第5話 父の沈黙
王宮勤めを始めてから、リディアは記録局に近い下町の一室を借りて、一人で暮らしている。実家から通うには距離があったし、何より、これ以上家族に負担をかけたくないという思いもあった。
その晩、リディアが向かったのは、いつもの下宿ではなく、王都の外れにある実家だった。数日前に届いた母からの手紙が、頭の片隅からずっと離れなかったからだ。
『また一人、通いの使用人を辞めさせることになりましたが、心配しなくていいのよ、私たちは大丈夫だから』
文面はいつも通り明るかったが、行間には隠しきれない疲れが滲んでいた気がした。仕事帰り、居ても立っても居られず、リディアは実家へと足を向けた。
ヴァンス男爵邸は、王都の外れにひっそりと佇む、こぢんまりとした屋敷だ。かつては使用人も多く抱えていたと聞くが、今では最低限の人数で切り盛りしている。
「リディア、来てくれたのね」
出迎えてくれた母は、少し痩せたように見えたが、笑顔だけは変わらなかった。
「お母様、ただいま。手紙を読んで、気になって……」
「もう、そんなことで来なくてもいいのに」
母は困ったように眉を下げながらも、リディアの手を取り、居間へと招き入れてくれた。
「最近、記録局はどう? 根を詰めすぎていないかしら」
「大丈夫です。……お母様こそ、無理してませんか」
「私は平気よ。それより、ちゃんとご飯は食べているの? この間より、少し痩せたんじゃない」
「お母様にだけは言われたくないです」
軽口を返すと、母はくすりと笑った。他愛のないやり取りが、こうして交わせることが、リディアにとっては何よりの安心だった。
「ちょっと聞きたいことがあるけど、お父様はいらっしゃる?」
「書斎よ。相変わらず根を詰めているみたいだけれど」
案内された書斎で、父は書類に囲まれていた。領地の帳簿だろうか、細かい数字がびっしりと並んでいる。父はかつて、下級とはいえ宮廷の書記官として王宮に出入りしていた時期があり、今も昔の伝手で、時折り貴族間の噂話や宮中の様子が耳に入ってくるらしかった。
「お父様、お邪魔します」
「おお、リディアか。仕事は順調か」
「はい。……あの、お父様」
少し迷ってから、リディアは机の上の帳簿にちらりと目をやった。
「お母様の手紙で知ったんですけど、また使用人を減らしたと聞きました。何か、ありましたか」
父の手が、一瞬止まった。
「……大したことじゃない。ただの、切り詰めだよ」
「でも、以前はもっと」
「リディア」
柔らかいが、それ以上聞くなという響きのある声だった。
「お前が心配することじゃない。仕事に集中しなさい」
「……はい」
いつもこうだ。家の困窮について尋ねると、父はいつも同じように言葉を濁し、話を切り上げてしまう。祖母が亡くなったころから、ヴァンス家は少しずつ、静かに、けれど確実に、暮らしぶりを縮小させてきた。
その理由を、リディアは知らない。
「それより、記録局の仕事はどうだ。何か変わったことは」
急に話題を変えられ、リディアは戸惑いながらも答えた。局内ではすでに知れ渡っている話で、上から口止めされているわけでもない。父になら話しても構わないだろうと、リディアは話を切り出した。
「実は、契約書の改ざんが見つかって。今、局内で調査をしているところです」
その瞬間、父の表情がわずかに強張った気がした。
「……改ざん、か」
「はい。魔紋の流れが不自然で」
「そうか」
父はそれだけ言うと、視線を帳簿に戻した。何かを考え込むような、それでいて、これ以上は踏み込ませたくないような、複雑な横顔だった。
「お父様?」
「いや、何でもない。……仕事、頑張りなさい」
それきり父は口を開かず、リディアもそれ以上は聞けなかった。
夕食の席では、母がいつものように、近所の噂話や庭の花の話をぽつぽつと聞かせてくれた。父は相変わらず口数が少なかったが、母の話に相槌を打つその横顔には、隠しきれない疲れがあった。
食事を終え、屋敷を出る頃には、すっかり日が暮れていた。
「また来てね、リディア。今度は、もっとゆっくりできる時に」
玄関先で見送る母の声に、少しの寂しさが滲んでいる。
「はい。……お母様も、お父様のことも、体には気をつけてください」
「あなたこそよ。一人暮らし、無理はしないで」
母はそう言うと、リディアの頬をそっと撫でた。子どものころから変わらない、温かい手のひらだった。
母に見送られながら、リディアは複雑な気持ちのまま、王都の街並みを歩いた。
父が何かを隠している。そんな気がしてならなかった。けれど、これ以上追及することもできず、もやもやとした気持ちだけが胸に残る。
◆
結局、その晩リディアが向かったのは、下宿ではなく記録局だった。
「……こんな時間まで、また残業か」
誰に言うでもなく呟き、リディアは山積みの契約書に向き合う。考えごとをするより、手を動かしていたほうがいくらか楽だった。
魔紋を読み解く作業に没頭しているうちに、いつの間にか夜も更けていた。
ふと、父の強張った表情が脳裏をよぎる。
(「改ざん」という言葉に、あんな顔をするなんて)
偶然だろうか。それとも――。
考えても答えの出ない問いを抱えたまま、リディアはもう一枚、契約書を手に取った。




