第67話 名誉回復
ユール・クロノスが拘束されてから五日が過ぎても、記録局には落ち着いた空気が戻ってこなかった。事件が終われば仕事も減るものだとどこかで思っていたのに、旧貴族街から運び込まれた資料や押収品の一覧、被害者から集め直した証言が次々と届けられ、机の上には片づけても片づけても新しい書類の山ができていく。
「解決した事件の後始末が、いちばん大変なんじゃないかしら」
朝から三度目になる資料の束を抱えて戻ってきたミラが、空いている場所を探すようにリディアの机を眺めた。結局どこにも置けず、自分の机へ持ち帰ろうとしたので、リディアは少しだけ笑いながら端に積んであった箱を床へ移す。
「そこなら置けますよ。今日中に終わるかどうかは、約束できませんけど」
「いいのよ。全部今日やったら、またアシュグレイ隊長が椅子ごと隣に居座りそうだもの」
「もう、その話はいいですから」
リディアが書類を受け取ると、ミラは楽しそうに肩をすくめて自分の席へ戻っていった。窓から差し込む午後の日差しの中で紙埃がゆっくり舞い、あちこちから聞こえる筆記具の音や書棚を開け閉めする音が重なっている。その何でもない騒がしさを聞いていると、ほんの数日前まで地下で剣と魔力がぶつかっていたことが、遠い出来事のように思えた。
「ヴァンス、少しいいか」
執務室から顔を出したオーウェンの手には、いつもの分厚い書類ではなく、薄い書類ばさみが一冊だけあった。
何事だろうと思いながら席を立つと、彼は執務室へ戻らず、奥の資料机へ向かっていく。そこには二十年前の銀翼事件について調べ始めてから何度も開いた古い台帳が置かれており、少し黄ばんだページの中央には、見慣れてしまった祖母の名前があった。
アデル・ヴァンス。
そのすぐ横には、事件後に加えられた処分の記載が残っている。
「今朝、正式な決定が届いた」
オーウェンは書類ばさみから一枚の紙を抜き取り、リディアへ差し出した。厚手の紙の下には王宮の印章が押されており、受け取った瞬間、いつもの業務文書よりわずかに重く感じられた。
記されていたのは、二十年前にアデル・ヴァンスへ下された処分を取り消すという決定だった。銀翼事件に関する当時の記録が意図的に改ざんされていたこと、再調査によってアデル本人に職務上の不正は認められず、むしろ事件の拡大を防ぐために動いていたことが確認された、と続いている。
リディアは一度最後まで読んでから、もう一度最初の行へ目を戻した。
文字が変わったわけでもないのに、二度目に読むほうが時間がかかった。
「こっちの記録も直すことになった」
隣でオーウェンが椅子を引き、古い台帳を自分のほうへ寄せる。ペン先へインクを含ませたものの、すぐには紙へ触れず、二十年前の文字をしばらく眺めていた。
「……俺が書くことになるとは思わなかったな」
低くこぼれた声に、リディアは書状から顔を上げた。
「別の方が書かれる予定だったんですか?」
「そういう意味じゃない。当時ここで、アデル様の処分が記録されるのを見ていたんだ。まだ何もできない若造で、間違っていると思っても口を挟めなかった。その俺が、今度はその隣に訂正を書く」
オーウェンは苦笑するように息を吐いたあと、ようやくペンを紙へ下ろした。
古い記録の隣へ、新しい文字がゆっくり増えていく。
処分取消。再調査の結果、職務上の不正なし。
日付を書き込み、最後に記録局長として自分の名を署名すると、オーウェンはすぐにページを閉じず、乾ききっていないインクを眺めたまま椅子の背へ少し身体を預けた。
「アデル様は、俺の字が汚いってよく怒ってたよ。急いで書くと、記録に残す文字じゃないって」
思いがけない話に、リディアも台帳へ目を落とした。たしかに最後の署名だけ少し右上へ流れている。
「……今も少し跳ねていますね」
「そこは見なくていい」
「お祖母様なら、たぶん見逃さないと思います」
そう返すと、オーウェンは呆れたような顔をしたあと、台帳の表紙へ手をかけた。その指が一度だけアデルの名の近くで止まってから、分厚い表紙がゆっくり閉じられる。
そのとき、記録局の入口から聞き覚えのある声がした。
「リディアはいらっしゃる?」
振り向くと、淡い色の外出着をまとったセシリアが、小さな箱を抱えて立っていた。周囲へ軽く会釈をしながらこちらへ歩いてくると、リディアの前まで来たところで足を止め、顔から腕、足元まで確かめるように眺める。
「本当に怪我はないのよね? 手紙ではそう聞いていたけれど、直接見るまでは信用できなくて」
「大丈夫です。もう普通に仕事もしています」
「それはそれで心配なんだけど」
セシリアはそう言いながら箱を机へ置いた。
「フェリクス先生から。まだ長く歩き回るのは止められているそうだけど、かなり元気になられたわ。あなたに渡してほしいって」
「先生が?」
「中身は焼き菓子よ。今回は鑑定しなくても大丈夫だと思うけれど」
一瞬、二人とも黙った。
先に笑い出したのはセシリアだった。
「ごめんなさい。今のは言ってから気づいたわ」
「ひどいです」
「でも、あなたも笑ってるじゃない」
リディアは否定しようとしたものの、口元が緩んでいることに自分でも気づいて諦めた。
セシリアはまだ笑いを残したまま、机の端に置かれていた王宮の書状へ目を向ける。印章を見つけた途端、表情が少し変わった。
「届いたのね」
「はい。さっき局長から」
リディアが差し出すことはしなかったし、セシリアも読ませてとは言わなかった。
ただ、机越しに手を伸ばし、リディアの指先を包むように握る。
「本当に、よかった」
それだけ言うと、握った手へもう少し力が加わった。
かつてレイフォードとセシリアの婚約話を耳にするたび、どう振る舞えばいいのかわからなくなっていた頃の自分を思い出す。あの頃は、こうして同じことで喜んでもらう日が来るとは考えもしなかった。
「ありがとうございます、セシリア」
「それと、これは別件なんだけど」
急に声の調子が変わり、リディアは顔を上げた。
「さっき廊下でレイフォード様に会ったの。私があなたに会いに来たと話したら、『今日は何時頃までいる』って聞かれたわ」
「……仕事の用事じゃないですか?」
「そういうことにしておく?」
セシリアの口元が、見慣れたいたずらっぽい形になる。
「もう、その話はやめてください」
「はいはい。今日は名誉回復のお祝いに来たんだから、これ以上は言わないわ」
そう言いながらまったく反省していない顔をしているので、リディアがため息をつくと、少し離れたところで聞いていたオーウェンまで笑いを堪えるように咳払いをした。
*
仕事を少し早めに切り上げたリディアは、その日のうちに実家へ向かった。
王宮から受け取った書状の写しは、鞄のいちばん内側に入れてある。馬車の揺れで折れないよう何度か確かめながら窓の外を見ているうちに、見慣れた家並みが近づいてきた。
玄関を開けた父は、連絡もなく訪ねてきた娘を見て少し驚いたものの、鞄を胸元へ抱えている様子に気づくと、何も尋ねず居間へ通してくれた。
母が茶を用意している間に、リディアは書状を取り出して父の前へ置いた。
「今日、王宮から届きました」
父は印章を見つめたまま、すぐには触れなかった。
やがて両手で紙を取り上げると、最初はいつもの文書を読むように目を動かしていたが、アデルの名が出てきたところで視線が止まった。
そこから先へ進まず、もう一度同じ行へ戻る。
母が茶器を置く音だけが、静かな部屋に響いた。
「……母さんの処分が、取り消されたのか」
「はい。今日、記録局の台帳も正式に訂正されました」
父は返事をせず、紙の上にあるアデルの名を親指でゆっくりなぞった。
そのまましばらく黙っていたあと、書状を机へ戻そうとして、途中でやめる。結局、自分の膝の上へ大切そうに置いた。
「これは、うちに置いてもいいものなのか?」
「正式な写しです。持ち帰っていいと言われました」
「そうか……」
父は眼鏡を外し、手元にあった布でゆっくり拭き始めた。汚れているようには見えないのに、同じ場所を何度も往復している。
「お前が記録局に採用されたと聞いたとき、嬉しかったんだ」
突然そう言われ、リディアは父を見る。
「けれど同時に、行かせていいのかとも思った。母さんがあそこで何をされたのか、俺は知っていたからな」
以前、銀翼事件について尋ねたときの父の顔が浮かんだ。
話しかけるたび、言葉が少しずつ少なくなっていった理由を、今なら以前より近いところから想像できる。
「それで、ずっと話さなかったんですか」
「話したら、お前は調べるだろう」
父は眼鏡を掛け直しながら、ごく当たり前のことを言うような口調だった。
リディアは反論しかけて、言葉を止めた。
「……たぶん、調べたと思います」
「だろうな」
父の口元がわずかに緩み、隣で母も声を立てずに笑った。
「本当に、母さんによく似てきた。止めても聞かないところまでそっくりだ」
「それは褒めています?」
「半分くらいは」
今度はリディアも笑った。
父は膝の上の書状を丁寧に折り直してから、封筒へ戻した。
「今度、これを持って墓へ行こうと思う」
「私も行きます」
「そうしてくれ」
母が冷めかけた茶を新しいものに替えながら、夕食も食べていくでしょう、と尋ねる。
リディアはいつもの癖で時間を確かめようとしかけたが、壁の時計へ向けかけた視線をそのまま戻した。
「はい。今日はいただいて帰ります」
父が少し意外そうな顔をする。
「珍しいな。前なら仕事が残ってると言って帰ったのに」
「今日は残っていても、明日にします」
「それがいい。記録局の人間は昔から働きすぎる」
「それ、お祖母様にも言っていました?」
「言えるわけないだろう」
母がとうとう吹き出し、リディアも笑いながら湯気の立つ茶へ手を伸ばした。
父のそばには、王宮から届いた封筒が置かれている。表から中の文字は見えなかったが、そこにアデル・ヴァンスの名が記されていることを、もう確かめ直す必要はなかった。




