第55話 魔紋の癖
夕刻を過ぎても、資料室にはまだ四人分の灯りが残っていた。
ミラは銀翼事件の関係者について現在の所在を追い、オーウェンはその横で古い職員記録をめくっている。少し離れた机にはレイフォードが座り、国境から届いたばかりの報告書に目を通していた。
リディアの前に置かれているのは、改ざんが確認された契約書と、昨日預かった黒灰色の石片だった。
石片を調べたときに感じた、ごく小さな違和感がどうしても残っている。
何かを封じるために中心へ集められた魔力が、最後の瞬間だけわずかに逆方向へ戻る。昨日は古い封印技法の特徴かもしれないと考えたが、記憶のどこかに、同じ動きを見た感覚があった。
リディアは改ざん文書を魔導灯の下へ寄せ、髪に留めた祖母の髪飾りへ意識を集中させた。
紙面に残った魔紋の輪郭が、少しずつ鮮明になる。
改ざんされた箇所を辿り、文字の終わりまで来たところで、流れていた魔力が一度だけ内側へ返った。
昨日見た石片と同じだった。
リディアはすぐには声を上げず、視線を紙面に残したまま何度か瞬きをした。思い込みで似て見えている可能性もある。いったん髪飾りから手を離し、椅子の背にもたれて目を閉じる。
「休憩?」
向かいで資料を整理していたミラが、顔を上げた。
「少しだけ。続けて見ると、自分が見たいものを見てしまいそうなので」
「それが言えるようになったなら、前より安心ね」
ミラはそう言って、手元にあった水差しをリディアのほうへ滑らせた。
余計なことまで言われそうな気配を感じて、リディアは黙って水を一口飲む。
しばらくしてから、今度は石片を布ごと手元へ寄せた。
同じ場所を、同じ手順で見る。
魔力は中心へ向かって収束し、最後にごくわずかだけ戻る。その動きは偶然似ているというには特徴的だった。
「局長。少し見ていただけますか」
声をかけると、オーウェンは読んでいた記録へ紙片を挟んで立ち上がった。
レイフォードも報告書から目を上げたが、すぐにはこちらへ来ず、オーウェンが机へ着くのを待ってから席を立つ。
「何かわかったか?」
「似ているところがあります。ただ、まだ同じものだとは言えません」
リディアは二つの資料の間へ白い紙を置き、それぞれの魔力の流れを簡単な線で書き込んだ。
「改ざんした側は、魔力を切る直前に一度だけ力を戻しています。こっちの石片も同じなんです。使っている術式は別ですけど、終わらせ方がよく似ています」
オーウェンは図を覗き込み、眉間へ深い皺を寄せた。
「魔紋そのものは?」
「系統も近いです。ただ、これだけで同じ人が使ったとは言えません。同じ系統の魔術を習った人なら、似ることはありますから」
「でも、その戻し方まで同じなのが気になる、と」
ミラが横から確認すると、リディアは頷いた。
「はい。文字を書くときの癖みたいなものです。教わった通りに書いていても、最後の払いだけ少し跳ねる人っていますよね。これも、それに近い気がします」
専門用語を並べるより、その説明のほうが伝わったらしい。
レイフォードはしばらく二つの資料を見比べたあと、自分が持ってきた報告書を開いた。
「なら、これは使えるか」
差し出された頁には、別の日に国境で押収された荷について、現地で採取された魔力の記録が添えられていた。
「石片と同じ用途のものが、もう一件見つかった。現物はまだ向こうだが、記録だけ先に送らせた」
リディアは紙を受け取り、反射的に髪飾りへ手を伸ばしかけた。
その指先が届くより先に、レイフォードの手が報告書の端を押さえた。
「今すぐ見る必要はあるか」
淡々とした声だった。
叱るような響きも、命令する調子もない。
それだけに、リディアは少し考えてから手を下ろした。
「……五分だけください。目を休めてから見ます」
「ああ。それでいい」
レイフォードはそれ以上何も言わず、報告書から手を離した。
少し前なら、「大丈夫です」と言ってそのまま鑑定を続けていたかもしれない。
リディアは水をもう一口飲み、窓の外へ視線を向けた。日が落ちた硝子には資料室の灯りが映り込み、その中でミラが黙々と紙を揃え、オーウェンが先ほどの図を読み返している。
誰も急かさなかった。
五分ほど経ってから、リディアは追加の記録へ向き直った。
現物ではないぶん魔力の輪郭は薄かったが、流れを追うには十分だった。封印の終端まで慎重に辿り、途中で一度目を休ませながら確認を重ねる。
やがて、最後の部分へ差しかかった。
中心へ集まった魔力が止まり、その直前でほんの少しだけ返っている。
リディアはそこで鑑定を解かず、もう一度だけ同じ部分を見直した。
見え方は変わらなかった。
「……局長」
呼ばれて、三人の視線が集まる。
リディアは追加の記録を机へ置き、最初に書いた図の横へ新しい線を描き足した。
「これにもあります。石片と同じで、最後に一度だけ戻っています」
オーウェンの目が細くなった。
「改ざん文書にも、国境の二件にも?」
「はい。魔紋の系統も近いです。誰がやったかまではわかりませんけど、三つとも同じ系統の技術を使っていて、しかも扱い方の癖まで重なっています」
リディアはそこで一度言葉を切り、二つの記録を見比べた。
「偶然で片づけるには、少し重なりすぎています」
レイフォードが腕を組んだ。
「なら、密輸と改ざんは別件じゃない可能性が高くなったわけだな」
「そう考えて調べる理由は、できたと思います」
「十分だ」
オーウェンは二つの資料を手元へ引き寄せた。
「報告には『同一人物』とは書かない。魔紋の系統が近く、同じ操作癖が確認されたところまでだ。それなら上へ出せる」
「お願いします」
「それとヴァンス文官。もう一件、もう一件と増やすのは禁止だ。今日はここまで」
先回りされ、リディアは口を開きかけたまま止まった。
ミラが隣で笑いを堪えている。
「何も言ってません」
「顔に書いてある」
オーウェンはそう返しながら資料をまとめ始めた。
レイフォードはそのやり取りには加わらず、開いたままになっていた石片の木箱へ布をかけ直した。留め具へ手をかける前に、一度だけリディアへ視線を向ける。
「密輸側は俺が調べる。追加が出たら、まとめて持ってくる」
「……わかりました。こちらも、改ざん文書のほうを整理しておきます」
「一人ではやるな」
以前なら、その言葉を窮屈に感じていたかもしれない。
リディアは少し間を置いたあと、ミラの机に積まれた資料へ目をやった。
「ミラ先輩に手伝ってもらいます」
「もちろん。そのためにいるんだから」
ミラがすぐに答えると、レイフォードはそれ以上何も言わなかった。
彼が木箱の留め具を閉じる間に、オーウェンは改ざん文書と国境から届いた記録を別々の束へ戻しかけ、途中で手を止めた。
少し考えたあと、二つを同じ書類盆の上へ重ねた。




