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氷の騎士様が、なぜか私の残業にだけ付き合ってくれる件  作者: 森凛
第四部「決着」

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第63話 対等な想い

 翌朝の記録局には、いつもより早い時間から人の出入りが続いていた。


 旧貴族街で見つかった資料の写しが運び込まれ、オーウェンの執務室と資料室を局員たちが何度も往復している。窓から射す朝の光はまだ薄く、机の上には昨夜から灯したままらしいランプも残っていた。


 リディアはその一つを避けながら、大きな紙の上へ三種類の術式を書き写していた。


 二十年前の銀翼事件で残されたもの。


 国境で押収された封印。


 そして、昨日自分を狙って届いた包みに刻まれていたもの。


 形はそれぞれ違う。それでも、最後に魔力を内側へ戻すあの癖だけは、どれにも残っている。


「これで足りますか?」


 背後から聞かれ、リディアは筆を止めた。


 レイフォードが机の向かいに立っていた。


 今日はすでに騎士団の装備を整えている。腰には剣があり、肩から胸元にかけて普段より厚い防具を着けていた。


「現地でこれと同じ術式があれば、見分けられると思います。ただ、触れる前に確認する時間はください」


「わかった。先に騎士団が場所を押さえる。中へ入るのは安全を確認してからだ」


 リディアは返事をしながら、紙を乾かすため机の端へ移した。


 そこで手が止まる。


「……私も行く前提なんですね」


 レイフォードがこちらを見る。


「行かないつもりだったのか?」


「いえ。ただ、てっきり反対されるかと」


 以前なら、危険だから残れと言われただろう。


 レイフォードは少し眉を寄せたあと、机に広げられた術式へ視線を落とした。


「俺には、現地で偽物を見分けられない。お前にはできる」


 あまりにも普通に言われて、リディアは一瞬返事を忘れた。


「ただし、一人では動くな。何か見つけても勝手に触るな。それなら来てくれ」


「……はい」


 胸元に手をやると、髪飾りの先が指に触れた。


 昨夜、エルシーの肖像画の前で話していた人と、今こうして目の前に立っている人が、同じ人なのだと改めて思う。


 何も怖がらない人だと思っていた。


 けれど本当は、失うことを恐れながら、それでも剣を取っていた。


 そのことを知った今、「守る」と言われるだけでは足りなくなっていた。


「アシュグレイ隊長」


 レイフォードが顔を上げる。


「出発の前に、少しだけ時間をいただけますか」


 リディアの声を聞いた彼は、何も尋ねずに頷いた。


 ◆


 人の出入りが落ち着くのを待って、二人は資料室へ移った。


 昨夜の私室とは違い、ここには窓から朝の光が入っている。


 壁際にはいつもの書棚が並び、机には昨日まで使っていた資料が積まれていた。初めてこの事件を追い始めた頃から、何度ここで夜を越したのかわからない。


 リディアは窓際に立ち、髪に挿していた飾りを外した。


 掌へ載せると、小さな金属飾りが朝日を鈍く返す。


「昨日、隊長のお話を聞いてから、ずっと考えていました」


 レイフォードは急かさず、少し離れたところで待っていた。


「お祖母様のことを知ったとき、私は、何かを引き継がなくてはいけないと思っていたんです。家の名誉を戻すとか、お祖母様ができなかったことを代わりにするとか……そういうことを」


 そこまで口にして、自分でも少し違うと思った。


 髪飾りを指先で返す。


 裏側には、幼い頃から何度も目にしてきた小さな文字が刻まれている。


「でも、たぶん違いました」


 アデルが残したものは、髪飾りだけではない。


 焦ったときに一度立ち止まる癖も、細かな違いを見過ごさずに記録を読むことも、誰かが決めた答えをそのまま信じないことも。


 気づけば、ずっと自分の中にあった。


「私は、お祖母様にはなれません。でも、それでいいんだと思います」


 レイフォードの視線が、掌の髪飾りからリディアへ移る。


「今回のことも、ヴァンス家だから向き合うわけではありません。お祖母様の代わりでもなくて……私が、自分で最後まで確かめたいんです」


 言葉にすると、長く胸につかえていたものが少しずつ形を変えていった。


 父が話してくれなかった過去。


 改ざんされた最初の契約書。


 差出人のわからない紅茶。


 国境へ向かっていたレイフォードを見送った日も、セシリアの言葉に勝手に身を引こうとした日も、全部ここまで続いている。


 その中で、自分だけが守られる場所へ戻ることは、もう考えられなかった。


「隊長が私を守ろうとしてくださっているのは、わかっています」


 レイフォードが何か言おうとしたが、リディアはその前に続けた。


「でも、昨日のお話を聞いたあとで、私だけ安全なところにいろと言われたら……たぶん、今度は私が怒ります」


 意外だったのか、レイフォードがわずかに目を見開いた。


「また怒るのか」


「エルシー様のお話とは別です」


「そうか」


「笑わないでください」


「笑っていない」


 そう答える口元がほんの少し緩んでいる。


 リディアもつられて息を漏らしたが、すぐに髪飾りを握り直した。


「私は剣を使えませんし、隊長みたいに誰かを庇って戦うこともできません。でも、私にしかできないことならあります」


 レイフォードは黙って聞いている。


「だから、私のことを守ることだけ考えないでください。隊長が見落とすものは私が見ますし、私にできないことは隊長にお願いします」


 そこまで言ってから、少し迷った。


 昨日、自分を狙った包みが光ったときのことを思い出す。


 机の前へ入ったレイフォードの背中を見た瞬間、怖かったのは自分が傷つくことだけではなかった。


「それに……」


 声が思ったより小さくなった。


「私だって、隊長に何かあったら嫌です」


 レイフォードの表情が止まった。


 リディアは急に自分の言ったことが恥ずかしくなり、手の中の髪飾りへ目を落とした。


「ですから、その……片方だけが守るというのは、少し違うかなと」


 うまくまとまらない。


 仕事なら、もっと順序よく話せるのに。


 沈黙が長くなり、とうとう耐えきれず顔を上げると、レイフォードはまだこちらを見ていた。


「ヴァンス文官」


 いつもの呼び方だった。


 けれど、続く言葉が出てこない。


 レイフォードが一度息を吐き、視線を窓の外へ逃がした。


「昨日、俺はお前に、自分のことを知っていてほしいと言った」


「はい」


「そのくせ、また自分だけで決めるところだった」


 リディアは首を振りかけたが、レイフォードがこちらへ戻した視線を見て動きを止めた。


「だから、さっき現場へ来てくれと言った。怖くないわけじゃない。できるなら記録局の奥にでも閉じ込めておきたい」


「それは困ります」


「わかっている」


 今度こそ、レイフォードは少し笑った。


「だが、お前が必要だ。文官としても……それ以外でも」


 最後の言葉だけが、少しゆっくりだった。


 リディアの指先で、髪飾りがわずかに傾く。


 これまでなら、そこから先を考えないようにしていたかもしれない。


 家柄が違う。


 セシリアのほうがふさわしい。


 家同士が決めることなのだから、自分が期待するものではない。


 何度も自分の前に置いた言葉が浮かんでは、どれも今は以前ほど強くなかった。


「私もです」


 声にすると、レイフォードの眉がわずかに動いた。


「仕事だけではなくて……あなたがいないのは、嫌です」


 もう言い直せなかった。


 頬が熱い。


 それでも、今度は目を逸らさなかった。


 レイフォードの手がゆっくり上がり、途中で一度止まる。


 触れていいのか迷ったように見えた。


 リディアが動かずにいると、その手が髪飾りを持っていないほうの手へ重なった。


 剣を握る手だった。


 昨夜と同じ硬さが、今日は不思議と落ち着いた。


「……リディア」


 初めて聞いたわけではないはずなのに、自分の名前がまったく違う音に聞こえた。


 リディアは瞬きをした。


 レイフォード自身も、口にしてから動きを止めている。


「今……」


「すまない」


「なぜ謝るんですか」


「いや」


 手は離れなかった。


 リディアは胸の奥で何度もその呼び方を繰り返してから、少しだけ指を握り返した。


「もう一度、呼んでください」


 レイフォードの目がわずかに細くなる。


 今度は迷わなかった。


「リディア」


 胸の内側が、ゆっくり熱くなる。


 なら、自分も一つだけ変えてみたいと思った。


「……レイフォード」


 呼んだ瞬間、彼の指に力が入った。


 昨夜知ったもう一つの名前ではなく、自分がこれまでずっと知ってきた名前だった。


 レイフォードは何も言わず、ほんの少し顔を伏せた。


 耳のあたりがわずかに赤い。


 それを見つけてしまい、リディアも急に視線の置き場所に困った。


 廊下から足音が近づいてきたところで、二人は同時に手を離した。


 扉が開き、オーウェンが顔を出す。


「そろそろ出るぞ。準備は――」


 途中で言葉が止まった。


 リディアは髪飾りをつけ直しているところで、レイフォードは何でもなかったような顔で剣帯を確かめ

ている。


 オーウェンは二人を順に見たものの、何も聞かなかった。


「……準備は?」


「できています」


 リディアが答えると、レイフォードも頷いた。


 資料室を出る前、リディアは机の上に置いていた術式の写しを持ち上げた。


 その端をレイフォードが反対側から持つ。


「現地では、俺から離れるな」


 以前と同じ言葉だった。


 けれど、続きが違った。


「俺も、勝手には動かない」


 リディアは紙を持ったまま、彼を見る。


「約束ですよ、レイフォード」


「ああ」


 今度は、その名前を聞いてもレイフォードの足は止まらなかった。

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