第45話 語られ始めた過去
局長室の扉を開けたとき、オーウェンは机に向かったまま、翌朝提出するらしい報告書へ目を通していた。
こんな時間まで残っていること自体は珍しくない。けれど、リディアが国境から届いた管理票の写しを机へ置くと、彼の手が途中で止まった。
「局長、これを見ていただけますか。国境で押収された荷から見つかった管理票です」
続けて、第二保管庫から持ってきた控えを隣へ並べる。
「細部が潰れているので同一とは断定できませんが、この記号がよく似ています。第二保管庫では、移管先を消された資料のいくつかに残っていました」
オーウェンは返事をせず、二枚の紙を交互に見た。
いつもなら気になる箇所へすぐ指を置き、確認すべき資料を指示する。それが今夜は、管理票の隅にある小さな記号からなかなか視線を外さなかった。
「……どこで、これを見つけた?」
低くなった声に、レイフォードがリディアより先に答えた。
「国境部隊です。押収した積荷の整理中に出てきました。原本は現地に残させています」
「第二保管庫のほうは?」
「今夜確認した三件です。ほかにもあるかもしれませんが、まだ調べていません」
リディアが答えると、オーウェンは椅子の背にもたれた。机の端を指先で一度なぞってから、レイフォードへ目を向ける。
「アシュグレイ隊長。悪いが、少しだけ席を外してもらえるか。ヴァンス家に関わる話をしたい」
レイフォードはリディアを見た。
「扉の外にいる。何かあれば呼べ」
それだけ告げて退室し、扉が閉まる。
オーウェンはすぐには話し始めなかった。引き出しから眼鏡を取り出して管理票をもう一度確かめたあと、ようやく写しを机へ戻した。
「この記号そのものに、特別な意味があるわけじゃない。昔の記録局で使われていた補助的な記号の一つだ。今の方式に切り替わってからは使われなくなった」
「昔というのは、どれくらい前ですか?」
「少なくとも二十年は前だ。……私が、まだここで下働きに近い仕事をしていた頃だからな」
オーウェンはそこで言葉を切り、机の上の控えを自分のほうへ引き寄せた。
「当時の記録局長は、アデル・ヴァンス殿だった」
祖母の名前が出ても、最初は意味がつながらなかった。
リディアが顔を上げると、オーウェンは目を逸らさなかった。
「私は、あの方の部下だった」
記録局へ入ってから何年も顔を合わせてきた相手から、初めて聞く言葉だった。
「お祖母様のことを、知っていたんですか」
「知っていたどころじゃない。仕事の基礎を教わったのも、文官として拾ってもらったのもアデル殿だ。お前が初めてここへ来たとき、ヴァンスという名を見てすぐ気づいた」
「それなら、どうして今まで何も……」
オーウェンは問いを遮らず、聞き終えてから管理票へ視線を戻した。
「話せば、その先まで説明しなければならなくなる。アデル殿がなぜ記録局を去ったのか、ヴァンス家がその後どうなったのか。私自身、長い間そこから目を背けていた」
彼は第二保管庫の控えをめくり、例の記号が残る箇所を確かめた。
「二十年前、記録局では大きな問題が起きた。アデル殿は、その最中に記録の不自然な動きを追っていた。私が知っているのは途中までだが、ある時期から資料が見つからなくなり、照会を出しても返ってこないものが増えた」
リディアは机の上の二枚へ目を落とした。
移した記録だけが残り、受け取った記録のない資料。
いま調べているものと同じ光景が、二十年前にも机の上に並んでいたのかもしれない。
けれど、オーウェンはそこを結びつける言葉までは口にしなかった。
「アデル殿は調査を続けた。その後、記録局を去ることになった。私は残った」
最後の一言だけが、妙に硬かった。
「止められなかったんですか」
「止めようとはした。ただ、若造一人が何を言っても通らなかったし、途中からは私自身にも圧力がかかった。仕事を失うだけならまだよかったが、家族にまで話が及んだところで、私は黙った」
オーウェンは机の隅に置いてあった鍵束を持ち上げ、また元の場所へ戻した。
「それから二十年、黙ったままだ」
謝罪の言葉はなかった。
リディアも、すぐに何かを返すことができなかった。
やがてオーウェンは国境から届いた管理票を封筒へ戻し、第二保管庫の控えだけをリディアの前へ返した。
「この記号については、明日こちらでも古い規定を確認する。ただ、アデル殿が最後に何を調べていたかまでは、私にはわからない。そこを知っている可能性があるのは、おそらくお前の父親だ」
「父が?」
「ヴァンス家が記録局から距離を置いたのは、アデル殿が辞めたあとだ。家で何を話したのか、私には聞けなかった」
リディアは控えを受け取った。
父が祖母の書斎について尋ねられるたび、必要以上に言葉を選んでいたことが頭をよぎった。
「今夜、行きます」
「もう遅いぞ」
「だからこそ、明日まで待ちたくありません」
オーウェンは止めなかった。
扉を開けると、廊下の壁際に立っていたレイフォードがこちらを向いた。リディアが「実家へ行きたい」と告げると、彼は理由を尋ねる代わりに時計を確認した。
「馬車を手配する。俺も行く」
◆
ヴァンス家へ着いた頃には、家々の窓から見える灯りもまばらになっていた。
突然の帰宅に母が驚いて玄関まで出てきたが、リディアが父と話したいと告げると、何も聞かず書斎へ通してくれた。
父はまだ起きていた。
机に帳簿を広げていた手を止め、夜更けに現れた娘と、その少し後ろに立つレイフォードを見比べる。
「何かあったのか」
リディアは机の前まで進み、持ってきた控えを置いた。
「オーウェン局長から、お祖母様のことを聞きました。局長がお祖母様の部下だったことも、二十年前に記録局で何かがあったことも」
父の視線が、紙へ落ちる。
そこに描かれた古い記号を見た瞬間、帳簿の上に置かれていた手がわずかに動いた。
「……オーウェンが、話したのか」
「はい」
父はしばらく何も言わなかった。
リディアも急かさず、その場に立っていた。背後ではレイフォードが書斎の入口近くに留まり、会話へ入ってこない。
やがて父は立ち上がり、本棚の前へ向かった。
「お前が一歳になる頃の話だ。母さんと私は、もう二度とあの頃のことを子どもたちに背負わせまいと決めた」
本棚の下段から古い箱を引き出すと、積もっていた埃を袖で払う。
「だが、向こうから追いついてきたのなら、黙っている意味もないのかもしれないな」
父は箱を机へ運び、長く使われていなかった留め金に指を掛けた。




