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氷の騎士様が、なぜか私の残業にだけ付き合ってくれる件  作者: 森凛
第四部「決着」

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第65話 氷の一閃

 黒い魔力が床を走った瞬間、広間の空気が一変した。


 石床に刻まれた文字が次々と灯り、柱の根元へ絡みつくように光が伸びていく。低い振動が足裏から伝わり、棚に残されていた古い箱が小刻みに揺れ始めた。


 騎士たちはすぐに剣を抜いたが、ユールはその場から一歩も動かなかった。


「近づくなら好きにするといい。ただし、その床はもう私のものだ」


 前列の騎士が踏み出すより先に、レイフォードが片手を上げた。


「待て。足元を見るんだ」


 その声とほとんど同時に、床の光が弧を描いて走った。


 騎士たちは左右へ退いたものの、最後尾の一人だけが避けきれない。黒い帯が足元へ迫ったところへレイフォードが滑り込み、剣の腹で軌道を逸らした。


 ぶつかった衝撃で、金属を強く叩いたような音が広間に響く。


「隊長!」


「問題ない。入口側へ下がれ。床の線を跨ぐな」


 倒れかけた騎士を別の二人が引き戻す。


 その間にも、光は床を這い続けていた。


 リディアは壁際まで移動し、髪飾りへ指を添えた。


 正面から見ていたときには、幾重にも重なった線が一つの術式にしか見えなかった。けれど角度を変えると、古い刻印の上に浅く掘り足された箇所がある。


 昨日の包みで見たものとも、国境の封印とも違う。


 それでも、魔力の動きには覚えがあった。


 一度大きく外へ広がったあと、終わり際だけ内側へ引き戻される。


 その癖だけは変わっていない。


「レイフォード、もう少し動かしてもらえますか」


 ユールと間合いを取りながら、レイフォードがこちらを見る。


「どのくらい必要だ?」


「二回。できれば違う方向へ」


 事情を細かく尋ねることなく、彼は近くの騎士へ合図を送った。


「俺が正面へ出る。左右から二人つけ。ただしユール本人を狙うな。攻撃を出させるだけでいい」


 騎士たちが散る。


 レイフォードが床の線を避けながら距離を詰めると、ユールの視線が鋭くなった。


「ずいぶん素直に文官の言葉を聞くようになったな、アシュグレイ」


「役に立つ意見なら聞く。当たり前だろう」


 言葉が終わる前に、ユールが腕を振った。


 今度は正面だけではない。柱の陰からも黒い流れが立ち上がり、三方向から騎士たちへ迫る。


 レイフォードは一つを剣で受け流し、残る二人は大きく退いた。


 リディアは戦う人々ではなく、床を見ていた。


 光が広がる。


 柱へ流れる。


 そして戻る。


 戻る瞬間だけ、後から掘り足された三本の線へ魔力が集中した。


 けれど、まだ足りない。


「もう一度お願いします!」


 返事の代わりに、レイフォードが剣先をわずかに上げた。


 今度は彼自身がユールの間合いへ深く踏み込む。


「やめろ!」


 ユールの声に初めて焦りが混じった。


 床の半分近くが一斉に光る。


 リディアは息を止めた。


 広がった魔力が、さっきより速く戻ってくる。


 その流れが重なる場所は三つではなかった。


 二つの線が途中で一つになり、最後は中央の柱の裏へ集まっている。


 そこだけ刻み方が浅い。


 元からあった封印を傷つけず、上に別の術式を繋ぐために加えられた線だった。


「見つけました!」


 リディアは壁沿いに数歩移動した。


「中央の柱です。表じゃありません。裏側の下――床から手のひら一つ分くらい上に、後から足された刻印があります」


 レイフォードが一度だけ柱を見る。


 ユールも同じ場所を見た。


 それだけで十分だった。


「右側、回り込め!」


 レイフォードの指示で騎士が二人動く。


 ユールがすぐに片手を向けると、床の光が彼らを追った。


 進路を塞がれ、二人が足を止める。


 リディアは目を凝らした。


「まだです。今触ると下の封印まで巻き込みます」


 焦れば、昨日まで調べてきたものまで壊してしまう。


 祖母が残した髪飾りを握る指に力を込め、魔力が戻るまで待った。


 周囲では剣のぶつかる音が続いている。


 石の欠片が足元へ転がり、舞い上がった埃が喉に張りついた。


 それでも、流れだけは見失わなかった。


 ユールが大きく腕を振る。


 広間を横切った魔力が、柱を巡って戻り始めた。


 太かった線が細くなる。


 重なっていた光が、一瞬だけほどけた。


「今なら切れます!」


 レイフォードは騎士へ命じなかった。


 自分で走った。


 床に残る光の間を抜け、途中で迫った黒い帯を身体を捻ってかわす。剣が石へ触れそうなほど低く構えられ、そのまま柱の陰へ入った。


 リディアの位置からは姿が見えなくなる。


 次の瞬間、澄んだ金属音が響いた。


 それまで広間を満たしていた振動が、ふっと弱まった。


 柱の向こうからレイフォードが出てくる。


 剣先には、削り取られた細い石片が引っかかっていた。


 ユールの足元で、光が乱れる。


「……何をした」


 先ほどまで広がっていた術式が、一部だけ繋がらなくなっていた。


 レイフォードは石片を剣から落とすと、すぐに距離を取った。


「俺に聞くな」


 視線がリディアへ向く。


「見つけたのはリディアだ」


 胸が大きく鳴った。


 けれど、喜んでいる暇はない。


 流れが弱まったことで、その下に隠れていたものが見え始めている。


 リディアは思わず机ほどの大きさがある床の中央へ目を凝らした。


 後から加えられた術式の下に、さらに古い文字が刻まれている。


「待ってください」


 レイフォードが動きを止める。


 古い封印は壊れていなかった。


 むしろ、上に重ねられていた魔力が途切れたことで、本来の形が少しずつ浮かび上がっている。


「下の封印は残っています。今切ったのは、上に足された部分だけです」


 その言葉に、騎士たちの間から小さな息が漏れた。


 ユールだけは動かなかった。


 床を見つめたまま、口元を硬く結んでいる。


 やがて、彼はゆっくり顔を上げた。


「アデルも同じだった」


 リディアの指が髪飾りの上で止まる。


「二十年前も、あの女だけが最後まで下を見ていた。目の前で起きていることではなく、その下に何が残っているかをな」


 ユールはそう言いながら、足を一歩後ろへ引いた。


 靴底が、古い封印の中央へ重なる。


 レイフォードが剣を構え直した。


「そこから動くな」


「今さら?」


 ユールの手がゆっくり下がる。


 床へ向けられた指先を見て、リディアの背中が冷えた。


「レイフォード、待って。そこは――」


 ユールの掌が石床へ触れた。


 それまで眠っていた古い文字が、一斉に光を取り戻す。


 地下のさらに奥から、地面そのものが軋むような音が返ってきた。


 レイフォードはユールへ剣を向けたまま、動けない。


 リディアも床から目を離せなかった。


 ここで一つでも間違えれば、今度は上に重ねられた術式では済まない。


 ユールが、その二人を見比べた。


「さあ。どちらを先に止める?」

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