第53話 忍び寄る土曜家の影
午後から降り始めた雨は、夕刻になっても止む気配がなかった。
記録局の高い窓を細かな雨粒が絶え間なく叩き、普段なら廊下の向こうまで響く文官たちの声も、今日は湿った空気の中へ沈んでいる。リディアは被害者の家へ届いた四通の照会文を机いっぱいに並べ、ミラがまとめた閲覧記録と一件ずつ照らし合わせていた。
どの家にも、本人が倒れるか失踪したあとで、古い王宮記録の写しや覚え書きの有無を尋ねる手紙が届いている。
けれど、それを誰が送ったのかまでは、まだ辿れていなかった。
リディアが四通目の日付を一覧へ書き込んでいると、入口の近くから騎士の声が聞こえてきた。
少し遅れて、濡れた外套を脱いだレイフォードが記録局へ入ってくる。雨の中を急いできたらしく、肩にはまだ細かな雫が残っていたが、いつものようにリディアの席へまっすぐ来ることはせず、まずオーウェンの机で短く言葉を交わした。
やがて二人揃ってこちらへ来る。
「ヴァンス文官、少しいいか」
「はい。ちょうど区切りがついたところです」
「見てほしいものがある。鑑定できそうか、まず確認してもらえるか」
レイフォードが机へ置いたのは、手のひらに収まるほどの小さな木箱だった。
留め具を外すと、中には緩衝用の布に包まれた黒灰色の破片が収められている。石にも焼き物にも見えたが、表面には細い溝が何本も走り、その一部だけが鈍い光を返していた。
「国境で押収した荷の中に入っていた。魔導具を収めていた木箱の内側に、これが固定されていたらしい」
リディアはすぐには触れず、箱の縁へ身を寄せて破片を観察した。
「見られます。ただ、これだけで誰が作ったかまではわからないと思います。残っている魔力と、何に使われていたものかなら、ある程度は絞れそうです」
「それで十分だ」
レイフォードが一歩下がり、机の前を空けた。
リディアは薄い手袋をつけてから破片を布ごと持ち上げ、まず表面の溝を光へ傾けた。刻まれた線そのものは魔導文字ではない。装飾とも違い、一定の間隔で折れながら破片の縁へ続いている。
髪に留めた祖母の髪飾りへ意識を向けると、視界の奥にあった曖昧さが少しだけ薄れた。
残っている魔力は弱い。
それでも、何かを発動させるために外へ広がる流れではなく、内側へ押さえ込むような癖がある。
「……攻撃に使うものではなさそうです」
リディアは破片を元の布へ戻し、見えた線を手元の紙へ写しながら続けた。
「たぶん、中にあった魔導具の力を外へ漏らさないためのものです。ただ、今使われている封止材とは作りが違います。私もこの形は見たことがありません」
「古いものか?」
オーウェンが紙の横から覗き込む。
「その可能性はあります。古い封印の資料と比べれば、もう少しわかるかもしれません」
リディアがそう答えると、レイフォードは木箱の横へ一枚の紙を置いた。
「もう一つある。こっちも見てくれ」
騎士団の尋問記録だった。
国境で拘束された運び屋の供述が短くまとめられている。密輸品の仕入れ元について尋ねられても、その男は長く黙っていたらしい。ただ一度、荷の扱いについて話している途中で、妙な言葉を口にしている。
――土曜の印がある荷には触るな。
リディアはその一文へ視線を留めた。
「土曜……?」
「最初は、ただの符丁かと思った」
レイフォードは供述書の該当箇所へ指を置いた。
「だが、別の男も似たことを言っている。そっちは『土曜から来た荷』だった。二人続くと、さすがに無視はできない」
オーウェンの表情から、先ほどまで残っていたわずかな緩みが消えた。
「七曜家の土曜家を指しているかもしれない、と?」
「まだそこまでは言えない。密輸業者の間だけで使っている呼び名かもしれないし、誰かが家名を借りているだけかもしれない」
レイフォードはそこで言葉を切り、木箱の中の破片へ視線を落とした。
「ただ、この破片は何かを封じるために使われていた。それと同じ荷を扱う連中が『土曜』と言っている。そこは気になる」
土曜家――クロノス家。
七曜家の一角で、封印や禁術の管理に関わってきた家だった。
リディアは供述書の一文と、黒灰色の破片を交互に見た。
数日前から追っている不審な照会とは、まだ繋がらない。
社交界で被害に遭った人々とも、銀翼事件とも、今の段階では結べる根拠がない。
けれど、ずっと仕入れ元の奥が見えなかった密輸事件に、初めて具体的な家名へ繋がるかもしれない言葉が現れた。
「土曜家に関する古い技術記録なら、記録局にも残っています」
リディアは先ほど線を写した紙を見ながら、少し考えた。
「この形をそのまま探すより、古い封印や封止材の記録から当たったほうが早いと思います。似たものが残っていれば、そこで拾えるはずです」
「できそうか」
「はい。ただ、今から全部見ようとすると、たぶん見落とします。まず範囲を絞って、順番に見たほうがいいです」
レイフォードがわずかに目を上げた。
リディアは机の端に積んでいた四通の照会文へ手を添えた。
「こっちもまだ途中ですし。土曜家の名前が出たからって、全部そこに結びつけるのは危ないと思います。封印の資料は別で見て、共通するものが出てから並べたいです」
「それでいい」
レイフォードはすぐに頷いた。
「こちらも供述の裏を取る。『土曜』の一言だけで、クロノス家だと決めつける気はない」
「そのほうがいいな」
オーウェンも木箱の中をもう一度覗き込みながら、机の空いた場所へ供述書を移した。
「この破片はこっちで預かる。ヴァンス文官はミラと古い資料を当たってくれ。ただし、棚を端から全部見るなよ。まず封印と魔導具管理に絞れ」
「はい。そこから見ます」
リディアは新しい紙を一枚取り、調べる項目を書き出していった。
封止部材。
旧式の封印技法。
土曜家――クロノス家。
最後の家名まで書いたところで、横からレイフォードの手が伸び、少し離れた場所に置かれていた四通の照会文を指した。
「そっちは、まだ混ぜないほうがいい」
リディアは新しい紙と照会文との間に残った隙間へ目を落とし、ペン先を止めたまま頷いた。
「はい。今は、別で見ます」




