第64話 クロノスとの対峙
旧貴族街の屋敷、その地下で見つかった石造りの通路は、途中から空気が変わっていた。
湿った土の匂いが薄れ、代わりに鼻の奥へ金属に似た匂いが残る。壁には灯りがないのに、埋め込まれた魔導文字が一定の間隔でかすかに光り、足元だけを青白く照らしていた。
リディアが歩みを緩めると、すぐ前にいたレイフォードも立ち止まった。
「どうした」
「この先だけ、封印が生きています」
リディアは壁へ近づきすぎない位置で、髪飾りに指を添えた。
古い術式の上から、新しい魔力が重ねられている。二十年前のものをそのまま使っているのではなく、何度も手を入れながら維持してきた跡だった。
「解除できますか」と後ろから部下に尋ねられ、リディアは首を横へ振った。
「今ここで触るのは危険です。ただ、人を拒む封印ではないと思います。何かを外へ出さないためのほうが近いです」
レイフォードはしばらく壁を見たあと、隊列の後方へ合図を送った。
「ここからは人数を絞る。残りは入口を押さえてくれ。何かあっても、許可があるまで封印には触るな」
それからリディアへ顔を向ける。
「行けるか」
「はい」
止めるのではなく、確かめるように聞かれた。
リディアが頷くと、レイフォードはそれ以上何も言わず先へ進んだ。
通路の終わりには、両開きの古い扉が残っていた。
騎士が片側を押すと、軋んだ音を立ててゆっくりと開いていく。
その向こうは、屋敷の地下とは思えないほど広い空間だった。
天井近くまで伸びた柱の間に、使われなくなった棚や木箱が積まれている。中央だけが不自然に片づけられ、床には大きな円形の術式が刻まれていた。
そして、その奥に男がいた。
灰色を帯びた長い髪を後ろへ流し、黒に近い衣服を身につけている。逃げる様子も、突然踏み込んできた騎士たちに驚く様子もなかった。
むしろ、来る時間まで知っていたように、静かにこちらを見ている。
「ずいぶん人数を連れてきたな」
男の目が騎士たちの間を通り、そのままリディアで止まった。
「もっと早く来ると思っていたが」
レイフォードが一歩前へ出た。
「ユール・クロノスだな」
「その名まで辿り着いたなら、確認はいらないだろう」
ユールは笑わなかった。
淡々とした声音に、かえってリディアは指先へ力を入れた。
机の上の署名とは違う。
二十年前から続く記録の向こう側にいた人間が、今、目の前にいる。
ユールの視線がリディアの髪へ移った。
「アデルの髪飾りか。まだ残っていたとはな」
リディアは髪飾りへ触れなかった。
「これをご存じなんですね」
「何度か見た。あの女は、記録を読むときによくそこへ手をやっていた」
祖母について過去形で語る声に、胸の奥がざらついた。
けれど、問い詰めたいことは別にある。
「二十年前、祖母に計画を見つけられた。それで銀翼事件のあと、一度中断したんですね」
ユールの目がわずかに細くなった。
「そこまで読んだか」
「あなたが残していたんです」
「残したのではない。処分が間に合わなかっただけだ」
初めて、声の端にわずかな苛立ちが混じった。
レイフォードが腰の剣へ手を置いたが、まだ抜かない。
「現在の改ざんも、お前の指示だな。国境で荷を動かして騎士団を割き、その間に制約文書へ手を入れた」
ユールはレイフォードへ視線を移した。
「火曜家は昔から剣ばかり見ている。国境で騒ぎが起きれば、案の定そちらへ向いた」
その言い方に、レイフォードの表情は変わらなかった。
「では、密輸されたものは囮だけではなかったんですね」
リディアの言葉に、ユールが再びこちらを見る。
「なぜそう思う」
「わざわざ封印術式を残していました。騎士団を王都から遠ざけるだけなら、あんなものを運ぶ必要はありません」
しばらく沈黙があった。
ユールはその答えを吟味するようにリディアを眺めたあと、わずかに顎を上げた。
「アデルより慎重だな。あの女は答えへ急ぎすぎた」
リディアの横で、革手袋が小さく鳴った。
レイフォードが剣の柄を握った音だった。
「質問に答えろ」
「必要なものを運んだ。それだけだ。古い封印を開くには、記録を書き換えるだけでは足りない。失われ
た術具も、材料も必要になる」
そこで、これまで別々に見てきたものが最後まで繋がった。
王宮の記録を内側から崩し、国境から必要なものを運び込む。
そして、二十年前のことを知る者たちには照会文を送り、彼らの手元に何が残っているかを探った。
「フェリクス様たちを狙ったのは、口を塞ぐためだけではなかったんですね」
「二十年も経てば、人は記録を捨てる。だが、用心深い者は写しを残す。アデルに協力した連中なら、なおさらだ」
ユールは、それが当然の整理であるかのように話した。
「必要なものを回収して、邪魔になる者には動けなくなってもらった。死なせる必要のない者まで殺すほど、私は無駄を好まない」
リディアの背中を冷たいものが走った。
フェリクスが意識を失ったことも、姿を消した人がいたことも、この男にとってはただ手段を選んだ結果に過ぎないらしい。
「それで、全部だったんですね」
ユールが眉を動かす。
「記録局の改ざんも、国境の密輸も、社交界で起きたことも、二十年前の銀翼事件も。二十年前に止まった計画を続けるためだった」
「続ける?」
その言葉だけを拾い、ユールの声が少し低くなった。
「違うな」
広間の奥から、微かな振動が伝わってきた。
リディアは足元を見る。
床に刻まれた大きな術式の一部が、先ほどより明るくなっている。
「リディア」
レイフォードも気づいたらしい。
「分かっています。まだ動かないでください」
リディアは円の外周を目で追った。
話している間にも、魔力は少しずつ床の下へ流れ込んでいる。
ユールは二人のやり取りを眺めながら、初めて薄く笑った。
「アデルは、私たちが昔の地位を取り戻したがっていると思っていた。お前たちも同じか」
「違うんですか」
「失った座に戻って、何になる」
ユールは足元の紋様へ視線を落とした。
「七曜家という仕組みそのものが、間違っている。クロノスから力を奪い、分け合えば均衡が保てるなどと、ゼウス家は本気で信じた。結果が今の国だ」
声を荒らげることはない。
それでも、それまで平坦だった言葉の奥に、初めて熱が混じっていた。
「私は奪われた椅子が欲しいわけではない。一度壊して、最初から作り直す」
リディアはユールを見つめた。
「そのために、関係のない人まで巻き込んだんですか」
「関係がない?」
ユールの目が静かにリディアへ向く。
「お前がここにいるのは、アデル・ヴァンスの孫だからだ。アシュグレイが剣を向けているのも、姉を失ったからだろう。二十年前から、誰一人として無関係ではない」
レイフォードの剣が鞘から数センチだけ抜かれ、金属の光が覗いた。
けれどリディアは、その前へ出ようとはしなかった。
「私は祖母の代わりに来たんじゃありません」
ユールの視線が止まる。
「ヴァンス家のためだけでもない。自分で調べて、自分でここまで来ました」
隣で剣が静かに鞘へ戻った。
レイフォードが口を挟まなかったことに、リディアは気づいていた。
「あなたはずっと、家と血筋の話をしています。でも、少なくとも私たちは、それだけでここにいるわけじゃない」
ユールはしばらくリディアを見ていた。
やがて興味を失ったように視線を外し、床へ片手を向ける。
「なら、自分で選んだことを後悔するといい」
床を走っていた光が、一斉に繋がった。
空気が震え、積み上げられていた木箱が低い音を立てる。
騎士たちが剣を抜く気配の中で、レイフォードがリディアの前へ完全に立ちはだかることはなかった。
半歩だけ位置を変え、彼女から術式が見える場所を残したまま剣を抜く。
「読めるか」
リディアは髪飾りを押さえ、広がっていく光から目を離さなかった。
「はい。少しだけ時間をください」
「わかった」
レイフォードは剣を構えた。
「その間は任せろ」
ユールの足元から、黒い魔力がゆっくりと立ち上がった。




