第49話 決壊
医務室には、薬草を煮出したような匂いが薄く残っていた。窓の外では夜番の灯りが揺れ、時折、廊下を行き交う騎士たちの足音が近づいては遠ざかっていく。
医官はリディアの手首を慎重に確かめ、冷やした布を巻き直した。骨や筋に異常はなく、強く掴まれた痕が残っているだけだという説明を聞いても、レイフォードは壁際に立ったまま動かなかった。
「明日にはもう少し色が濃くなるかもしれませんが、腫れが増えなければ問題ありません。今夜はできるだけ手を使わず、早く休んでください」
「ありがとうございます」
リディアが袖を下ろす。その仕草を見届けても、腰の剣に添えたレイフォードの手は離れなかった。
襲撃者を追わなかった判断に迷いはない。あの場でリディアを残して走るという選択肢は、最初から存在しなかった。
それでも、壁際へ押し込まれていた彼女の姿が頭から消えない。短剣の光があと少し近ければ、角を曲がるのが一呼吸遅ければ――考えるたびに、掌の内側へ爪が食い込んだ。
扉が開き、オーウェンが入ってきた。手には騎士団から回ってきた報告書がある。
「侵入者はまだ見つかっていない。今夜は出入口を増員して見張らせる。狙われた封筒も、関連資料と一緒にこちらで預かることにした」
「お願いします。あの人、最初から封筒を取ろうとしていました。中身まで知っていたかはわかりませんけど、私が何かを持っていることは知っていたと思います」
話すリディアの声は落ち着いていたが、布を巻かれた手首をもう片方の手で包んでいる。オーウェンもそこへ目をやり、今夜の調査は打ち切ると告げた。
「続きは明日だ。今は休め。こちらでも、誰が今日の動きを知り得たか確認する」
リディアは一瞬だけ口を開きかけたものの、反論はしなかった。
オーウェンが出ていき、医官も薬棚の向こうへ下がると、室内には二人だけが残った。卓上の小さな時計が針を刻む音が、妙にはっきり聞こえる。
「隊長、さっき……あの人を追いませんでしたよね。隊長なら、追いつけたんじゃないかと思って」
責める声音ではなかった。
レイフォードはしばらく答えず、灯りの下に置かれたリディアの手へ目を落とした。
「追いつけたかもしれない。だが、追う気はなかった。あの状況でヴァンス文官を一人残すつもりはない」
「私は怪我もしていませんでしたし、周りにも人がいました。だから、てっきり――」
「そういう話じゃない」
思ったより強い声が出た。
リディアが目を見開き、レイフォード自身もそこで口を閉じる。いつもなら言い方を直し、必要な説明だけを残して終わらせるところだったが、今夜はうまく戻せなかった。
窓の隙間から入った風が、机に置かれた診療記録の端を揺らしている。白い布の下に隠れた手首だけが、灯りの中でひどく目についた。
「無事だった。結果だけ見れば、何も起きなかったのと大差ないのかもしれない。俺が追跡より護衛を優先したのも、間違った判断ではない。頭ではわかっている」
言葉を選んでいるうちに、かえってあの瞬間が鮮明になった。
短剣の切っ先。壁際へ押し込まれた細い肩。床へ落ちた帳簿の音。
剣を抜いた手は迷わなかったのに、すべてが終わってから、握った指だけがいつまでも強張っていた。
「それでも、あの角を曲がってヴァンス文官を見つけたとき、俺は……何も考えられなかった」
途切れた声を、リディアは急かさなかった。
レイフォードは腰の剣から手を離し、強く握った跡の残る掌を一度だけ見た。
「怖かったんだと思う」
口にしてみると、それは自分の声ではないように聞こえた。
戦場でも、国境でも、恐怖を知らなかったわけではない。ただ、それはいつも次に何をすべきか決めるためのものだった。今夜のそれは違う。考えるより先に、失うかもしれないという一点だけが身体を掴んでいた。
リディアは何も言わず、巻かれた布へ視線を落とした。
しばらくして、指先で包帯の端を整えながら口を開く。
「昨日、私は一人で進まないと約束しました。今日だって、その約束を破ったわけではありません。隊長が一緒にいてくださったから、保管庫へ行けたし、あの資料も確認できました」
そこで一度、指が止まった。
「だから……今回のことで、調べるのをやめるつもりはありません」
レイフォードは眉を寄せた。
「止めても行くんだろうな」
「無茶はしません。でも、やめません。今度も、ちゃんと誰かに頼ります」
迷いのない声だった。
危険から遠ざけるだけなら簡単だ。資料に触れさせず、保管庫にも行かせず、誰か別の人間へ調査を任せればいい。
だが、それを選べば、今度はレイフォード自身が彼女の進む道を塞ぐことになる。
昨日までなら、それでも守るためだと言えたのかもしれない。
今は、その言葉だけでは足りなかった。
「……なら、俺が守る。調べるなとは言わない。その代わり、今まで以上に俺の側を離れるな。どこへ行くにも知らせてくれ。面倒でも、遠回りでも構わない」
リディアがゆっくり顔を上げた。
その視線を受けた瞬間、胸の奥に押し戻してきたものが、もう元の場所には収まらないことだけがわかった。
「任務だから、では足りない」
喉の奥がひどく乾いていた。
それでも、今度は言葉を止めなかった。
「俺は、ヴァンス文官を失いたくない」
卓上の時計が、一つ音を刻んだ。
口にしてから取り繕う言葉を探したが、何も浮かばなかった。護衛だからでも、事件の鍵だからでも、それでは説明にならない。
リディアはしばらくこちらを見ていた。
驚いたようにわずかに開いていた唇が閉じ、やがて包帯の端へそっと指が添えられる。
「……はい」
それ以上の返事はなかった。
レイフォードも求めなかった。ここで何かを重ねれば、今ようやく口から落ちた言葉まで、いつもの理屈の中へ押し戻してしまいそうだった。
机の上では、医官が置いていった冷却用の布から小さな雫が落ち、白い受け皿の縁を濡らしていた。
リディアの指はまだ包帯の端に触れたままだった。
レイフォードも、いつの間にか握り込んでいた右手をゆっくり開いた。




