第50話 紅茶の理由
襲撃の翌朝、記録局へ入ったリディアは、入口をくぐったところで足をわずかに緩めた。
窓から差し込む朝の光も、机の間を行き交う文官たちの声も、昨日までと大きく変わってはいない。けれど、いつもは誰も立っていない扉脇に近衛騎士が配置され、保管庫へ続く廊下の奥にも別の制服が見えた。書棚の間を歩く職員たちも、誰かが入口を通るたび、ほんの一瞬だけそちらへ目を向けている。
袖の内側では、昨夜掴まれた手首が紙束の重みに合わせて鈍く疼いていた。
痣は昨日より濃くなっているものの、袖を下ろしていれば外からは見えない。リディアはそこへ触れそうになった指を止め、自分の机へ持っていた書類を置いた。
「ヴァンス文官。来たら局長室へ」
すぐにオーウェンから声がかかった。
局長室へ入ると、すでにミラとレイフォードが揃っていた。
机の中央には、昨日リディアが持っていた封筒が置かれている。端には襲われた際についた皺が残っており、昨夜の出来事がそこだけ切り取られて残っているようだった。
窓際に立つレイフォードは、その封筒へ視線を落としていた。リディアが入ってきた気配に顔を上げると、最初に見たのは顔ではなく、袖に隠れた手首だった。
何も言わないまま視線だけが戻る。
それを見なかったことにして、リディアはミラの隣へ座った。
「昨日の襲撃について、騎士団と状況を整理した」
オーウェンが封筒を指先で押さえた。
「相手が偶然ヴァンス文官を見つけて襲ったとは考えにくい。金品にも髪飾りにも目を向けず、最初からこれを狙った。間違いないな?」
「はい。押さえられたあと、すぐに『その封筒を置け』と言われました。どこに持っているかもわかっていたように見えました」
「昨日、ヴァンス文官が何を調べていたか知っていた人間は多くない。ただ、保管庫へ向かうところを見られていた可能性もあるし、戻るまで後をつけられていた可能性もある。今の段階で、記録局の中から情報が漏れたと決めるのは早い」
「それでも、こちらの動きを見ている人間がいる可能性は高い」
レイフォードがそう言うと、オーウェンは短く頷いた。
「少なくとも、それを前提に動いたほうがいい。今日から調査対象について話す相手は絞る。何か見つけても、その場で次まで追わず、一度俺に持ち帰れ。保管庫へ入る場合も、必ず誰かと一緒に行け」
「わかりました」
リディアは机の上の封筒を見た。
昨日までなら、一度手にした手がかりを途中で止めることにもどかしさを感じていたかもしれない。けれど今は、こちらが一つ先へ進むたび、向こう側でも何かが動いているという事実のほうが重かった。
「昨日確認した資料は、俺とミラでもう一度見る。ヴァンス文官は別の記録を進めろ。同じ場所ばかり追えば、それだけ動きを読まれやすくなる」
オーウェンの指示に頷いたところで、隣からミラの視線を感じた。
「それから、今日は無理しないこと」
「仕事には支障ありません」
「仕事ができるかじゃなくて、痛むかどうかを聞いているのよ」
返事に詰まり、リディアは袖口を指先で整えた。
「……少しだけです」
向かいにいたレイフォードが、それを聞いて初めて腕を組み直した。
何も言われなかったことが、かえって居心地悪く感じられて、リディアは早々に視線を封筒へ戻した。
◆
夕刻を過ぎる頃には、記録局に残る職員も少なくなっていた。
西日の名残が高い窓に淡く残り、書棚の影が床へ細長く伸びている。遠くでは引き出しを閉める音や、紙束を整える乾いた音が時折響いたが、それも一つずつ途切れていった。
リディアはその日任された資料をまとめ、最後の一枚へ番号を書き込んだ。
ペンを置いたところで、隣から陶器の触れ合う小さな音が聞こえた。
顔を向けると、レイフォードが卓上のポットから紅茶を注いでいる。白い湯気が細く立ち上がり、乾いた紙とインクの匂いが漂う資料室へ、柔らかな茶葉の香りがゆっくり混じっていった。
「今日はここまでにしろ」
「あと、この束だけ整えたら終わります」
「それを三十分前にも聞いた」
図星を指され、リディアは書類へ伸ばしかけた手を引いた。
レイフォードが机の右手側へ置いたカップを持ち上げると、熱を含んだ磁器が指先に触れる。片手では少し熱すぎて、自然ともう片方の手も添える形になった。掌へじんわりと温度が広がり、朝から無意識に力の入っていた指が少しずつほどけていく。
そのとき、湯気と一緒に鼻先へ届いた香りに、リディアはふと目を落とした。
少し渋みがあり、その奥にわずかな甘さを含んだ香り。
何度も嗅いだことがある。
まだレイフォードと言葉を交わすことすら珍しかった頃、夜遅くまで一人で仕事をしていると、いつの間にか机の端へ置かれていた紅茶と同じだった。
「隊長。この紅茶……最初の頃に、私の机に置かれていたものと同じですよね」
向かいで書類を閉じていたレイフォードの指が、そのまま紙の端で止まった。
すぐには答えず、少しだけ視線を逸らしてから口を開く。
「ああ。同じだ」
「やっぱり」
リディアはカップを机へ戻した。
「ずっと誰が置いているのか気になっていたんです。ミラ先輩にも聞きましたし、局長かもしれないと一度だけ考えたこともありました」
「それはないだろう」
「私もすぐにそう思いました」
思わず笑うと、レイフォードの口元にもわずかな変化が浮かんだ。
ほんの一瞬だったが、最近はそういう小さな表情を見逃さなくなっている。
「では、最初から隊長だったんですね」
「ああ」
「どうして黙っていたんですか?」
「言うほどのことでもないと思っていた」
いかにも彼らしい答えだった。
リディアはもう一度カップを手に取り、今度は一口だけ飲んだ。舌へ伝わる熱のあとから香りが鼻へ抜ける。何度も飲んできた味なのに、差出人を知ってしまうと、同じ紅茶とは思えないほど印象が違っていた。
「どうして、この茶葉だったんですか?」
問いかけた瞬間、レイフォードの表情がほんの少し変わった。
先ほどまで緩んでいた目元が静まり、視線が自分のカップへ落ちる。窓の外では最後の光が消えかけ、室内には魔導灯の淡い光だけが残り始めていた。
「姉が好きだった茶葉だ」
「エルシー様が?」
「ああ。昔、俺が遅くまで勉強や訓練をしていると、よくこれを淹れていた。休めと言っても聞かないなら、せめて飲んでいる間くらいは手を止めろ、と」
その頃の光景を思い出しているのか、最後の言葉だけが少し柔らかかった。
リディアの脳裏には、以前レイフォードの私室で見た肖像画が浮かんだ。
静かな笑みを浮かべていた女性。
「最初にヴァンス文官を見たときも、夜中まで一人で仕事をしていた」
レイフォードはカップの縁へ指を添えながら続けた。
「机に向かったまま何時間も動かないし、声をかけても、あと少しだと言って続けそうだった。姉も昔、同じようなところがあったから……この茶葉なら、一度くらい手を止めるかと思った」
「だから、紅茶を置いてくださったんですね」
「ああ」
そこで言葉を切ったレイフォードは、何かを確かめるように一度だけカップへ視線を落としたあと、静かに付け加えた。
「最初は、それだけだった」
リディアは、その言葉に含まれたわずかな違いを拾うように顔を上げた。向かいに座るレイフォードもすでにこちらを見ていて、湯気の向こうで視線が重なる。
けれど、彼は続きを口にしなかった。
リディアもまた、何を聞けばいいのかわからないまま、指先へ伝わる陶器の温度を確かめるようにカップを持ち直した。
数日前、医務室で聞いた声がふと蘇る。
――俺は、ヴァンス文官を失いたくない。
あの言葉と、今の「最初は」という言葉を並べれば、聞かなくてもわかることがある気がした。
それでも、リディアはその先へ踏み込まず、少し冷めた紅茶へ口をつけた。
「……この紅茶、好きです」
レイフォードの眉がわずかに動いた。
「前から?」
「はい。誰が置いてくれたのかわからなかった頃から、これがあると一度だけ手を止めようと思えました」
彼は何も答えなかった。
ただ、先ほどまでカップの取っ手に掛かっていた指から、少しだけ力が抜けた。
リディアが残りを飲み終える頃、レイフォードはポットを持ち上げ、空になりかけたカップへ視線を向けた。
「もう一杯飲むか」
「……お願いします」
リディアが差し出したカップへ、新しい紅茶が静かに注がれていく。
湯気とともに、同じ香りがもう一度二人の間へ広がった。




