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氷の騎士様が、なぜか私の残業にだけ付き合ってくれる件  作者: 森凛
第三部「事件と危機」

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第37話 保留された答え

 セシリアの言葉が途切れても、レイフォードはすぐには答えなかった。


 夕暮れの中庭には、噴水から落ちる水の音が絶えず響いていた。陽は西棟の屋根へ沈みかけ、石畳を照らしていた光も少しずつ薄くなっている。向かいに立つセシリアは胸元で重ねていた手を下ろしたものの、急かす様子はなく、そのままレイフォードを見ていた。


 風が生垣を抜けたとき、東側の回廊の奥で何かがかすかに擦れた。


 石柱の向こうはすでに影に沈み、中庭からでは先まで見通せない。レイフォードの言葉がひと息ぶん遅れたが、やがて静かな声が落ちた。


「気持ちを伝えてくれたことは、ありがたく思う。君とは長い付き合いだし、大切な人だと思っていることも変わらない。ただ、それをそのまま婚約の答えにはしたくない。両家の間で話が進んでいる今、ここで頷けば、それが俺自身の意思なのか、周囲が用意したものを受け入れただけなのか、曖昧なままになる」


 レイフォードはそこで一度言葉を切った。噴水の縁で跳ねた水滴が、夕陽を受けて一瞬だけ光る。


「君は自分の言葉で伝えてくれた。なら、俺も同じように返したい。勝手を言っているのはわかっているが、少し時間をもらえないだろうか。」


 セシリアはしばらく黙っていた。


 白い手袋の縫い目を親指でなぞっていたが、やがてその手をゆっくりと離した。


「わかりました。私も、家同士の話だけで決まるのが嫌で今日ここへ来たんですもの。レイフォード様にも、ご自分で決めた答えをいただきたいです。両親には、しばらく話を先へ進めないよう私から伝えておきます」


 そこまで言って、セシリアは小さく息を吐いた。


「ただ、いつまででも待っています、とは言いません。それくらいは許してくださいね」


「ああ、もちろん」


「では、その言葉だけ覚えておきます」


 いつもの調子が少しだけ戻った声だった。


 セシリアは乱れてもいない袖口を整えると、迎えの馬車を待たせているからと告げた。噴水の脇を通り、回廊へ向かう靴音が少しずつ遠ざかっていく。入口の手前で歩調がわずかに緩んだものの、振り返ることなく、そのまま柱の向こうへ消えていった。


 残されたレイフォードは懐中時計を取り出した。


 次の打ち合わせの時刻を、針はすでに過ぎている。


 蓋を閉じたところへ、西側の回廊から足早な靴音が近づいてきた。騎士団の若い騎士が、レイフォードを見つけるなり歩調を速める。


「隊長、こちらでしたか。記録局から急ぎの共有です。フェリクス先生を含め、原因のわからない体調不良や失踪について洗い直したところ、複数の方に古い宮廷資料の閲覧歴が見つかったそうです。さらに、フェリクス先生ともう一人が途中で同じ保管資料を取り寄せていたことまで確認できたので、騎士団側でも残る方々の行動を照合してほしいとのことでした」


 騎士はそこで息を整え、もう一つ付け加えた。


「もともとはヴァンス文官が直接説明するつもりだったそうです。隊長を探して一度詰所まで来られたので、東の中庭にいるかもしれないと伝えたんですが、しばらくして記録局へ戻られたと聞きました。それで、オーウェン局長から先に概要だけでも伝えるよう使いを頼まれまして」


 懐中時計をしまっていたレイフォードの手が止まった。


「ヴァンス文官が詰所へ来たのは、いつ頃だ」


「正確な時刻までは見ていませんが、ロウ伯爵令嬢がこちらへ向かわれたのと、それほど違わなかったと思います」


 レイフォードはそれ以上聞かず、騎士から渡された簡単な連絡書へ目を落とした。


 そこには、五人分の名前と、記録局で確認された閲覧履歴の概要だけが記されている。フェリクスを含む二人には同じ管理番号が添えられていた。


 レイフォードは二つの番号を確かめると、紙を畳んだ。


「残る三人は、記録局の閲覧歴だけで終わらせるな。王宮図書庫や各部署から資料を取り寄せていなかったかも確認してくれ。フェリクス先生については、夜会までの数日間をもう一度追う。誰と会ったかだけでなく、どこへ立ち寄り、何を持ち出したかまで見たい。正式な資料が届き次第、記録局の記録と合わせる」


 騎士は頷くと、再び詰所の方角へ駆けていった。


 夕陽はすでに建物の向こうへ落ち、先ほどまで水面に残っていた光も消えていた。


 レイフォードは連絡書を内ポケットへ収め、中庭を出た。


 西へ折れる回廊を数歩進んだところで、靴音が途切れる。


 ほどなく、反対側の石床に新しい足音が響き始めた。


 東の回廊へ入ると、噴水の音は厚い石壁の向こうへ薄れていく。柱の間を抜けた先で通路が分かれ、その一方は記録局のある棟へ続いていた。


 床には一日の往来で擦れた跡が残り、夕方の薄暗さの中でいくつもの影が重なっている。


 レイフォードは分かれ道の少し手前で歩みを緩めた。


 手元には、記録局から届いた短い連絡書がある。


 やがてそれを上着の内側へ押し込み、記録局へ続く通路には入らず、もう一方の道へ曲がった。


 次の打ち合わせ場所へ着いた頃には、予定よりだいぶ遅れていた。


 待っていた騎士が時計へ目をやったが、レイフォードは何も言わず、席につくと先ほどの連絡書を机の上へ広げた。

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