第60話 クロノスの野望
旧貴族街の屋敷へ騎士団が入ったのは、まだ空が白み始める前だった。
前日にリディアが見つけた記録どおり、屋敷の地下には魔力を外へ漏らさないための設備が残されていた。ただし、中に人の姿はなかったという。
昼を過ぎた頃、記録局へ戻ってきたレイフォードは、埃にまみれた木箱をオーウェンの机へ下ろした。
「逃げたあとだった。裏口に新しい足跡が残っている。昨日までは誰かが使っていたらしい」
「一日遅かったか」
「いや」
レイフォードが箱の蓋を開けると、焦げた紙の匂いが室内へ広がった。
「全部は処分できなかったようだ」
中には、端を黒く焼いた書類や帳簿が何束も収められていた。地下の奥にある隠し部屋で見つかったものらしい。
リディアは手袋をはめ、一番上の束を取り出した。
「見てもいいですか?」
「そのために持ってきた」
最初の数枚には数字や古い家名が並んでいるだけで、すぐには意味がわからなかった。
けれど、三枚目をめくったところで、リディアは紙を持つ手を止めた。
「……これ、記録局の管理番号です」
オーウェンが椅子を寄せる。
「確かか?」
「確認します」
リディアは持ってきていた控えを開き、一つ目の番号を探した。
改ざんが見つかった契約書と一致する。
その次も、さらにその下にある番号も同じだった。
偶然とは考えにくい。
「最初から、改ざんする文書を選んでいたみたいです」
リディアが頁をレイフォードのほうへ向ける。
番号の脇には小さな印が残されていた。すでに手を加えたものには同じ符号が入り、調査が始まったあとに扱われた文書では、途中から書き込みが途切れている。
「無差別に触っていたわけじゃないのか」
「はい。何か基準があったはずです」
リディアが続く紙を探していると、オーウェンが半分ほど焼けた一枚を抜き出した。
「これじゃないか?」
そこには複数の管理番号が線で結ばれ、その先に一つの文言が記されていた。
リディアは目を細める。
「制約文書……?」
オーウェンの表情が変わった。
「その言葉をどこで?」
「ここにあります」
示された箇所を見て、オーウェンはしばらく黙った。
「昔、アデル様から聞いたことがある。危険な術式の中には、封印だけでは足りないものがあるそうだ。誰が扱えるか、どこまで使えるかを文書そのものに結びつけて、二重に縛る」
「その文書を改ざんすれば……」
口にしかけて、リディアは止めた。
「全部を変える必要はないのかもしれません。一つずつ条件を外していけば、最後には」
「封印が弱くなる」
オーウェンが続けた。
室内の空気が重くなる。
レイフォードは何も言わず、箱の中から別の束を取り出した。
今度の紙には王都ではなく、国境付近の地名がいくつも並んでいた。
リディアには馴染みのない場所だったが、レイフォードは一目見た瞬間に表情を硬くした。
「ここは、最初に密輸品を押収した場所だ」
指が次の地名へ移る。
「そのあと、この地域で別の荷が出た。騎士団はそちらにも人を回している」
「時期は?」
オーウェンに聞かれ、レイフォードが書面の日付を確認する。
リディアも自分の資料を開いた。
改ざんが増えた時期と、ほとんど重なっていた。
「王都から人を離すためだったのか」
オーウェンの声に、レイフォードはすぐには答えなかった。
「少なくとも、結果としてそうなっている」
断定を避けた言い方だったが、机の上にある紙は十分すぎるほど不自然だった。
次の束を開いたリディアは、そこに人名が書かれていることに気づいた。
最初に目に入ったのは、フェリクスの名だった。
さらに読み進めると、社交界で倒れたり、行方がわからなくなったりした人物の名前が続いている。どれも銀翼事件に関わっていた者たちだった。
名前の横には、それぞれ簡単な記録が添えられていた。すでに確認が終わっている者もいれば、本人の手元にある資料をまだ回収できていない者もいる。途中で手を止めたらしい書き込みもあった。
人の名前なのに、まるで帳簿の処理状況を記しているようだった。
リディアはしばらく頁から目を離せなかった。
「フェリクス様たちは、偶然巻き込まれたんじゃなかったんですね」
オーウェンが紙を受け取り、黙って目を通す。
「二十年前のことを知っている人間を、一人ずつ探していたらしいな」
箱の中には、まだ一冊だけ本が残っていた。
ほかの書類とは違って焼けた跡がなく、革張りの表紙には古い紋章が押されている。
レイフォードがそれを取り出した。
「これは奥の棚に隠されていた」
リディアが開くと、前半はクロノス家の来歴をまとめた家史だった。
七曜家が今の形になる以前、土曜家は封印と禁術を管理し、それを背景に強い権限を持っていたらしい。
やがて、その力を守ろうとするあまり、従う家々や分家を次々と切り捨てていった。
それに異を唱えた中心が、ゼウス家だった。
リディアの指が一度止まる。
ヴァンス家の本家にあたる家だ。
「ここまでは昔の記録ですね」
「ああ」
オーウェンも横から頁を追う。
しばらくめくっていくうちに、紙の色が少しずつ新しくなっていった。
途中から筆跡も変わっている。
古い歴史を書き写した文章ではなく、誰かが後から書き足したものだった。
リディアは自然と読む速度を落とした。
そこには、クロノス家が失ったものを再び手にするという意思が繰り返し記されていた。ただ地位を取り戻すだけではない。封印と禁術を再び土曜家の支配下へ置き、現在の七曜家の秩序そのものを覆そうとしている。
そして、その妨げになる家として、ゼウス家とその分家の名が挙げられていた。
「ヴァンス家もあります」
何重にも線を引かれた家名を見つけ、リディアは思わず声を落とした。
レイフォードの目が紙へ向く。
その頁をさらにめくると、今度は二十年前の日付が出てきた。
計画について書かれた文章の途中に大きく斜線が引かれ、その脇には一人の名が記されている。
アデル・ヴァンス。
「お祖母様……」
リディアの声が止まった。
オーウェンが身を寄せる。
その下に残されていた記述は短かった。
アデルによって計画の一部が露見し、続行が困難になったこと。銀翼事件のあと、予定していた工程を中断したこと。
「アデル様は、ここまで辿り着いていたのか」
オーウェンはそう呟いたきり、しばらく動かなかった。
リディアはもう一枚先へ進む。
二十年前に止まった計画は、そこで終わってはいなかった。
新しい紙には、現在の状況に合わせて組み直された手順が記されていた。
王宮内の文書へ手を入れながら制約を崩し、その間に国境で騒ぎを起こして騎士団を王都から離す。銀翼事件について知る者たちについても、所持している資料を確認し、必要なら先に動けない状態へ追い込む。
これまで別々の場所で追ってきた出来事が、一つの計画の中に収まっていた。
リディアは途中から、自分がほとんど息をしていなかったことに気づいた。
「……全部、最初から一緒だったんですね」
レイフォードは答えず、最後の頁をめくった。
そこに署名があった。
ユール・クロノス。
オーウェンが眼鏡越しにその名を見つめる。
「当主代理か」
「知っているんですか?」
「名前だけはな。クロノス家が表から姿を消したあとも、家そのものが絶えたわけじゃない。今、その家を預かっているのがユール・クロノスだ」
レイフォードの表情が険しくなる。
「こいつが、この計画を書いた」
「少なくとも、承認したことは間違いないだろう」
オーウェンの返事を聞きながら、リディアは家史と新しい計画書を見比べていた。
「でも……少し変です」
「何が?」
「昔の地位を取り戻したいだけなら、ここまでして封印を解く必要はないと思います」
リディアは言葉を探しながら続ける。
「この人が欲しいのは、クロノス家の名前だけじゃないんじゃないでしょうか。昔、土曜家が持っていた力そのものを戻したいように見えます」
オーウェンの視線が家史へ落ちた。
「歴史を戻したいわけじゃなく、自分の手でやり直したい……か」
その言葉に、リディアは幼い頃に読んだ神話を思い出した。
クロノスとゼウス。
かつて物語の中でしか知らなかった争いを、誰かが現実の家々に重ねようとしている。
レイフォードだけは家史ではなく、現在の計画書を見ていた。
「理由は本人に聞けばいい」
声はいつもと変わらない。
「その前に、止める」
彼らしい言葉だった。
リディアが少しだけ息をついた、そのときだった。
レイフォードが箱の底へ手を入れ、薄い紙を一枚取り出した。
「まだある」
ほかの書類に貼りついていたらしく、端が少し破れている。
レイフォードはそれを開いたまま、急に動きを止めた。
「どうしました?」
返事がない。
オーウェンが手を差し出す。
「見せろ」
紙を受け取ったオーウェンも、読んだ途端に顔を上げた。
その反応を見て、リディアの胸の奥がざわついた。
「局長?」
オーウェンは何も言わず、紙を机へ置いた。
そこには数日前の日付と、リディアの名前があった。
記録局文官、リディア・ヴァンス。
調査を続けていることも、その行動が以前より慎重になっていることも書かれている。
誰かが、今も自分を見ている。
読み進めたリディアの視線が、最後の一行で止まった。
前回の襲撃について触れたあと、次は確実に処理するよう指示が残されていた。
紙の端を持つ指に力が入る。
レイフォードが静かにそれをリディアの手から取った。
「今日は俺が送る」
「でも――」
「ヴァンス文官」
低い声で呼ばれ、リディアは言葉を止めた。
彼はもう一度紙面へ目を落とす。
「これは相談じゃない」
いつもの無表情のままなのに、紙を持つ指だけが強く折れ曲がっていた。




