第68話 ふたりの朝
事件の後始末がひととおり落ち着いた頃には、王都の空気もすっかり冬のものに変わっていた。
日が落ちるのが早くなり、記録局の窓から見える中庭も、夕方を少し過ぎればもう薄暗い。以前なら、その頃からようやく腰を据えて書類の山に向かうことも珍しくなかったが、最近はミラだけでなくオーウェンまで、夜になるとリディアの机を気にするようになった。
「ヴァンスさん、それ明日でもいいでしょう?」
帰り支度を終えたミラが、リディアの机に残る書類を横から覗き込んだ。
「あと二枚だけです」
「その台詞、去年から何回聞いたと思う?」
「今日は本当に二枚です」
「じゃあ、その二枚が三枚に増えないうちに帰りなさいね」
釘を刺してから、ミラは外套を肩へ掛けた。扉を出る直前、何かを見つけたらしく廊下の向こうへ目をやり、意味ありげに口元を緩める。
「まあ、迎えも来たみたいだし」
リディアが顔を上げるより早く、ミラは楽しそうに手を振って帰っていった。
入れ替わるように扉の向こうから現れたレイフォードは、片手に二つのカップを持っていた。
「今、何か言われなかったか」
「気にしなくて大丈夫です。いつものことなので」
「それならいい」
あまりよくはないのだが、説明すれば余計に面倒なことになりそうだったので、リディアは黙って差し出されたカップを受け取った。
ふわりと上がる湯気から、もうすっかり馴染んだ茶葉の香りがする。
「ありがとうございます」
「ああ」
レイフォードは以前ミラの席だったあたりから椅子を一脚引き寄せ、リディアの机の横へ置いた。
事件の最中、護衛のために置かれていた椅子とほとんど同じ場所だった。
ただし今日は剣を手の届くところへ立てかけることもなく、自分の書類を積み上げることもしない。紅茶を一口飲みながら、机に残っている紙へ目を落としただけだった。
「二枚だな」
「ミラ先輩から聞きました?」
「いや。見ればわかる」
「監視されているみたいです」
「去年よりはましだろう」
何を指しているのか聞かなくてもわかった。
差出人もわからない紅茶だけが置かれ、誰が持ってきたのか見当もつかなかった頃のことだ。
リディアは思わず笑いながら、書類へ最後の署名を入れた。
「そういえば、最初はどうして名乗らなかったんですか?」
レイフォードがカップを口元まで運んだところで止まった。
「今さらそれを聞くのか」
「ちゃんと聞いたことはなかった気がして」
「大した理由じゃない。名乗るほどのことでもないと思っていた」
「毎回こっそり紅茶を置くほうが、よほど大したことだと思いますけど」
レイフォードは答えず、窓の外へ視線を向けた。
耳の近くがわずかに赤くなっている。
それを指摘するのはさすがにかわいそうなので、リディアは笑いを堪えながら残りの一枚へ手を伸ばした。
静かな時間が流れる。
紙をめくる音と、ペン先が文字を追う音。それから、ときどきレイフォードがカップを置く小さな音が混ざる。
以前にも何度もあったはずの夜なのに、今日は不思議と急ぐ気にならなかった。
最後の書類を閉じて紐を掛けると、レイフォードが机の端に置かれた時計へ目をやった。
「終わったか」
「はい。本当に二枚で終わりました」
「珍しいな」
「そんなに信用がないんですか?」
「実績があるからな」
言い返そうとして、結局できなかった。
リディアが机の上を片づけ始めると、レイフォードは空になったカップを二つ重ねたものの、椅子から立ち上がらなかった。
いつもなら仕事が終われば、そのまま送ると言って廊下へ出る。
今日はそれがない。
「レイフォード?」
呼ぶと、彼は少し遅れて顔を上げた。
「少し、話していいか」
「もちろんです」
リディアは片づけかけた鞄を椅子へ戻した。
レイフォードは両手を組んだあと、すぐにほどいた。視線が机の上を移り、空になったカップのところで一度止まる。
「前に、俺はお前に、隣にいてほしいと言った」
地下へ向かう前の朝。
初めて名前を呼ばれた日のことを、リディアも覚えていた。
「はい」
「あのときは、あれ以上言えば、戻れなくなる気がしていた」
「戻る、というのは?」
「今までの関係に」
レイフォードはそこで少し笑った。
「今になって考えると、とっくに戻れなくなっていたんだろうが」
リディアは膝の上に置いた手を見た。
胸の奥が、少しずつ騒がしくなる。
レイフォードがこんなふうに言葉を探しているのを見るのは、初めてではない。それでも今日は、途中で仕事の話へ戻る気配がなかった。
「セシリアとの話が出たときも、お前が俺を避け始めたときも、何が気に入らないのか自分でわかっていなかった。国境へ行けば、記録局に残してきたお前のことばかり気になって、戻れば戻ったで、何を話せばいいのかわからなかった」
「……はい」
「紅茶くらいなら、理由を考えなくて済んだからな」
それを聞いて、リディアは思わず顔を上げた。
「まさか、そんな理由だったんですか?」
「笑うな」
「だって……」
笑ってはいけないと思うほど、頬が緩んでしまう。
あれだけ長い間、正体不明だった紅茶の理由がそれだったと思うと、なんともレイフォードらしい。
「すみません。続けてください」
「もう話しづらくなった」
「ごめんなさい」
今度は本当に笑いを堪える。
レイフォードはしばらく恨めしそうにこちらを見ていたが、やがて諦めたように息を吐いた。
「リディア」
その声で、空気が少し変わった。
リディアは姿勢を戻した。
「俺は、お前が好きだ」
今度は、途中で言葉が止まらなかった。
「文官として必要だからでも、守らなければならないからでもない。仕事をしていないときも、何も起きていない日も、お前の隣にいたい」
レイフォードは真っ直ぐこちらを見ていた。
リディアは何か言わなければと思ったのに、喉の奥に言葉が引っかかって、すぐには出てこなかった。
自分の手元へ目を落とすと、机の端に二つの空のカップが並んでいる。
最初の頃なら、片方だけが置かれていた。
誰が持ってきたのかわからないまま、温かいうちに飲んでいた紅茶だった。
「私も」
やっと声が出た。
「私も、レイフォードが好きです」
口にした途端、耳まで熱くなった。
けれど、一度言ってしまうと、今度はもう少しだけ言えそうな気がした。
「最初は、本当に仕事で関わっているだけだと思っていました。紅茶も、護衛も、残業に付き合ってくださるのも、全部そういう人なんだろうって」
「ずいぶんな解釈だな」
「仕方ないじゃないですか。何も言ってくれなかったので」
「それは……悪かった」
素直に謝られ、リディアはまた少し笑った。
「でも、いつの間にか、いないと気になるようになっていました。国境へ行ったときも、怪我をしたと聞いたときも……セシリアとの噂を聞いたときも」
最後を口にするのは、今でも少しだけ恥ずかしい。
レイフォードは黙って聞いていた。
「だから、私も同じです。事件が終わったあとも、仕事が終わったあとも、一緒にいたいです」
机を挟んでいた距離が、ゆっくり縮まった。
レイフォードがリディアの前まで来ると、いつものように手を差し出す。
危険な場所で立ち上がらせてもらったときも、階段を下りるときも、何度も見た手だった。
リディアが自分の手を重ねると、今日は引き上げる代わりに、その指が静かに絡んだ。
「一つ、確認していいか」
「何ですか?」
「家同士の話にする前に、お前自身に聞きたい」
握られた手に少し力が加わる。
「これから先も、俺の隣にいてくれるか」
リディアは、レイフォードの顔を見た。
氷の騎士と呼ばれていた頃と同じ灰色の瞳なのに、今はもう、何を考えているのかわからないとは思わない。
「はい」
答えると、レイフォードの肩からわずかに力が抜けた。
「ただし」
リディアが続けると、彼の眉が動く。
「残業するときは、毎回付き合わなくて大丈夫ですからね」
「それは無理だ」
「どうしてですか」
「放っておけば帰らないだろう」
「最近は帰っています」
「今日も俺が来なければ、二枚が増えていたかもしれない」
「増えていません」
「信用できない」
言い返しているうちに、どちらからともなく笑っていた。
レイフォードの手は、まだ離れない。
やがて笑い声が静まると、彼がほんの少し顔を近づけた。
一度動きを止め、確かめるようにリディアを見る。
その距離で意味がわからないほど、もう鈍くはなかった。
リディアが目を閉じると、額にかかっていた髪へ彼の指先が触れ、そのあと、唇に柔らかな温もりが重なった。
触れた時間は短かった。
それでも離れたあと、すぐに目を合わせることができなくて、リディアは机の上へ視線を落とした。
「……紅茶、冷めましたね」
「もう空だ」
「あ、本当だ」
どうでもいい会話をしている自覚はあった。
レイフォードも同じだったらしく、また小さく笑った。
*
翌朝、リディアが記録局へ入ると、窓から差し込んだ朝日が机の上を明るく照らしていた。
昨夜片づけたはずの机には、一つだけ見覚えのないものが置かれている。
白いカップだった。
まだ湯気が立っている。
隣には、いつの間に来ていたのか、レイフォードが椅子へ腰を下ろしていた。
「おはよう」
「……おはようございます」
リディアはカップを持ち上げた。
いつもの香りがする。
「今日は残業していませんけど」
「朝ならいいだろう」
「そういう問題ですか?」
「嫌なら返せ」
「返しません」
両手で包むと、カップの熱が指先へゆっくり移ってきた。
窓の外では、朝の鐘が鳴り始めている。
ミラたちが出勤してくるまでには、もう少しだけ時間がありそうだった。
リディアは紅茶を一口飲んでから、自分の机の横に置かれた椅子を見る。
「レイフォード」
「何だ」
「今日も、そこにいるんですか?」
彼は手元の書類を一枚めくった。
「邪魔か?」
リディアは椅子を引きながら首を横に振った。
「いいえ。そのままで」
二つの机に朝の光が差し込み、並んだカップから細い湯気が上がっていた。




