第65話 氷の一閃
黒い魔力が床を走った瞬間、広間の空気が一変した。
石床に刻まれた文字が次々と灯り、柱の根元へ絡みつくように光が伸びていく。低い振動が足裏から伝わり、棚に残されていた古い箱が小刻みに揺れ始めた。
騎士たちはすぐに剣を抜いたが、ユールはその場から一歩も動かなかった。
「近づくなら好きにするといい。ただし、その床はもう私のものだ」
前列の騎士が踏み出すより先に、レイフォードが片手を上げた。
「待て。足元を見るんだ」
その声とほとんど同時に、床の光が弧を描いて走った。
騎士たちは左右へ退いたものの、最後尾の一人だけが避けきれない。黒い帯が足元へ迫ったところへレイフォードが滑り込み、剣の腹で軌道を逸らした。
ぶつかった衝撃で、金属を強く叩いたような音が広間に響く。
「隊長!」
「問題ない。入口側へ下がれ。床の線を跨ぐな」
倒れかけた騎士を別の二人が引き戻す。
その間にも、光は床を這い続けていた。
リディアは壁際まで移動し、髪飾りへ指を添えた。
正面から見ていたときには、幾重にも重なった線が一つの術式にしか見えなかった。けれど角度を変えると、古い刻印の上に浅く掘り足された箇所がある。
昨日の包みで見たものとも、国境の封印とも違う。
それでも、魔力の動きには覚えがあった。
一度大きく外へ広がったあと、終わり際だけ内側へ引き戻される。
その癖だけは変わっていない。
「レイフォード、もう少し動かしてもらえますか」
ユールと間合いを取りながら、レイフォードがこちらを見る。
「どのくらい必要だ?」
「二回。できれば違う方向へ」
事情を細かく尋ねることなく、彼は近くの騎士へ合図を送った。
「俺が正面へ出る。左右から二人つけ。ただしユール本人を狙うな。攻撃を出させるだけでいい」
騎士たちが散る。
レイフォードが床の線を避けながら距離を詰めると、ユールの視線が鋭くなった。
「ずいぶん素直に文官の言葉を聞くようになったな、アシュグレイ」
「役に立つ意見なら聞く。当たり前だろう」
言葉が終わる前に、ユールが腕を振った。
今度は正面だけではない。柱の陰からも黒い流れが立ち上がり、三方向から騎士たちへ迫る。
レイフォードは一つを剣で受け流し、残る二人は大きく退いた。
リディアは戦う人々ではなく、床を見ていた。
光が広がる。
柱へ流れる。
そして戻る。
戻る瞬間だけ、後から掘り足された三本の線へ魔力が集中した。
けれど、まだ足りない。
「もう一度お願いします!」
返事の代わりに、レイフォードが剣先をわずかに上げた。
今度は彼自身がユールの間合いへ深く踏み込む。
「やめろ!」
ユールの声に初めて焦りが混じった。
床の半分近くが一斉に光る。
リディアは息を止めた。
広がった魔力が、さっきより速く戻ってくる。
その流れが重なる場所は三つではなかった。
二つの線が途中で一つになり、最後は中央の柱の裏へ集まっている。
そこだけ刻み方が浅い。
元からあった封印を傷つけず、上に別の術式を繋ぐために加えられた線だった。
「見つけました!」
リディアは壁沿いに数歩移動した。
「中央の柱です。表じゃありません。裏側の下――床から手のひら一つ分くらい上に、後から足された刻印があります」
レイフォードが一度だけ柱を見る。
ユールも同じ場所を見た。
それだけで十分だった。
「右側、回り込め!」
レイフォードの指示で騎士が二人動く。
ユールがすぐに片手を向けると、床の光が彼らを追った。
進路を塞がれ、二人が足を止める。
リディアは目を凝らした。
「まだです。今触ると下の封印まで巻き込みます」
焦れば、昨日まで調べてきたものまで壊してしまう。
祖母が残した髪飾りを握る指に力を込め、魔力が戻るまで待った。
周囲では剣のぶつかる音が続いている。
石の欠片が足元へ転がり、舞い上がった埃が喉に張りついた。
それでも、流れだけは見失わなかった。
ユールが大きく腕を振る。
広間を横切った魔力が、柱を巡って戻り始めた。
太かった線が細くなる。
重なっていた光が、一瞬だけほどけた。
「今なら切れます!」
レイフォードは騎士へ命じなかった。
自分で走った。
床に残る光の間を抜け、途中で迫った黒い帯を身体を捻ってかわす。剣が石へ触れそうなほど低く構えられ、そのまま柱の陰へ入った。
リディアの位置からは姿が見えなくなる。
次の瞬間、澄んだ金属音が響いた。
それまで広間を満たしていた振動が、ふっと弱まった。
柱の向こうからレイフォードが出てくる。
剣先には、削り取られた細い石片が引っかかっていた。
ユールの足元で、光が乱れる。
「……何をした」
先ほどまで広がっていた術式が、一部だけ繋がらなくなっていた。
レイフォードは石片を剣から落とすと、すぐに距離を取った。
「俺に聞くな」
視線がリディアへ向く。
「見つけたのはリディアだ」
胸が大きく鳴った。
けれど、喜んでいる暇はない。
流れが弱まったことで、その下に隠れていたものが見え始めている。
リディアは思わず机ほどの大きさがある床の中央へ目を凝らした。
後から加えられた術式の下に、さらに古い文字が刻まれている。
「待ってください」
レイフォードが動きを止める。
古い封印は壊れていなかった。
むしろ、上に重ねられていた魔力が途切れたことで、本来の形が少しずつ浮かび上がっている。
「下の封印は残っています。今切ったのは、上に足された部分だけです」
その言葉に、騎士たちの間から小さな息が漏れた。
ユールだけは動かなかった。
床を見つめたまま、口元を硬く結んでいる。
やがて、彼はゆっくり顔を上げた。
「アデルも同じだった」
リディアの指が髪飾りの上で止まる。
「二十年前も、あの女だけが最後まで下を見ていた。目の前で起きていることではなく、その下に何が残っているかをな」
ユールはそう言いながら、足を一歩後ろへ引いた。
靴底が、古い封印の中央へ重なる。
レイフォードが剣を構え直した。
「そこから動くな」
「今さら?」
ユールの手がゆっくり下がる。
床へ向けられた指先を見て、リディアの背中が冷えた。
「レイフォード、待って。そこは――」
ユールの掌が石床へ触れた。
それまで眠っていた古い文字が、一斉に光を取り戻す。
地下のさらに奥から、地面そのものが軋むような音が返ってきた。
レイフォードはユールへ剣を向けたまま、動けない。
リディアも床から目を離せなかった。
ここで一つでも間違えれば、今度は上に重ねられた術式では済まない。
ユールが、その二人を見比べた。
「さあ。どちらを先に止める?」




