第33話 苛立ちの理由
ここ数日、記録局から届く書類の量が増えていた。
調査そのものが忙しくなったからではない。以前なら記録局へ行けば、その場でリディアから聞いていたようなことまで、今はすべて紙にまとめられている。
その日の朝も、レイフォードが記録局を訪れると、必要な資料はすでに机の上に揃えられていた。
「国境から持ち帰った資料との照合結果はこちらです。前回ご質問いただいた三件についても、元の記録まで確認してあります。補足が必要な箇所には印をつけましたので、騎士団側ではそこを見ていただければ問題ないと思います」
リディアは淀みなく説明すると、まとめた書類をレイフォードへ差し出した。
内容は十分だった。むしろ以前より整理されていて、これだけあれば騎士団へ戻ったあとも困ることはない。
それでも、レイフォードはすぐに受け取らず、机の上へ並んだ資料を見た。
「ここまでまとめなくても、確認したいところだけ聞けば済んだんだが」
「後から見返せる形にしておいたほうが、ほかの方にも共有しやすいと思ったんです。今後も同じ形式にしておけば、私がいないときでも対応できますし」
もっともな説明だった。
レイフォードが返す言葉を探しているうちに、リディアは残っていた資料をミラのほうへ渡し、次の作業について相談を始めた。その動きには不自然なところもなく、こちらを避けようとしているようにも見えない。
ただ、以前ならもう少しその場に残っていた。
調査の途中で気になったことを話したり、レイフォードが持ってきた資料を覗き込みながら、その場で次に見るべきものを考えたりしていた。それがいつの間にか、必要なことを漏れなく伝えたところで会話が終わるようになっている。
「ヴァンス文官」
呼びかけると、リディアはミラとの話を止めてこちらを向いた。
「何か不足がありましたか? 必要であれば、今日中に追加でまとめておきます」
仕事のことだと最初から決めているような返事だった。
「いや、資料はこれで足りる」
「では、よろしくお願いいたします」
軽く頭を下げられ、それ以上話す理由を失った。
レイフォードは書類を抱えて記録局を出たが、廊下を歩いているあいだも、最後のやり取りが妙に引っかかっていた。
何も間違ってはいない。
記録局の文官と騎士団の隊長として考えれば、むしろ今のほうが整ったやり取りだった。
それなのに、以前よりずっと遠く感じる。
◆
午後の訓練では、普段なら一度注意すれば流していた細かな乱れまで目についた。
隊列の間隔が揃わなければやり直させ、剣を構える位置がわずかに遅れれば、もう一度最初から繰り返す。三度目のやり直しを命じたところで、部下の一人が苦笑しながら剣を下ろした。
「隊長、今日はずいぶん厳しいですね。直すところがあるのはわかりますけど、この程度なら普段は次へ進ませていたでしょう。怪我が治って、身体を動かせるようになった反動ですか?」
「関係ない。崩れているところをそのままにしておくほうが悪い」
「それならいいんですけど、朝からずっとそんな調子ですよ。俺たちの出来が急に悪くなったんじゃなければ、隊長のほうに何かあるのかなと思いまして」
冗談半分の口調だったが、周囲にいた騎士たちも否定する様子がない。
レイフォードは訓練場を見渡した。
最後にやり直させた隊列は、二度目の時点ですでに実戦に差し支えない程度には整っていた。自分でもわかっていながら、別のことに気を取られている苛立ちを、そのまま訓練へ持ち込んでいたらしい。
「十分休憩を取れ。再開したら次へ進む」
それだけ告げると、部下は少し意外そうな顔をしながらも仲間のところへ戻っていった。
レイフォードは水を取りに行く気にもなれず、その場で腰の剣を確かめた。
そこでまた、朝受け取った書類のことを思い出した。
以前なら、リディアと話すために記録局へ行く理由を探したことなどなかった。調査について確認したいことがあれば出向き、話が終われば戻る。それだけのはずだった。
ところが今は、必要な情報がすべて文書で届くことが、なぜか面白くない。
話す必要がなくなったことを、不便ではなく不満に感じている。
その違いに気づくと、かえって考えたくなくなった。
◆
夕方、詰所へ戻ると、机の上に記録局からもう一通の封書が置かれていた。
朝の資料に追加が出たらしい。
封を開くと、補足された内容は簡潔で、確認してほしい箇所もわかりやすく整理されていた。今回もリディアの筆跡だったが、差出人は記録局として処理されている。
以前なら、この程度の追加なら本人がついでに持ってきたこともあった。
レイフォードは一枚目を読み終え、次へ進もうとして手を止めた。
呼び方が「隊長」から「アシュグレイ隊長」に戻ったのも、同じ頃だった。
直接持ってきていた資料が、別の職員やオーウェンを通して届くようになったのもそうだ。記録局で顔を合わせても、仕事が終わればすぐに別の作業へ戻る。
一つだけなら偶然で済ませられる。
だが、いくつも重なれば話は違う。
レイフォードは椅子へ深く腰を下ろし、朝から感じていた違和感をようやく認めた。
リディアは、意識して自分との距離を戻そうとしている。
問題は、その理由だった。
国境から戻ったあと、何か機嫌を損ねるようなことをした覚えはない。むしろ以前より話す機会は増えていた。夜会の庭では、自分でも余計だったと思うことまで口にした。私室では姉の肖像画を見られ、そのあとにはエルシーのことまで話している。
それまで避けられていなかったのだから、そのどこかが原因とも考えにくい。
では、何が変わったのか。
レイフォードは報告書を読み直した。
必要な情報はすべて揃っている。質問する余地がないほど丁寧で、記録局へ出向く理由さえ残らない。
仕事相手としてなら、それで何の問題もない。
そのはずなのに、以前は口頭で聞けた言葉が紙の上に並んでいるのを見るたび、胸の内に小さな苛立ちが積もっていく。
「隊長、その書類に何か不備でもありましたか?」
近くで作業していた騎士に声をかけられ、レイフォードは顔を上げた。
「いや。内容はよくまとまっている。むしろ、こちらから聞きに行くことが何もないくらいにな」
「それなら、助かるんじゃないですか?」
悪気のない言葉だった。
レイフォードも、本来ならそう答えるべきだと思った。
しかし、口から出たのは別の言葉だった。
「……そうだな。仕事だけなら」
騎士が不思議そうにこちらを見る。
レイフォードはそれ以上説明せず、報告書を閉じた。
明日も記録局へ行く予定はない。届いた資料だけで、今のところ確認すべきことはすべて足りている。
しばらく机の上の封書を見ていたあと、レイフォードは翌日の予定表を引き寄せた。
午後に一つだけ空いている時間がある。
そこへ短く、記録局、と書き込んだ。




