第30話 肖像画
夜会から数日後、リディアはオーウェンに一束の書類を渡された。
「騎士団側で確認してもらいたい資料だ。アシュグレイ隊長に届けてきてくれるか」
「騎士団の詰所ではなく、隊長に直接ですか?」
「今日は宿舎にいる。国境で負った怪我がまだ治りきっていないところへ、戻ってからも休まず動いていただろう。さすがに医師から止められたらしい」
そう聞いて、リディアは夜会で見たレイフォードの姿を思い出した。騒ぎの中ではいつも通り動いていたものの、左腕を動かしたときに顔をしかめていた。本人は何でもないように振る舞っていたが、やはり無理をしていたらしい。
「わかりました。お届けしてまいります」
受け取った書類を抱え、リディアは近衛騎士団の宿舎へ向かった。
幹部用の居室が並ぶ棟へ入るのは初めてだった。詰所とは違って人の出入りも少なく、長い廊下には時折、窓から差し込む昼の光が落ちている。教えられた部屋の前まで来ると、リディアは一度書類を抱え直してから扉を叩いた。
「記録局のヴァンスです。局長から書類を預かってきました」
少し間を置いて、中から聞き慣れた声が返ってきた。
「入ってくれ」
扉を開けると、レイフォードは窓際の机に向かっていた。左腕はまだ自由に動かさないよう支えられていたが、目の前には何枚もの書類が広げられている。
「休養中だと聞いてきたんですが」
思わずそう言うと、レイフォードは手元の紙から顔を上げた。
「部屋から出ずに休んでいる」
「その机の上を見ても、同じことが言えますか?」
「読むくらいなら問題ないと医師にも言われている。剣を持つよりはましだろう」
どうやら何を言っても仕事を完全に手放す気はないらしい。リディアは諦めて、持ってきた書類を机の空いているところへ置いた。
「局長からです。国境から持ち帰った資料と、記録局側の記録を照合した分になります。急ぎではないので、今日中に見なくても大丈夫だそうです」
「そう言われると、余計に今日見るべきもののように聞こえるな」
「そういう意味ではありません」
レイフォードの口元がほんの少し動いた。からかわれたのだと気づいた頃には、彼はもう書類の最初の頁へ目を落としている。
確認が終わるまで少し待つことになり、リディアは邪魔にならないよう机から離れた。
そこで初めて、部屋の中をきちんと見る余裕ができた。
必要な家具だけが置かれた、整然とした部屋だった。机と寝台、小さな書棚、壁際の衣装掛け。どれもきちんと整えられているものの、飾りになるようなものはほとんど見当たらない。
だからこそ、書棚の上に置かれた一枚の肖像画が目に留まった。
描かれているのは、若い女性だった。
凛とした目元や、まっすぐ前を見る表情には、どこかレイフォードと似たところがある。華やかに着飾った肖像ではなく、静かにこちらを見返しているだけなのに、不思議と目を引いた。
肖像画のすぐ隣には、小さな金属製の記章も置かれていた。
ずいぶん古いものらしく、縁には細かな傷が残り、表面の光沢も薄れている。何かの紋章が刻まれているようだったが、リディアには見覚えのない意匠だった。
「――何を見ている」
声をかけられ、リディアははっとして振り返った。
レイフォードは書類から顔を上げ、リディアの視線の先を確かめるように棚へ目を向けた。
「すみません。勝手に見るつもりはなかったんですが、肖像画が目に入ってしまって。隊長と少し似ているなと思って……」
一瞬だけ、レイフォードの表情から先ほどまでの気安さが消えた。
けれど、隠すように立ち上がることも、話題を変えることもしなかった。
「あれは姉だ」
思いがけない答えに、リディアはもう一度肖像画を見た。
「お姉様がいらしたんですね。確かに、目元がよく似ています」
「そうか?」
「はい。でも、雰囲気は少し違います。お姉様のほうが……」
そこまで言って、リディアは言葉を選んだ。
「少し、近寄りやすそうです」
レイフォードが無言でこちらを見る。
「すみません」
「なぜ謝る」
「隊長のほうが近寄りがたいと言ったようなものなので」
自分で口にしてから失礼だったと気づいたが、レイフォードは怒った様子もなく、しばらく肖像画へ目を向けていた。
「昔から、姉は人に好かれるほうだった」
それは独り言に近い、静かな声だった。
リディアは思わず彼を見た。
レイフォードが家族について話すのを聞いたのは、これが初めてだった。もう少し聞いてもいいのかと思ったものの、肖像画を見る横顔には、普段とは違う静けさがある。
先を促すのはやめた。
やがてレイフォードのほうから視線を戻し、机の上の書類を整え始めた。
「内容は確認した。オーウェン局長には、こちらでも見ておくと伝えてくれ」
「わかりました。急ぎではないそうなので、今日は本当に休んでくださいね」
「善処する」
信用していい返事なのか迷ったが、これ以上言っても変わらない気がして、リディアは書類の受領分だけ確認して立ち上がった。
扉へ向かう途中、棚の前を通る。
近くで見ると、肖像画は丁寧に手入れされていた。隣の古い記章にも埃はなく、長いあいだ同じ場所に置かれていることだけはわかる。
リディアは立ち止まらず、そのまま扉に手をかけた。
「では、失礼します。お大事になさってください」
「ああ。わざわざ悪かったな」
部屋を出る前に振り返ると、レイフォードはすでに机へ戻っていた。
その向こうの棚には、若い女性の肖像画と古びた記章が、並んだまま置かれていた。




