第31話 飲み込まれた言葉
古い記録の確認を続けていたある日、リディアは騎士団関係の書類を収めた箱から、一冊の記録簿を取り出した。
過去に功績を認められた者の名が年代順に並び、それぞれの働きが数行ずつ簡潔に記されている。現在追っている改ざんとの直接的な関わりはなさそうだったが、古い年代の資料を一通り確認するために頁をめくっていると、見覚えのある家名が目に留まった。
アシュグレイ。
けれど、そこに記されていたのはレイフォードの名ではなかった。
『エルシー・アシュグレイ』
数日前、レイフォードの私室で見た肖像画が自然と浮かんだ。凛とした目元の若い女性を見て彼と似ていると言ったとき、レイフォードは「あれは姉だ」とだけ教えてくれた。
おそらく、この人なのだろう。
リディアは続く記述へ目を移した。若くしていくつかの功績を挙げたことが簡潔にまとめられ、その最後に、ほかの記載と変わらない書体で短い注記が添えられている。
『任務中に死去』
その先に説明はなかった。
いつ、どこで、どんな任務だったのかも書かれていない。一人の人間が亡くなったという出来事が、記録の中ではたった数文字で終わっている。
リディアはしばらくその一行に目を留めたあと、静かに頁を閉じた。
肖像画の隣に古びた記章が置かれていたことも思い出したが、今の自分にわかるのは、あの女性の名前がエルシーであり、騎士として働いていたということだけだ。仕事の途中で偶然見つけた記録を、それ以上個人的な興味で追うのは違う気がした。
記録簿を元の場所へ戻してからも、「エルシー」という名前だけはしばらく頭に残っていた。
◆
それから数日後、レイフォードが記録局を訪れた。
怪我はかなり回復したらしく、私室で見たときには腕を支えていた固定具も外れている。国境から持ち帰った資料について確認したいことがあるというので、リディアはこれまでの調査結果をまとめた書類を広げた。
「押収品に残っていた魔導文字については、今のところ新しい情報は出ていません。記録局側でも古い年代まで見ていますが、直接つながるような記録はまだ見つかっていないので、こちらは引き続き確認します。騎士団側で追加の資料が出たら、同じように回していただけると助かります」
「わかった。向こうでも押収品の整理は続いている。新しいものが出ればこちらへ回すよう伝えておく」
レイフォードは必要な箇所を確認しながら、手元の資料を順番にまとめていった。
仕事の話は、それでほとんど終わった。
いつもなら、そのまま書類を持って戻っていくところだ。けれどリディアは、彼が最後の一枚を閉じるのを見ながら、昼間見つけた名前を思い出していた。
聞くべきかどうか、まだ少し迷いはあった。
それでも、本人が姉だと教えてくれた以上、記録で名前を見たことまで隠す必要もないように思えた。
「隊長。今日、古い騎士団の記録を見ていたときに、エルシー・アシュグレイという方のお名前を見つけました。先日、私室で見た肖像画を思い出して……あの方のお名前なんですよね」
資料を揃えていたレイフォードの手が止まった。
「ああ。姉の名前だ」
声そのものは普段と変わらなかったが、それ以上すぐに続ける様子はない。
リディアは少し間を置いてから、記録に書かれていたことも伝えた。
「功績を記した資料でした。最後に、任務中に亡くなられたとだけ書かれていて……勝手に調べようとしたわけではないんです。仕事で目にしただけなので、もし触れられたくないことだったら、これ以上は聞きません」
レイフォードはすぐには答えなかった。
机の上へ視線を落としたまま、何かを選ぶように少し考えてから、静かに口を開く。
「謝る必要はない。記録に残っている以上、お前が仕事をしていればいずれ目にすることもある。姉は騎士だったし、あそこに書かれている功績も事実だ」
そこで一度息をつき、少しだけ椅子の背へ体を預けた。
「昔から、強い人だった。剣が得意だったという意味だけじゃない。何かをやると決めたら、周りに反対されても簡単には曲げなかったし、俺が迷っているときには、いつも先に答えを決めてしまうような人だった。子供の頃の俺には、それがずいぶん眩しく見えていた」
そこまでまとまった言葉で家族について話すレイフォードを、リディアは初めて見た。
普段なら必要なことだけを選び、それ以上は自分から話そうとしない。その彼が、今は机の上の資料ではなく、もっと遠いものを見るような目をしている。
「私室にあった肖像画を見たとき、少しそんな感じがしました。隊長と似ているのに、どこか雰囲気が違っていて」
「姉のほうが、人に好かれる性格だったからな。俺よりずっと話しやすかったと思う」
以前にも聞いた言葉だったが、今度は少しだけ意味が違って聞こえた。
レイフォードの口元に、ごく薄く懐かしむような色が浮かぶ。
「本人は、自分が誰かに好かれていることなんて、あまり気にしていなかった。自分が正しいと思うことをやって、それで周りがついてくればいいくらいに考えていたんだろう。だから、あの時も――」
そこまで言ったところで、声が途切れた。
レイフォードはふっと視線を落とし、机の上に置いた手をわずかに握った。
しばらく沈黙が続いたが、リディアは続きを促さなかった。
何について話そうとしたのかはわからない。それでも、ここから先だけは、今までと同じようには口にできないのだろうということは伝わってきた。
やがてレイフォードはゆっくり息を吐いた。
「……悪い。今は、そこから先をうまく話せそうにない」
「謝らないでください。そこまで聞かせていただけただけでも十分です。私も、記録を見たからといって何でも知っていいとは思っていませんから」
リディアがそう答えると、レイフォードは少し意外そうに顔を上げた。
けれど、すぐに何かを言い返すことはなく、ただ小さく頷いた。
それからしばらく、二人の間に言葉はなかった。
机の上には調査資料が広がったままだったが、先ほどまでの仕事の沈黙とは違い、不思議と気まずさはなかった。
レイフォードはやがて書類を一つにまとめ、立ち上がった。
「今日はこれを持ち帰る。結果が出たら、また記録局へ回す」
「お願いします。それと、怪我が治ったからといって、また休まず動くのはやめてくださいね。私に言っていたことを、ご自分でも少しくらい守ってください」
リディアが一度に言うと、レイフォードは眉を寄せたものの、反論する言葉を探すように少し黙った。
「……最近、お前には言い返しにくくなったな」
「それなら、少しは効果があったということにしておきます」
今度は、レイフォードもわずかに笑った。
書類を抱えて扉へ向かった彼は、そのまま部屋を出るのかと思ったところで足を止めた。
「ヴァンス文官」
呼ばれて顔を上げる。
レイフォードは振り返らないまま、少し間を置いて続けた。
「姉の名前を誰かと話したのは、随分久しぶりだった。……聞いてくれて、ありがとう」
リディアが返事をするより先に、扉が静かに閉じた。




