第7話 帰り道の静けさ
その日は珍しく、日が沈みきる前に仕事を終えることができた。
「ヴァンスさん、今日はもう帰るの?」
帰り支度をしていると、向かいの机で書類を整理していたミラが顔を上げた。
「はい。今日の分は、なんとか片付けられたので」
「そう。たまには早く帰るのもいいわね。最近ずっと遅くまで残っていたでしょう」
ミラはそう言いながら、リディアの机に残った書類へ目を向ける。
「明日に回せるものまで、今日中に終わらせなくていいのよ。仕事は逃げないんだから」
「わかっています。今日はお言葉に甘えて、帰ることにします」
「ええ。そのほうがいいわ」
リディアが鞄を手に取ると、ミラは軽く手を振った。
「気をつけて帰ってね」
「はい。ミラさんも、あまり遅くならないようにしてください」
「私はいいのよ。それより、あなたのほうが心配なんだから」
いつもの調子でそう言われ、リディアは小さく笑ってから、資料室をあとにした。
廊下には、まだ仕事を続けている職員たちの姿があった。普段なら自分もその中にいる時間だ。人の気配が残る王宮を抜け、裏門へ続く小道へ出ると、夕暮れの光が庭園の木々の間から差し込んでいた。昼間の明るさはすでに薄れ、石畳には枝葉の影が長く伸びている。風が吹くたび、枝先に残った薄紅色の花が揺れ、花びらが何枚か道の上へ落ちていった。
仕事中は、こんな景色に目を向けることなどほとんどない。
ふと前方へ目を向けると、少し先を歩く人影が目に入った。見慣れた騎士服と、夕暮れの光を受けた銀色の髪に気づき、リディアは足を速めた。
「……アシュグレイ隊長?」
声をかけると、レイフォードが振り返った。
「ヴァンス文官か。今日は早いな」
「はい。今日は珍しく、早く終わったんです。隊長も、もう巡回は終わったんですか?」
「ああ。今日の分は終わった」
「そうだったんですね」
レイフォードはそのまま歩き出した。裏門までは同じ道らしく、リディアも少し間を置いて隣へ並ぶ。
庭園の中へ進むにつれて、王宮から聞こえていた人の声が遠ざかっていく。代わりに、木々を揺らす風の音や、石畳を踏む二人の足音が静かな道に残った。リディアは何度か話しかけようとしたものの、隣を歩くレイフォードが何も言わないので、そのまま黙って歩いた。
しばらくすると、一枚の花びらが風に乗って二人の前を横切った。リディアはその行方を目で追い、枝先に残る花へ視線を上げる。
「……綺麗ですね」
「ああ」
レイフォードも足を止め、花を見上げた。夕暮れの淡い光の中で、薄紅色の花が風に揺れている。
その横顔を見ているうちに、リディアはふと思ったことを口にした。
「隊長は、こういう景色がお好きなんですか?」
「……昔は、好きだった」
「昔は?」
「ああ。子どもの頃は、季節が変わるたびに庭を見るのが好きだった」
思いがけない答えに、リディアは隣を見た。
「意外です」
「そうか?」
「はい。隊長は、こういうものにはあまり興味がないのかと思っていました」
レイフォードは花から目を離さず、少しだけ考えるように黙った。
「そう見えるのかもしれないな」
それ以上は続けず、レイフォードが歩き出す。リディアもその横へ戻った。
先ほどの言葉が気になったものの、何かを尋ねるには少し踏み込みすぎる気がして、リディアは口を閉じた。二人の間には再び静かな時間が流れ、風に揺れる花の音と足音だけが続いていく。
しばらくして、レイフォードが隣を歩くリディアへ視線を向けた。
「ヴァンス文官は、こういう景色を見るのは好きか?」
「好きですよ。普段は仕事が終わる頃には暗くなっていますから、今日は明るいうちに帰れるだけでも、少し得をしたような気分です」
「得をした?」
「ええ。いつもなら気づかないものを見つけられた気がして」
リディアは庭園へ目を向けた。
「仕事をしていると、目の前の書類ばかり見てしまいますから」
「それは、お前らしいな」
思いがけない言葉に、リディアが顔を向ける。
「私らしい、ですか?」
「ああ。仕事をしているときは、周りが見えなくなるくらい集中している」
「……そんなにですか?」
「少なくとも、俺にはそう見える」
淡々とした口調だったが、リディアは思わず笑った。
「では、今日は珍しいところを見られましたね」
「そうだな」
レイフォードの口元にも、わずかに笑みが浮かんだ。
それを見たリディアは、少しだけ目を見開いた。けれど、何かを言う前にレイフォードは前を向き、二人はまた同じ歩調で歩き始めた。
木々の向こうに、裏門が見えてくる。
門を出れば、二人の帰る方向が分かれる。
「私は、こちらなので」
「ああ」
リディアは一歩進んでから、振り返った。
「今日はありがとうございました」
「何がだ?」
「その……一緒に歩いてくださったので」
レイフォードは一瞬、返事を迷うようにリディアを見たが、やがて視線を逸らした。
「礼を言うようなことじゃない。帰る方向が同じだっただけだ」
「それでも、一人で帰るより楽しかったです」
口にしたあと、リディアは自分でも少し意外に思った。
レイフォードもわずかに目を見開いたが、すぐにいつもの静かな表情に戻った。
「……そうか」
「はい」
リディアは小さく頷いた。
「では、隊長もお気をつけて」
「ああ。お前も、暗くなる前に帰れ」
「はい」
レイフォードが先に歩き出す。
リディアも自分の帰り道へ向かおうとしたが、数歩進んだところで振り返った。
遠ざかっていく背中を見ながら、先ほどの言葉がふと蘇る。
――子どもの頃は、季節が変わるたびに庭を見るのが好きだった。
これまで知らなかったレイフォードの一面だった。
リディアはしばらくその背中を目で追っていたが、やがて鞄の持ち手を握り直し、自分の帰る道へ歩き出した。




