第61話 再び忍び寄る影
翌朝、記録局へ入ったリディアは、自分の机の横に見慣れない椅子が置かれているのに気づいた。
その背には濃紺の外套が掛けられ、机の端には騎士団の書類がきれいに揃えてある。持ち主を探すまでもなく、窓際でオーウェンと話していたレイフォードがこちらへ戻ってきた。
「おはようございます。……ずいぶん持ってきましたね」
リディアが書類の束へ目をやると、レイフォードも一度そちらを見た。
「部隊を空けても処理できるものだけだ。急ぎは副官へ回してある」
「そこまでして、こちらに?」
「昨日の紙を見たあとで、普段どおりに戻るほうが無理がある」
淡々とした口調だった。
リディアは鞄を椅子の背へ掛けながら、昨日、旧貴族街で回収された資料を思い出した。自分の名の下に残されていた指示は、夜が明けても頭から消えていない。
それでも、隣に増えた椅子を見ていると、胸の奥に張りついていたものが少しだけ緩んだ。
「では、お仕事の邪魔はしませんから」
「それはこっちの台詞だ」
「私はいつもの席にいるだけです」
レイフォードが何か返そうとしたところへ、書類を抱えたミラがやってきた。
昨日までなかった椅子と、そこに積まれた騎士団の書類を見て、足を止める。
「……なるほど」
「何がですか」
「何も言ってないわよ」
ミラは楽しそうに笑いながら、持っていた書類をリディアの机へ置いた。
「午前中はこれをお願い。あと、隊長。ヴァンスさんが集中し始めると昼を忘れるので、隣にいるなら声かけてくださいね」
「ミラ先輩」
「頼まれた」
レイフォードが真顔で答えるものだから、ミラはとうとう声を立てて笑った。
リディアは何も言わず、届いたばかりの書類を自分の前へ引き寄せた。
隣でも紙をめくる音が始まる。
いつもの記録局に、ひとつだけ違う音が混ざっていた。
午後を少し回った頃、若い局員が細長い包みを抱えてやってきた。
「ヴァンス文官、こちらをお願いします。旧貴族街から出た追加資料だそうです」
厚手の紙で包まれ、紐の中央には魔導封印が施されている。
リディアが添え書きを受け取ろうとしたとき、隣で椅子が引かれた。
「誰が持ってきた?」
レイフォードの声に、局員が手を止める。
「正面受付からです。騎士団の方が届けたと聞きました」
「所属と名前は?」
「そこまでは……受付で確認していると思います」
レイフォードは包みへ目を落としたまま、リディアの机の前へ回った。
「昨日、あの屋敷から回収したものは、運び出す前に全部確認した。少なくとも、これはその中にはなかった」
若い局員の顔から血の気が引いた。
リディアも包みへ伸ばしかけていた手を戻す。
「置いてください。触らなくて大丈夫です」
局員がそっと机へ置くと、レイフォードはそのまま受付へ戻るようには言わなかった。
「ここにいてくれ。誰が受け取ったのかは、あとで一緒に確認する」
局員が頷いたのを見届け、リディアは少し身をかがめた。
包装そのものに不自然なところはない。
紐も、紙も、記録局へ資料を送るときによく見るものだった。
だからこそ、中央の封印だけが気になった。
「少し離れたまま見ます」
そう告げてから、髪飾りへ指を添える。
ひやりとした金属の感触を確かめ、封印へ意識を絞った。
表面に残る魔力は弱い。
中心へ流れ込む線を追っていくと、最後のところでわずかに向きが変わった。
外へ閉じるはずの流れが、一度だけ内側へ返っている。
見覚えがある。
「アシュグレイ隊長」
レイフォードがすぐそばへ来た。
「昨日の封印と同じです。この最後のところが――」
リディアが位置を示そうと手を上げた、そのときだった。
紐の下に隠れていた細い文字が、淡く光った。
紙の隙間から焦げたような匂いが漏れてくる。
椅子の背に強い力がかかり、リディアの身体が机から遠ざかった。目の前には、いつの間にかレイフォ
ードの背中がある。
「そこにいろ」
彼が腰の剣へ手をかけるのと、オーウェンが机から立ち上がるのはほとんど同時だった。
「燃えるなら床に落とすな。こっちを使え!」
オーウェンが足元にあった金属製の書類盆を蹴り出す。
レイフォードは剣を抜かず、鞘の先で包みを押した。
机の縁から滑り落ちた包みが金属盆へ収まった直後、内側から紙を絞り上げるような音が響いた。
表面が大きくへこみ、白かった紙の端がみるみる黒く縮れていく。
細い煙が上がった。
鼻を刺す焦げ臭さの中で、リディアはようやく息を吐いた。いつの間にか握っていた机の縁から手を離すと、掌に爪の跡が残っている。
記録局の中は、普段とは別の場所のように静まり返っていた。
「誰も近づくな」
オーウェンは盆の中を確かめてから、包みを運んできた局員へ顔を向けた。
「受付へ戻るならミラと一緒に行け。持ってきた男を見た者がいるはずだ。服装でも声でも、覚えていることだけでいい」
「私が付き添います」
ミラがすぐ局員の隣へ回り、青ざめた肩を軽く押した。
「急がなくていいから、順番に思い出しましょう」
二人が出ていくと、室内に残っていた局員たちもオーウェンの指示で少しずつ持ち場へ戻った。
仕事を再開する紙の音は聞こえるものの、誰も普段のようには話さない。
リディアは少し離れたところから、金属盆に残った封印を見つめた。
黒く崩れた中央部分に、まだ細い線が残っている。
「局長。これ、開封に反応したわけではありません」
オーウェンが眼鏡を直しながら近づいてきた。
「鑑定したときか?」
「はい。魔力を流してから文字が浮きました。運んできた方には何も起きていないので、たぶん普通に触っただけでは動かなかったんだと思います」
机に残された添え書きには、はっきりとリディアの名がある。
その下には「鑑定依頼」の文字が記されていた。
オーウェンも同じところを読んだらしく、しばらく紙から目を上げなかった。
「受付の手順も洗い直す。しばらく外から届く荷物は、誰宛てでも先に俺へ回せ」
低い声で指示を出してから、彼は包みを運び込んだ経路を確認するため部屋の外へ出ていった。
リディアは焦げた匂いの残る机のそばに立ったまま、自分の指先を見た。
そこへ別の手が伸びてきた。
「見せてくれ」
レイフォードだった。
「触ってはいません」
「わかっている。それでも確認する」
差し出した手を、彼が両手で取る。
指先から掌へ視線を移し、袖口の近くまで確かめていく。いつも剣を握っている手は硬く、手袋越しでも温かかった。
傷などない。
それでもレイフォードは、右手を見終えてから左手へ移るまでに、妙に時間をかけた。
「本当に何ともありません」
リディアがもう一度言うと、手首に触れていた指がようやく離れた。
「……ああ」
顔を上げた彼と目が合う。
いつもなら何を考えているのかわからない目が、今日はすぐには逸れなかった。
リディアのほうが先に瞬きをした。
「隊長?」
「いや」
レイフォードはそれ以上続けず、金属盆のそばへ戻った。
腰の剣に置かれた手だけが、その後もしばらく動かなかった。
夕方になって、王宮から正式な書状が届いた。
旧貴族街の屋敷と、そこから繋がる場所について、近衛騎士団が捜索を進める許可が下りたという。
オーウェンから書状を受け取ったレイフォードは、署名と印章まで確かめてから静かに折り直した。
「明朝、部隊を動かす。屋敷から逃げた連中がまだ王都にいるなら、これ以上待つほうが危険だ」
「こちらは今日の包みを調べる。受付へ持ってきた男についても、今夜中にわかる範囲までは追わせる」
オーウェンが返された書状を受け取り、今度はリディアへ顔を向けた。
「お前は明日、ここに残れ。現場から資料が戻ったら、鑑定を頼むことになる」
「わかりました。先に比較できるものを揃えておきます」
返事をしたところで、レイフォードがこちらを見た。
何か言うのかと思ったが、彼は小さく頷いただけだった。
その日の仕事を終え、外へ出る頃には王宮の廊下もすっかり暗くなっていた。
記録局の扉を閉めると、窓際に立っていたレイフォードが壁から背を離した。
「帰ろう。今日は送る」
「お願いします」
並んで歩き出す。
昼間の焦げ臭さはもう残っていないはずなのに、ふとした拍子に鼻の奥へ蘇った。
そのたび、机の上で光った文字と、目の前へ滑り込んできたレイフォードの背中が一緒に浮かぶ。
隣を見ると、彼は前を向いたまま歩いていた。
普段より歩幅が狭い。
リディアが少し遅れるたびに合わせているらしく、階段へ着くまで二人の肩が離れることはなかった。
踊り場まで来たところで、レイフォードが足を止めた。
「ヴァンス文官。明日の夜、少し時間をもらえないか」
リディアも立ち止まる。
「明日ですか。捜索のあとですよね」
「ああ。何時になるかはまだ読めない。それでも、戻ったら会いたい」
仕事の相談なら、今ここで聞いてもおかしくはない。
けれどレイフォードは、腰の剣ではなく、右手の手袋の縁へ指をかけていた。同じところを一度なぞり、何も直さないまま手を下ろす。
「何のお話ですか?」
階下から、夜警の騎士たちの声がかすかに響いてきた。
レイフォードはその音が遠ざかるまで待ってから、ゆっくり口を開いた。
「姉のことだ」
リディアの手が、鞄の持ち手の上で止まった。
前に見つかった古いバッジと、台帳に並んでいた二つの名前が脳裏をよぎる。
レイフォードは彼女の返事を急かさず、ただその場に立っていた。
「……はい。待っています」
その言葉を聞いて、彼はようやく手袋から手を離した。




