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氷の騎士様が、なぜか私の残業にだけ付き合ってくれる件  作者: 森凛
第三部「事件と危機」

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第38話 セシリアの選択

 午後の記録局に、受付から来客を告げる声が届いた。


 顔を上げたリディアは、入口に立つセシリアを見つけた。ロウ家の夜会以来、彼女がここを訪れること自体は珍しくなくなっていたが、今日は菓子箱もなく、手にしているのは薄い封筒だけだった。


「急に来てごめんなさい。これを、一度見てもらいたくて」


 差し出された封筒にはロウ家の紋章も封蝋もない。中から出てきたのは、二つ折りにされた古い紙だった。


 リディアは近くの机を空け、紙を広げた。


「どちらにあったものですか?」


「フェリクス先生のものよ。夜会の日、先生が使っていた部屋に本や書類がいくつか残っていたでしょう。ご家族へお返しするものを整理していたら、本の間から出てきたの。使用人が記録局の印に気づいて、父がこちらへ持っていったほうがいいだろうって」


 紙の上端には、確かに王立記録局の印が押されていた。ただし現在のものより古く、縁を囲む意匠も違う。


 本文らしいものはなく、並んでいるのはいくつかの資料名と管理番号だけだった。フェリクスが自分で控えたのか、誰かから渡されたものなのか、それもわからない。


 リディアは上から順に目を追い、三つ目の番号で手を止めた。


 午前中にも見た数字だった。


「ミラ先輩、この申請書をお願いできますか。フェリクス先生の分です」


 声をかけると、ミラが書架脇の机から書類を持ってきた。二人で並べると、閲覧申請の関連資料欄と、セシリアが持ってきた紙に記された番号が一致している。


 ミラもすぐに気づき、もう一人の申請書を探しに戻った。


「これ、昨日見つけた番号と同じですね」


「ええ」


 リディアは紙から目を離さず答えた。


 原因のわからない体調不良を起こした別の人物も、途中で同じ資料を取り寄せていた。その番号を、フェリクスは閲覧申請とは別の紙にも書き残し、夜会の日まで持っていたことになる。


 オーウェンもこちらへ来ると、二枚の申請書と古い紙を順に見比べた。


「ほかの番号は?」


「こちらは見覚えがあります。宮廷史関係の古い記録です。でも、残りの二つはすぐにはわかりません。今の管理番号と形式が違うので、旧目録を見ないと」


「先に照合しよう。現物を動かすのは、そのあとだ」


 オーウェンの指示で、ミラが保管庫から旧式の目録を運んできた。


 厚い冊子を机に並べ、年代を遡りながら番号を探していく。セシリアも帰る様子を見せず、少し離れたところから作業を眺めていた。


 一つ目は、数年前に別の番号へ統合された宮廷議事録だった。


 二つ目も見つかった。


 最後の番号だけが、目録を一冊変えても出てこない。


「もう一つ古い版を見ます」


 リディアが次の冊子へ手を伸ばしたとき、オーウェンが古い紙を持ち上げた。


「今日は所在の確認まででいい。時間をかけて追ったほうがいいだろう。ロウ嬢、この紙はこちらで預かっても?」


「もちろん。そのために持ってきたんですもの」


 セシリアは笑ってから、机いっぱいに広がった目録を見渡した。


「まさか、あの紙一枚でこんなことになるとは思わなかったわ」


「持ってきていただいて助かりました。フェリクス先生が何を調べていたのか、もう少し追えるかもしれません」


 リディアは古い紙を保管用の封筒へ移そうとして、端に指を添えた。


 余白の一部だけ、灯りの反射が少し違った。


 紙を傾けると消える。元へ戻すと、また薄く光る。


 隣にいたミラも覗き込んだが、古い紙なら色むらくらいあるでしょう、と言って目録へ戻った。


 リディアも紙を封筒へ収めた。


 その場所だけは、閉じる前に一度指で押さえた。


 ◆


 セシリアが帰るというので、リディアは記録局の外まで見送ることにした。


 午後の仕事を終えた者たちが行き交う時間で、階段の下では侍従が書類の束を抱えて急ぎ足で横切っていく。二人もその流れを避けながら、大階段の端をゆっくり下りた。


 事件の話が途切れると、セシリアはしばらく黙っていた。


 踊り場まで来たところで、手すりに置いていた手を離す。


「そういえば、もう一つ伝えておきたかったことがあるの。父には、アシュグレイ家との縁談をいったん止めてもらったわ」


 リディアの足が次の段へ下りる前で止まった。


 セシリアはそのまま数段下り、振り返った。


「レイフォード様からは、少し時間がほしいと言われたの。私が家の話とは別に答えを聞きたいと言ったんだから、待つのが筋なのかもしれない。でも、返事を待っている間だけ婚約の話を残しておくのは、少し違う気がして」


 彼女は階段を下りながら続けた。


「だから、両親にはそう伝えたわ。少なくとも今は、ロウ家から話を進めることはない。レイフォード様にも、もう返事を急いでもらわなくていいと思ってる」


 リディアは少し遅れて、その隣へ並んだ。


「……もう、お待ちにならないんですか」


「ええ。でも、好きじゃなくなったわけじゃないわよ。そんなに簡単だったら、わざわざ告白なんてしなかったもの」


 セシリアは前を向いたまま笑った。


「ただ、言いたかったことは言えたから。あとは、あの方が何を選ぶにしても、それまで私が立ち止まっている必要はないかなって」


 正面玄関の向こうに、ロウ家の馬車が見えた。


 御者がこちらに気づき、扉を開ける準備を始めている。


「父にはずいぶん驚かれたけれどね。今まで何も言わなかった娘が、急に自分で止めると言い出したんだから」


「反対されませんでしたか?」


「少しはね。でも最後には、私の縁談だからって」


 セシリアはそこで一度振り返り、リディアの顔を見た。


「だから、王宮でまだ婚約の噂を聞いても気にしないで。しばらくは勝手に残るでしょうけど、少なくとも今は、何も決まっていないから」


 玄関から差し込む光の中を、帰り支度をした人々が次々と通り過ぎていく。


 リディアは鞄の留め具へ手を置いたまま、しばらく動かなかった。


「……わかりました」


 それだけ答えると、セシリアは少し笑った。


「じゃあ、今度こそ帰るわ。フェリクス先生の紙、何かわかったら教えてね」


「はい。わかり次第、お知らせします」


 馬車へ向かうセシリアの背中を見送り、リディアは記録局へ戻った。


 ◆


 机の上には、まだ旧目録が開かれたままになっていた。


 ミラは別の仕事へ戻っており、オーウェンの姿もない。リディアは外套を椅子へ掛け、先ほど途中で止めた冊子を引き寄せた。


 最後に残った管理番号を、もう一度最初から探していく。


 該当する年代まで来たところで、頁をめくる手が止まった。


 番号は並んでいた。


 一つ前も、その次もある。


 探していた数字だけが、その間になかった。


 リディアはもう一度、前後の頁を確かめた。番号の並びは変わらない。


 やがて該当する頁に細い紙片を挟み、旧目録を閉じた。机の端に置いていたフェリクスの封筒を手に取ると、そのままオーウェンの執務室へ向かった。

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