第51話 再び
翌朝、リディアが給湯台から戻ると、レイフォードは窓際の机で騎士団から届いた報告書を読んでいた。
以前なら自分の分だけ淹れていた紅茶を、今日は二つ用意している。リディアは何も言わず、一つを彼の書類にかからない位置へ置いた。
「昨日より少し濃くしました。隊長は、このくらいのほうが好きかと思って」
レイフォードは紙面から視線を上げ、湯気の立つカップとリディアを順に見た。
「……悪くない」
「それならよかったです」
それだけのやり取りだったが、近くで書類を整理していたミラが一度だけこちらを見た。何か言いたそうに口元を緩めたものの、リディアと目が合うと、素知らぬ顔で棚へ向き直る。
リディアも追及せず自分の席へ戻った。
窓から入る風が帳簿の端を小さく持ち上げる。向かいではレイフォードが、紅茶を一口飲んでから何事もなかったように報告書へ視線を戻していた。
昨日までと同じ記録局の朝なのに、机一つぶんの距離が以前より狭くなったように感じられた。
◆
昼を少し過ぎた頃、受付からセシリア・ロウの来訪が伝えられた。
「ロウ伯爵令嬢が?」
リディアが顔を上げると、報告を受けたオーウェンはすぐに立ち上がった。
「お前に会いたいそうだが、用件はフェリクスの件にも関係するらしい。応接室へ通してもらった。俺も行く」
セシリアは淡い色の外套を脱ぐこともなく、応接室の長椅子に座っていた。いつものような菓子箱はなく、膝の上に薄い封筒だけを置いている。
リディアが入ってくると、少しだけ表情を和らげた。
「急にごめんなさい。どうしても早く見てもらったほうがいいと思ったものがあるの」
差し出されたのは、一枚の短い書面だった。
文面は簡潔で、フェリクスが倒れる前に調べていた古い王宮記録について、写しや覚え書きがロウ家に残されていないか確認したい、と書かれている。
リディアは最後まで目を通してから、日付へ視線を戻した。
「これが届いたのは……」
「あなたが襲われる二日前よ」
セシリアは膝の上で手袋を重ね直した。
「父は、フェリクスの件について王宮側が調べているのだろうと思って、特に疑わなかったみたい。でも昨日のことを聞いて、気になったの。あなたを襲った人も、資料そのものより、あなたが持っていた写しを狙ったのでしょう?」
オーウェンが書面を受け取り、窓際へ近づけた。紙質や筆跡を確かめるように角度を変えてから、表へ戻す。
「これは調べられる。差出人だけで送り主を特定できるとは限らないが、同じ内容の照会が王宮内から正式に出されたものかどうかは確認できる。それに、ロウ家以外にも同じものが届いているなら話は変わる」
「フェリクス様が何を残したか、誰かが探している……?」
リディアが書面へ目を落とすと、オーウェンはすぐには頷かなかった。
「そこまではまだ言えん。ただ、偶然として片づけるには時期が近すぎる。昨日の封筒と一緒に考える価値はある」
襲撃者は、リディアが何を読んだかではなく、何を持ち帰ろうとしていたかを知っていた。
そしてその二日前には、別の場所でフェリクスの残した写しが探されている。
応接室の窓の外では、雲に隠れた陽が白く庭を照らし、風に揺れた枝の影が硝子の上をゆっくり横切っていた。
「持ってきてくださってありがとうございます。局長、私も確認を――」
「これは俺が預かる。お前は今やっている作業を続けろ」
オーウェンはそう答えたあと、セシリアへ向き直った。
「ロウ伯爵家で、この照会について応対した者が誰だったかも教えていただけますか。日時と受け取り方までわかれば、こちらで確認できます」
「帰ったらすぐに調べさせます。わかったことは直接こちらへ届けさせるわ」
用件が終わったはずなのに、セシリアは立ち上がらなかった。
先ほどから膝の上に置かれていた手袋の片方を、指先でゆっくり撫でている。
「それと……もう一つ、リディアには私から話しておいたほうがいいことがあるの」
声の調子が少し変わった。
オーウェンは二人を見て事情を察したのか、書面を手に応接室を出ていった。
扉が閉じても、セシリアはすぐには口を開かなかった。
「父が、アシュグレイ家との話をまた進めようとしているの」
何の話なのか、説明される前にわかった。
リディアは膝の上で重ねていた指を、少しだけ組み直した。
「以前の……縁談ですか」
「ええ。ただ、私が考えを変えたわけではないの。それだけは先に言わせて」
セシリアはまっすぐこちらを見た。
「私はもう一度、父には断ったわ。以前レイフォード様に気持ちを伝えたときにも、自分なりに答えを受け取ったつもりでいる。それを家の都合でなかったことにするつもりはないの」
以前、庭園で話したときと同じ、静かな強さがその声にはあった。
それでもリディアの指先は、いつの間にかスカートの布をわずかにつまんでいた。
「では、どうして今になって……」
「最近の王宮の状況よ。国境の件もまだ完全には落ち着いていないし、王宮内では襲撃まで起きたでしょう。父は、こういう時期だからこそ有力な家同士の結びつきを強くしておくべきだと考えているみたい」
セシリアは困ったように息をついた。
「私の意思とは別に、家同士の話としてアシュグレイ家へ打診したと聞いたわ」
カップもない小さな卓の上に、二人の間を埋めるものは何もなかった。
数日前、レイフォードから聞いた言葉が、リディアの耳の奥に蘇る。
――俺は、ヴァンス文官を失いたくない。
昨夜は、その言葉に続くものまで、少しだけわかったような気がしていた。
けれど、目の前に置かれたのは気持ちとは別の話だった。
「隊長は、このことを?」
「今回の話については、まだ直接聞いていないわ。父が先に家へ話を持っていったみたいだから」
セシリアはそこで一度言葉を切り、眉をわずかに下げた。
「噂だけが先に広がったら、きっと前と同じことになるでしょう? だから、あなたには私から言っておきたかったの」
「ありがとうございます」
リディアはそう答えたものの、自分の声が普段より少し低いことに気づいた。
セシリアは何かを言い足そうとしたようだったが、結局それ以上は踏み込まず、膝の上の手袋を揃えた。
◆
午後、記録局へ戻ってしばらくすると、アシュグレイ家の紋をつけた使者がレイフォードを訪ねてきた。
封書を受け取った彼は、その場では何も言わなかった。
ただ一度だけ文面へ目を走らせると、いつも机の端へ無造作に置く手紙を、今日は二つ折りにして外套の内側へしまった。
「本邸からですか」
近くにいたミラが何気なく尋ねる。
「ああ。今夜、顔を出すようにとのことだ」
レイフォードはオーウェンと短く言葉を交わし、今夜だけ護衛を別の騎士へ引き継ぐ手配を始めた。
リディアは手元の記録へ視線を戻したものの、同じ行を二度読んだところでペン先が止まった。
そこへ、応接室から戻ったオーウェンが一枚の紙を持ってきた。
「リディア。さっきロウ伯爵令嬢が持ってきた照会だが、ひとつ確認できた」
声に反応して顔を上げると、オーウェンは書面を机へ置いた。
「少なくとも、記録局から正式に出した照会じゃない。それと、他の被害者の家にも似たものが届いていないか確認する。フェリクスだけを狙った問い合わせなのか、それとも別の人間にも同じことをしているのか、まずそこを分ける」
リディアは書面へ視線を落とした。
午後の光が薄くなった机の上で、その紙だけが白く浮いて見える。
少し離れたところでは、レイフォードが護衛交代の指示を書いていた。
リディアは一度だけそちらを見てから、オーウェンが置いた書面を自分の手元へ引き寄せた。
「他の方にも届いていたら、一覧にしてください。私も照合します」
オーウェンは短く頷き、その紙の上に重しを置いた。




