第32話 婚約の噂
その噂を耳にしたのは、ミラと二人で騎士団へ返却する資料を運んでいた朝のことだった。
記録局を出て王宮の廊下を歩いていると、少し先を行く二人の女性官吏が、声を潜めながら話しているのが聞こえてきた。
「ロウ伯爵家とアシュグレイ家、いよいよ話が進んでいるそうよ。近いうちに婚約を発表するんじゃないかって」
「やっぱりそうなの? 前からお似合いだって言われていたものね。家柄を考えても、これ以上ない縁談でしょうし」
二人はリディアたちに気づかないまま角を曲がっていった。
隣を歩いていたミラが、抱えていた資料の束を持ち直す。
「また新しい噂が出てきたわね。朝から何人か同じ話をしていたけど、ヴァンスさんは聞いてた?」
「いえ。縁談の話が以前からあったことは知っていますけど、そこまで進んでいるという話は初めてです」
「私も正式な発表は聞いてないから、まだ噂だと思う。でも今回は、両家が具体的に話を進めてるってところまで広まってるみたい」
以前なら、噂でしかないと聞けばそれで終わっていたかもしれない。
けれど、今回は妙に現実味があった。
セシリアはレイフォードと幼い頃からの知り合いで、家同士にも長い付き合いがある。ロウ家の夜会で見た彼女は、華やかな社交の場に自然に馴染み、周囲の人々とも親しく言葉を交わしていた。レイフォードと並んでも、誰も不思議には思わないだろう。
それに、縁談そのものが突然出てきた話ではないことも知っている。
「ヴァンスさん、大丈夫?」
ミラに声をかけられ、リディアは足元へ落ちかけていた資料を慌てて抱え直した。
「すみません、少し持ちにくくて。こちら、私が持ち直します」
「半分持とうか?」
「大丈夫です。このままで」
リディアは歩調を戻した。
今考えても、噂が本当かどうかはわからない。そもそも、自分が確かめるような話でもなかった。
それより、これから騎士団へ届ける資料のほうが先だ。
◆
騎士団側との資料の引き渡しは、予定より長引いた。
国境から持ち帰った記録と、記録局側で整理した資料の番号が一部合わず、その場で照合する必要が出たためだ。リディアとミラが一覧を広げて確認しているところへ、別の騎士と話していたレイフォードも加わった。
「この三件か?」
「はい。内容そのものは一致しています。ただ、騎士団から受け取ったときの番号と、こちらで整理した番号が違っています。元の記録まで辿れば確認できると思いますが、今日は一覧しか持ってきていないので、記録局へ戻ってから調べます」
リディアが一通り説明すると、レイフォードは資料を覗き込みながら該当箇所を確認した。
「急ぎではない。わかった時点で知らせてくれ。それと、前に送った押収品の記録について一つ確認したい。少し時間はあるか?」
いつもなら、そのまま残って話を聞いていただろう。
国境から戻って以降、こうして互いの資料を見ながら話すことも珍しくなくなっていた。わざわざ時間があるかと聞かれなくても、そのまま机を挟んで続きを確認することさえあった。
けれど今日は、少し離れたところで交わされていた会話が耳に入った。
「アシュグレイ隊長も、いよいよ身を固めるのか」
「ロウ家なら文句を言う者もいないだろう」
騎士たちの笑い混じりの声だった。
レイフォードが反応した様子はない。聞こえていないのか、聞き慣れていて気にしていないのかもわからなかった。
リディアは手元の資料を閉じた。
「その件でしたら、関連する部分をまとめてあります。ミラ先輩にも共有していますので、必要な箇所を教えていただければ、記録局へ戻ってから追加で確認しておきます」
レイフォードが顔を上げた。
「今ここで確認したほうが早いと思ったんだが」
「今日はほかにも戻って確認する資料がありますし、まとめて見たほうが効率がいいと思います。結果が出たら、正式にお送りします」
仕事として間違ったことは言っていない。
むしろ、普段ならこちらのほうが自然なくらいだった。
それなのに、レイフォードはすぐには答えず、リディアの顔を見ていた。
「……そうか。なら、任せる」
「はい」
リディアは軽く頭を下げ、残っていた資料をまとめ始めた。
ミラも何かを感じたのか、黙って反対側の束を抱える。二人で退出しようとしたところで、背後からレイフォードに呼び止められた。
「ヴァンス文官」
振り返る。
レイフォードは何かを尋ねたそうな顔をしていたが、周囲にはまだ何人もの騎士がいる。しばらくこちらを見たあと、結局、手にしていた資料へ視線を落とした。
「……いや。照合の件、頼んだ」
「承知しました、アシュグレイ隊長」
そう答えると、今度はレイフォードの視線がはっきりと止まった。
リディアも、自分が何と呼んだのかに遅れて気づいた。
いつからか、二人で話すときには「隊長」とだけ呼ぶことが増えていた。それを意識して変えたつもりはなかったのに、今日は自然と家名までつけていた。
言い直す理由もなく、そのままミラと廊下へ出た。
騎士団の詰所から離れたところで、ミラがようやく口を開いた。
「ヴァンスさん。さっき、何かあった?」
「何もありませんよ。確認するものが増えたので、早く戻ったほうがいいと思っただけです」
リディアは歩きながら答え、抱えていた資料の一番上を整えた。
ミラは何か言いたそうだったが、それ以上は聞かなかった。
廊下の向こうから、今度は別の二人組が歩いてくる。その会話の中にも、ロウ家という言葉が聞こえた。
リディアはそちらを見ず、そのまま歩いた。
◆
それから数日、リディアとレイフォードのやり取りは目に見えて変わった。
資料の受け渡しはこれまで通り行う。調査に必要な報告も欠かさない。ただ、それまでならその場で相談していたことを文書にまとめ、直接確認する必要がなければオーウェンやほかの職員を通すようになった。
自分から避けているつもりはなかった。
ただ、もしあの噂が事実なら、今までの距離のままでいるのは違う気がした。
セシリアのことを知らなかった頃ならともかく、今は彼女がどんな人なのかも知っている。夜会へ招いてくれ、慣れない場所で何度も気にかけてくれた相手だ。
だからこそ、自分の中で線を引いておいたほうがいい。
そんなふうに考えていた数日目の午後、記録局へやってきたレイフォードに資料を渡すと、彼は受け取ってもすぐには立ち去らなかった。
「最近、ずいぶん書類が増えたな」
リディアは一瞬、何のことかわからなかった。
レイフォードは手にした資料を軽く持ち上げる。
「前なら口頭で済んでいたことまで、全部ここに書いてある」
「記録に残しておいたほうが、あとから確認しやすいと思いまして」
「そうか」
返事はそれだけだった。
けれど、その日のレイフォードは、資料を受け取ったあともしばらくその場から動かなかった。




