第66話 決着
ユールの掌が触れた場所から、古い封印の光が大きく揺れた。
床いっぱいに刻まれた文字の中を、青白い光が脈打つように走っていく。地下の奥から重いものが擦れる音が響くたび、天井の隙間から細かな砂が落ち、リディアの肩にもぱらぱらと降りかかった。
レイフォードはユールへ剣を向けたまま、その場を動かなかった。
「私を止めれば、この封印がどうなるかわからない。だが、このまま眺めているわけにもいかないだろう」
ユールは床へ片手をついたまま、レイフォードを見上げた。
その口元には、先ほどまでの余裕がわずかに戻っている。
「リディア」
名前を呼ばれ、リディアは床へ視線を落とした。
「見ます。少しだけ、そのままにしてください」
円の外側へ膝をつき、髪飾りに指を添える。
光を追おうとすると、いくつもの流れが重なってすぐに見失う。焦って目だけを動かしていたリディアは、一度まぶたを閉じた。
指先には、祖母の髪飾りの冷たさがある。
もう一度目を開き、今度はすべてを見ようとせず、古い文字の形だけを拾った。
二十年前から残っている刻印は縁が丸く擦れている。その間に、石の色がわずかに明るい溝がいくつか混じっていた。後から削り足されたものだ。
本来の魔力は円の内側へ静かに巡っている。
その流れに逆らって、ユールの手元から別の力が押し込まれていた。
「……封印を壊しているんじゃない」
リディアの声に、ユールの目がこちらへ動いた。
「中へ収めている力を、反対から押しているんですね」
返事はなかった。
代わりに、ユールの指が石床を掴むように曲がった。
床を這っていた光が急に膨らみ、黒い魔力がレイフォードへ走る。彼が剣の腹で受けた瞬間、鈍い衝撃音とともに靴底が石を擦った。
左右から騎士が踏み込もうとしたが、別の光が進路を横切った。
「近づかないでください!」
リディアの声に、二人が足を止める。
その一瞬、逆向きに流れていた魔力が一本の細い溝へ集まった。
古い文字と文字の間を繋ぐ、不自然な線だった。
「レイフォード、その左です」
彼の視線が床へ落ちる。
「ユールの手ではなくて、その少し先。二つの文字を繋いでいる細い溝があります。そこだけ、後から加えられています」
「切れば止まるか」
「古い封印には触れないはずです。ただ、深く斬らないでください。表面だけを」
レイフォードは床の位置を確かめてから、リディアへ目を向けた。
問うような視線に、リディアは頷いた。
「大丈夫です」
ユールが勢いよく顔を上げた。
「待て!」
黒い魔力が立ち上がり、二人の間へ壁のように広がる。
レイフォードが動くより早く、左右にいた騎士たちがユールへ踏み込んだ。攻撃がそちらへ向いた隙に、もう一人が魔力の流れを横から剣で逸らす。
わずかに開いた場所へ、レイフォードが身体を滑り込ませた。
低く構えた剣が石床のすぐ上を走る。
深く打ち込むのではなく、リディアが示した溝だけを掬うように刃を返すと、細かな石片と火花が一緒に跳ねた。
刃の通ったあとには、浅い一本の傷が残った。
その傷を境に、ユールの手元から伸びていた光が途切れる。
広間の底で何かが大きく鳴り、ユールの身体がわずかに傾いた。
「……そんな」
床へ戻ろうとした手首を、レイフォードの剣の柄が払った。
ユールが体勢を崩したところへ騎士たちが左右から入り、腕を背中へ回して床から引き離す。
「離せ! まだ終わっていない!」
石壁に声が反響した。
これまで低く抑えられていた声音は消え、ユールは騎士二人に押さえられながらも、なお封印へ身体を向けようとしている。
「ここで私を止めて何になる。七曜家が作った今の形が正しいとでも思っているのか。奪われたものをそのままにして、何も知らぬ顔で――」
ユールの視線がレイフォードを捉えた。
「アシュグレイ。お前ならわかるだろう。姉を奪われて、それでも何も思わなかったのか」
騎士たちの動きが一瞬止まった。
レイフォードは剣を下ろさず、ユールを見ていた。
「思っている」
声は静かだった。
「二十年経っても消えない」
ユールの口元がわずかに動く。
「なら――」
「だから、お前と同じことはしない」
それ以上の言葉を待たず、レイフォードは騎士へ顔を向けた。
「拘束を。身につけている魔導具も全部外せ」
ユールの腕へ拘束具が掛けられ、金属の留め具が硬い音を立てる。
リディアはその音を背中で聞きながら、床へ目を戻した。
先ほどまで逆向きに押し込まれていた魔力は消え、古い文字の中を青白い光がゆっくり巡っている。
乱れた箇所がないか、一周、もう一周と目で追う。
壁の奥から聞こえていた軋みも、いつの間にか止まっていた。
「リディア」
すぐ近くで声がした。
顔を上げると、レイフォードが立っている。
「どうだ」
「……大丈夫です。元の流れに戻っています」
髪飾りから指を離し、立ち上がろうとしたところで膝が揺れた。
床へ手をつくより先に腕を支えられる。
「急に立つな」
「すみません。ちょっと集中しすぎただけです」
「ちょっと、か」
レイフォードは手を離さず、近くの石段へリディアを座らせた。
髪飾りを握っていた掌には、金属の縁の跡が薄く残っている。
リディアはそれを眺めたあと、先ほど剣が通った場所へ目をやった。
「本当に、切ってくれたんですね」
レイフォードも同じ場所を見る。
「切れと言っただろう」
「そうですけど……下には封印がありましたし、少しくらい疑われると思っていました」
「疑った」
思いがけない返事に、リディアは顔を上げた。
レイフォードは床の浅い傷を見たまま続ける。
「間違えれば、何が起きるかわからなかったからな。それでも、お前が切れると言った」
そこでようやく、こちらを見る。
「それなら俺は、そこを切る」
リディアは膝の上で掌を閉じかけ、今度は力を入れずにそのまま開いた。
「では、私も約束を守れましたね」
「約束?」
「レイフォードが見落とすものは、私が見るって言いました」
しばらく返事はなかった。
やがてレイフォードの口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
「ああ。助かった」
広間の向こうから騎士が歩いてくる。
「隊長、移送の準備が整いました」
レイフォードは立ち上がると、今度は急かさず手を差し出した。
その手を借りて立つ頃には、ユールも騎士たちに挟まれて歩き始めていた。
「待ってください」
リディアの声に、足音が止まる。
ユールがゆっくり振り返った。
拘束具の鎖が小さく鳴る。
「一つだけ、聞かせてください」
リディアは彼の前まで近づいた。
「祖母は、二十年前……最後まで何をしようとしていたんですか」
ユールはすぐには答えなかった。
リディアの髪へ視線を上げ、そこにある飾りをしばらく眺める。
「アデル本人に聞けばよかっただろう」
「もう聞けません」
「そうだったな」
ユールは目を細めた。
「何を考えていたかまでは知らない。ただ、あの女は最後まで記録を捨てなかった。逃げろと言われても、持ち出せるものを選んでいたよ」
リディアの視線がわずかに下がった。
髪飾りには触れなかった。
「……そうですか」
ユールは何か続けようとしたものの、結局口を閉じた。
レイフォードが騎士へ目を向ける。
「連れて行け」
再び鎖が鳴り、足音が地下通路へ遠ざかっていった。
リディアはその姿が見えなくなってから、床に残る古い封印を振り返った。
淡い光が静かに文字の間を巡っている。
その横へ、レイフォードが並んだ。
「戻れるか」
「はい」
リディアは一度だけ大きく息を吸い、通路の先へ顔を向けた。
「帰りましょう、レイフォード」
「ああ」
二人が歩き出すと、背後に残された青白い光が、石壁の角を曲がるまで足元を照らしていた。




