まさかまさかのタイミング
晴海がそう声をあげると、あ、とまずいことを言ってしまった、とばかりの表情をロトが見せる。その様子に晴海が半目でロトを睥睨すれば、ロトは気まずい表情で視線を横に逸らしながらも、
「読めた」
とそう告白する。しれっと放たれたその言葉に、ぷつり、と晴海の脳内で堪忍袋の切れる音がした。
「じゃあ雑誌も文字読んでよ! お金かかるんだから!」
晴海が声をあげると、しかしもう開き直ったのかロトはあっさりと
「内容には興味ないし、読めるけど文字を読み慣れてなんてないから疲れるし」
そんなことを言い放つ。身も蓋もないその物言いに、晴海は、
「ふざけんなってのよ!」
そう咆哮を上げる。ちょうど晴海の正面辺りに来るロトの襟首を掴んで引き寄せると、近くなった顔に向かってがなりたてる。
「雑誌だって安くないんだから! 一体何冊買ったと思ってるの!」
「一、二、三、四、五、六、七、」
「数えなくていい!」
指を追って一二、と冊子を馬鹿丁寧に数えようとするロトに、晴海はそれを一蹴した。自分が一体何冊ロトに買い与えたか具体的な冊数を晴海は記憶していない。数をはっきりと示されれば、改めて自分が使ってしまった金額に頬が引き攣りそうだ。
晴海の言葉にロトは数を数えるのをやめたが、ロトの指は既に八本目が折られている。ということは、冊数はそれ以上ということになる。一体全体本当に自分は合計何冊の雑誌を買ったのか、と晴海はぶるりと我が身を抱きかかえるようにして震えあがった。
「とりあえず次は買わないから! 絶対買わないから! 全部記事読むまでぜった」
「すみませんが――」
「なに、よ――」
ロトへの説教の最中に口を挟まれ、晴海は勢いよく振り向きざま勢いのままに言い返した。しかし、そこにいたのが見知らぬ大人だったために口を閉ざすこととなる。と教師以外の年配の人間から、しかも顰め面を向けられることなど、たかだか十数年しか生きていない通常女子高生にはほとんど経験がないことだろう。警察関係に世話になったこともない、寧ろ模範的と分類される晴海ならばなおのことだ。それこそ、物心がついてからは晴海にはとんと覚えがなかった。
知らず緊張から背筋がピンと伸びる。この後の展開も自然想像がついた。
「営業の邪魔ですので、店の前で騒ぐのはおやめいただけますか」
そして初老の男性の口から発された言葉は当然予想されたもので、叱られた晴海は落ち込んだ。形式だけは懇願の形を取っているが、その言葉には有無を言わせない響きが込められているのを晴海はきちんと感じ取ることが出来たからだ。全く男性の指摘は的を射ていて、店の前でぎゃあぎゃあ騒ぐなど悪意があるとしか思えない。
優等生である晴海は、そういう風に非難じみた声を出されることに慣れていない。怒られていないせいか、そういう声を耳にするとどうしても反射的に体が強張り、気分は沈み込んでしまうのだ。顔も合わせて俯いてしまう。
そういう晴海とは対照的に、ロトにはあまりそれが堪えなかったらしく、平然としたまま口を開いた。
「すみません。ここで働きたいんですけれども」
ロトの言葉に、晴海はばっと顔を上げた。男性の身につけているカフェエプロンとそこに記されている店名から、どうやらその男性が今さっき晴海とロトが見ていた店の店員であることを知る。全く、バイトの申し出には最悪のタイミングだ、と晴海は頭を抱えたくなった。
ただでさえ募集されていないところにバイトを申し込むのはいい心象でないかもしれない。或いは人数が足りているのだろうに、そこに来て店の前で騒いで営業妨害をした人間だとすれば、そもそも雇われる可能性など零にほどほど近くなってしまうのではないだろうか。
晴海が抱いた危惧は間違っていなかったようで、男性も何とも形容しがたい顔をした。営業妨害してくる人間からまさかバイトをしたいと言われるとは思いもよらなかったのだろう。男性の顔に苦いものが走る。
「それは本心から言っているんですか?」
問いかけられて、ロトがこくりと首肯する。こういういい方をされてなお、うん、と言えるほどの意気込みがロトにあるのだとは思いもよらず、晴海は少し目を瞬いた。単に店の外装に郷愁を覚えただけだと思っていたのだが、もう少し別の理由があるのだろうか。それともただ空気が読めないだけなのだろうか。どちらの可能性もあり得るように思えて、晴海は固唾を呑んでロトの次の言葉を待つ。
「? はい」
そんな晴海に対して、ロトの言葉は嘘のように軽い。晴海には、ロトの言葉の中に明らかに疑問符が見えた。ロトには、全く今の男性の感情が理解できていないらしい。どうも後者のようだ。一緒に暮らしているために晴海の感情の機微だとか、或いは見るからに何らかの意気込みを見せつけてくる井戸端会議の皆様の噂話への熱意程度なら何となく分かっている節はあるのだが、その他の人物、殊初対面の人間に対しては、絶望的なまでに空気を読むスキルが欠如しているようである。
「あー……じゃあ店内に」
男性はそのロトの表情に毒気を抜かれたようで、そのまま店の中へと招き入れた。晴海はその後ろをついていこうかと思ったのだが、バイトの募集に晴海がいても邪魔なだけのような気もする。だが、だからといってついていかなければロトが何を言い出すか心配だし、と悩む間にも、二人の姿は晴海の位置から見えなくなる。
「うう……」
右見て左見て、少しの間逡巡し。それから晴海はええいままよ、と中へと飛び込んだ。




