぶるな! 立ちなさい、ルール!」
炎を背にした影が一歩前へ出る。
見慣れた背中がくるりと振り返り、手を差し出した。
──カルア!
その瞬間、横合いから別の抜け殻が飛びかかる。
が、次の瞬間には凍っていた。
空気ごと斬り裂くような白銀の一閃。
絶対零度の爪が、まとめて薙ぎ払う。
「酔い覚ましの運動にぴったりニャ」
軽い声。その動きは獣じみて速い。
氷が弾け、抜け殻が砕け散る。
戦場の温度が、一気に塗り替えられていく。
「アンタら……」
掠れた声が漏れる。
信じられないものを見るように、私はその姿を見上げた。
「副団長なら──副団長らしく、皆の指揮を執りなさい!」
叱りつける声。
強く、まっすぐな眼差し。
……ああ。
まったく、その通りだ。
自嘲が胸の奥で弾ける。
私は、その手を取った。
力を込めて。
──立ち上がる。




