第62話 フォボスの名
約束した夜、レイフォードがリディアを案内したのは、以前一度だけ入ったことのある私室だった。
扉が開いた瞬間、壁に掛けられた肖像画が目に入る。
明るい髪を結い、こちらをまっすぐ見返している女性――エルシー・アシュグレイ。
以前はその肖像画の近くに、正体のわからない古びたバッジが置かれていた。
今、そのバッジはレイフォードの手の中にあった。
「捜索、お疲れさまでした」
「大したことはしていない。今日は空振りだった」
レイフォードは外套を椅子へ掛けた。制服の肩にはうっすらと埃が残り、いつもきっちり留められている襟元も少しだけ緩んでいる。
朝から動き続けていたのだろう。
「少し休んでからでも」
「いや。今のほうがいい」
そう言いながら、レイフォードは肖像画の前まで歩いた。
バッジを元の場所へ戻すでもなく、机の端へ置く。
金属が木に触れる小さな音がした。
リディアも向かいの椅子へ腰を下ろしたが、レイフォードは座らなかった。窓際まで行きかけ、途中で引き返してから、ようやく机の反対側に立つ。
「昨日、姉の話をすると言ったな」
「はい」
「その前に、一つ話しておきたい」
レイフォードの指先が、机に置いたバッジの縁へ触れた。
「俺には、今は使っていない洗礼名がある」
リディアは黙って待った。
窓の外では風が木の枝を揺らしていた。ときおり葉が擦れる音がするだけで、王宮の中とは思えないほど静かだった。
「フォボス・アシュグレイ。それが、俺に与えられた名だ」
聞いたことのない響きだった。
「フォボス……」
口に出してみると、レイフォードの目がわずかに動いた。
長く誰にも呼ばせていなかった名前なのだと、その反応だけでわかる。
「アレスに連なる、恐怖を司る古い神の名だ。」
そこで彼は少し言葉を切った。
「子どもの頃は、家ではそちらで呼ばれていた。だが二十年前のあと、やめてもらった。それからはレイフォードだけを使っている」
リディアの視線が、自然と肖像画へ向かった。
「銀翼事件があったあと、ですか」
「ああ」
レイフォードも同じ肖像画を見る。
以前、エルシーについて尋ねたときのことを思い出した。
姉は剣が得意だった。
そこまで話したところで、彼は突然口を閉ざし、仕事へ戻った。
あのとき途切れた話が、今夜ようやくその先へ進もうとしている。
「姉がアデル殿と関わっていたことは、俺も知らなかった。あのバッジの意味がわかるまでは」
レイフォードが机の上のバッジを裏返した。
使い込まれて丸くなった縁が、灯りを鈍く返す。
「家では、姉は銀翼事件の任務中に亡くなったとだけ聞かされていた。何の任務だったのか尋ねても、誰も答えなかった」
「では、あの日まで……」
「姉がなぜあそこにいたのかは、知らなかった」
返却日のない発行記録。
アデルの名で発行された連絡章。
クロノス家の計画を途中で止めたという、二十年前の記録。
ここ数日で見つかったものをつなげれば、エルシーが何をしていたのかも、以前よりずっと輪郭を持って見えてくる。
レイフォードの親指が、バッジの裏側をゆっくりとなぞった。
「ただ、死んだときのことは覚えている」
それまでより声が低くなった。
「爆発が起きたとき、俺も近くにいた。何が起きているのかもわからなかったし、逃げる場所もわからなかった。姉が俺を見つけて、外へ出そうとした」
話す速度が少しずつ遅くなる。
リディアは動かなかった。
「二度目の衝撃が来る直前、突き飛ばされた。起き上がったときには、姉のいた場所が崩れていた」
レイフォードの手がバッジから離れた。
そのまま机の端を掴み、しばらく指を動かさなかった。
「俺は助かったが、姉は助からなかった」
窓の外で、また枝が揺れた。
「ずっと考えていた。あのとき俺が動けていれば、もっと早く危険に気づいていれば、姉は俺を助けるために戻らずに済んだんじゃないかと」
リディアはすぐには返さなかった。
目の前にいる人へ「あなたのせいではない」と言うのは簡単だった。
きっとレイフォード自身も、何度もそう言われてきたのだろう。
だから、別のことを尋ねた。
「エルシー様は、隊長を見つけたとき、迷っていましたか」
レイフォードが顔を上げた。
「……いや」
「逃げるように言われたんですか?」
「ああ。俺が聞かなかったから、最後は無理やり押し出された」
そこまで答えてから、レイフォードは黙った。
リディアは肖像画を見る。
剣を持つ女性の姿は堂々としていて、弟を前にしたときにどんな顔をしていたのかは想像できない。
「では、エルシー様が今ここにいらしたら、隊長に何と言うでしょうね」
レイフォードの眉がわずかに寄った。
「何が言いたい」
「せっかく助けたのに、二十年も自分を責めている弟を見たら……私なら、少し怒ると思います」
一瞬、レイフォードの表情から力が抜けた。
「お前が?」
「はい。かなり」
「想像がつかないな」
「失礼ですね。私だって怒ります」
思いがけず普通の調子で返され、リディアの口元も少し緩んだ。
レイフォードは肖像画へ視線を戻したまま、息を吐いた。
「姉も、たぶん怒る」
声に混じったものは、笑いというには小さかった。
それでも今夜初めて、彼の肩からわずかに力が抜けた。
しばらくして、レイフォードは椅子を引いた。
ようやく向かいに腰を下ろす。
「事件のあと、フォボスと呼ばれるたびに、あの日を思い出した」
机の上で手を組んだものの、すぐにほどく。
「恐怖を司る名だと、小さい頃から聞かされていた。だから余計に嫌になったんだと思う。怖がったから何もできなかった。姉を死なせた。そんなふうに、勝手につなげていた」
レイフォードはそこで一度、自分の手を見た。
「何も気にしない顔をしているほうが楽だった。余計なことを考えずに済むからな」
リディアの頭に、これまで何度も見てきた彼の姿が浮かんだ。
誰に何を言われても表情を変えず、必要なことだけを口にする。社交界では「氷の騎士」と呼ばれ、その呼び名にも特に反応しなかった。
けれど、紅茶を置いていったことを問い詰められたときは、妙に目を逸らした。
怪我をしたリディアの手を確かめるときは、必要以上に時間をかけた。
昨日もそうだった。
「昨日、包みが光ったとき」
レイフォードの声に、リディアは顔を上げた。
「頭では、二十年前とは何もかも違うとわかっていた。それでも、あの光を見た瞬間だけは駄目だった」
机の下で、革手袋が小さく軋む。
「また間に合わないと思った」
リディアの胸の奥で、何かが強く縮んだ。
昨日、机と自分の間へ入ってきた背中を思い出す。
あのときのレイフォードは、包みが何なのか確かめるより先に彼女を遠ざけていた。
「だから、今日話してくださったんですか」
「それもある」
レイフォードはすぐに答えなかった。
しばらくバッジを見たあと、ようやくリディアへ目を戻す。
「明日、何が起きるかわからない。その前に、お前だけには、俺がずっと隠してきたことを知っておいてほしかった」
静かな声だった。
けれど、最後のところだけ少し言いにくそうに途切れた。
リディアは膝の上で重ねていた手をほどいた。
「フォボスという名前を、今でも嫌いですか」
レイフォードは予想していなかったらしく、すぐには答えなかった。
「……わからない」
やがて出てきた返事に、リディアは小さく頷いた。
「それなら、今決めなくてもいいと思います」
「簡単に言うな」
「簡単なことしか言っていませんから」
レイフォードが訝しそうにこちらを見る。
「その名前を聞いても、私が知っている隊長が別の人になるわけではありません。レイフォードという名前で仕事をして、紅茶を置いていって、人の残業にまで付き合っていたのも隊長ですから」
最後の一つを付け加えると、レイフォードの眉間にわずかに皺が寄った。
「それを今持ち出すのか」
「大事なことなので」
「忘れてくれて構わない」
「無理です」
そこで会話が切れると、窓の外から聞こえていた風の音が急に近くなった気がした。
レイフォードは呆れたように目を伏せたものの、先ほどまでの硬さはもう残っていなかった。
リディアは席を立つ前に、もう一度エルシーの肖像画を見上げた。
「隊長」
「何だ」
「明日が終わったら、今度はお姉様のことを、もう少し聞かせてください」
レイフォードも肖像画を見た。
以前、途中で終わってしまった話の続きを思い出したのかもしれない。
「剣がお上手だったところからでいいです」
少し間があってから、レイフォードは頷いた。




