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氷の騎士様が、なぜか私の残業にだけ付き合ってくれる件  作者: 森凛
第三部「事件と危機」

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第48話 待ち伏せ

 翌日の午後、オーウェンが古い記録を照合した結果、前日に見つけた参照先の資料がまだ局内に残っていることがわかった。


 リディアはレイフォードとともに保管庫へ入り、該当する年代の記録を一冊ずつ確かめた。目当ての頁に残っていたのは、祖母の紙片と同じ日付と、いまは使われていない古い記号だった。それだけで何かを断定できるものではなかったが、これまで別々に見えていたものが、同じ場所へ少しずつ寄ってきている。


 リディアは資料番号と日付、記号の形だけを控え、薄い封筒へ収めた。


「今日はここまでにします。これ以上は、局長にも見てもらってからにします」


「それでいい。鍵を返したら、そのまま戻ろう」


 レイフォードは残りの帳簿を抱え上げた。以前なら自分で持つと言い張っていたところだが、リディアは筆記具と封筒だけを手にし、彼と並んで保管庫を出た。


 石造りの廊下には、夕刻の冷えた空気が入り込んでいた。壁の灯りはまだすべて点けられておらず、窓から落ちる薄紫の光と、ところどころに灯された魔導灯が交互に床を照らしている。昼間なら職員の行き来が絶えない場所も、この時間になると足音が遠くまで響いた。


 角を一つ曲がれば、記録局へ続く中央廊下に出る。


 その手前で、レイフォードの歩みがわずかに遅くなった。


「どうしました?」


「……いや」


 返事をしながらも、彼の視線は右手の脇廊下へ向いたままだった。リディアもつられてそちらを見ると、普段は閉じている扉が、指一本分ほど開いている。


 風でも入ったのだろうかと思った瞬間、背後で何かが床へ落ちた。乾いた音に振り返ったリディアの肩を、横から強い力が引く。


 体勢を崩したまま壁際へ押し込まれ、息が喉につかえた。反射的に声を上げようとしたところへ布越しの手が伸びたが、顔を背けたため口元までは届かなかった。


「その封筒を置け」


 耳の近くで落とされた声は低く、男とも女とも判別しづらいほど抑えられていた。


 リディアは胸元へ抱え込んだ封筒に、相手の指が迷いなく伸びてくるのを見た。財布でも髪飾りでもなく、最初からこれを狙っている。


 封筒を抱えたまま腕を引くと、相手は苛立ったように距離を詰めた。


「離してください」


 フードの影で顔は見えず、肩から下げた外套の裾だけが床を擦る。その奥で何か硬いものが光ったところで、リディアは壁へ肩を押しつけ、できるだけ相手との距離を取ろうとした。


 次の瞬間、その手首が大きく弾かれた。


 金属のぶつかる鋭い音が廊下に走り、リディアのすぐ目の前へ剣身が滑り込む。レイフォードは抱えていた帳簿を床へ落としたまま二人の間に入り、襲撃者が抜いた短剣を押し返していた。


「下がれ、ヴァンス文官」


 低い声に押されるように、リディアは壁へ手をついて数歩退いた。膝にうまく力が入らず、靴底が石床を擦る。


 襲撃者はレイフォードと打ち合うつもりはなかったらしい。一度刃を受けただけで身を翻し、開いていた脇の扉へ飛び込んだ。


 レイフォードが追いかけようと踏み出したところで、襲撃者の手から短剣が落ちた。先ほど弾かれた衝撃で握りが緩んでいたらしく、刃先が石を打って細い音を立てながら転がる。


「隊長、私は大丈夫です。追って――」


 言い終える前に、脇廊下の向こうから複数の足音が聞こえた。レイフォードは一瞬だけそちらを見たあと、追跡ではなくリディアの前へ戻り、肩と腕を目で確かめてから手首に触れた。


「ここは?」


「少し掴まれただけです。怪我は……」


 袖をめくると、手首に赤い指の跡が残っていた。血は出ていない。


 レイフォードの指がその跡のすぐ下で止まる。触れている力は強くないのに、しばらく離れなかった。


 ほどなく、物音を聞きつけた夜番の職員と騎士が角を曲がってきた。レイフォードはようやく手を離し、襲撃者が消えた廊下を示した。


「侵入者が一人いる。顔は確認できていない。両端の出口を閉じて、二人一組で探せ。そこに落ちている短剣には触るな」


 指示を受けた騎士たちが散っていくと、廊下には落ちた帳簿と、倒れた筆記具だけが残った。リディアは壁から背を離し、足元に転がった紙を拾おうとしたが、指先が思うように動かない。


 レイフォードが先に屈み、散らばったものをまとめた。


「封筒は?」


 問われて、リディアは胸元を確かめた。皺はついているものの、中の控えは残っている。


「あります。……あの人、最初からこれを取りに来ました。私を押さえたあと、迷わず封筒へ手を伸ばしたんです」


 レイフォードの視線が封筒へ落ちた。


「中身を知っていたと思うか?」


「そこまではわかりません。でも、私が何かを持っていることは知っていたはずです。ほかのものには目も向けませんでした」


 答えている間にも、手首の赤みは少しずつ濃くなっていた。リディアが無意識に袖を戻そうとすると、レイフォードがその手を止める。


「隠すな。医務室で見てもらう」


「これくらいなら――」


「見てもらう。封筒も、今はヴァンス文官が持たないほうがいい」


 声を荒らげたわけではない。その代わり、返事を待つ様子もなかった。


 オーウェンとミラが駆けつけたのは、その直後だった。ミラはリディアの顔を見るなり足を速めたものの、手首の跡に気づくと、触れかけた手を胸元へ戻した。


「ヴァンスさん……」


「大丈夫です。転んでもいませんし、これだけです」


 リディアはそう答え、封筒をオーウェンへ差し出した。


「局長、これを先に預かってください。今日見つけた参照番号です。襲ってきた人は、これを取ろうとしていました」


 オーウェンは一瞬、封筒とリディアの手首を見比べたあと、黙って受け取った。


「今夜はもう触らない。こちらで保管する。ミラ、医務室まで一緒に――」


「俺が行く」


 レイフォードの声が重なった。


 言ってから、彼はわずかに息を置いた。


「護衛の任務中だ。俺が付き添う」


 オーウェンは何も言わず頷いた。


 記録局を出るとき、廊下の灯りはすべて点けられていた。騎士たちが行き交い、先ほどまで薄暗かった脇廊下にも白い光が満ちている。


 リディアが歩き出すと、レイフォードも隣へ並んだ。いつもの半歩ほどの距離はなく、彼の袖が触れそうな近さのまま、医務室へ続く廊下を曲がっていった。

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