第29話 外れた仮面
庭に面した回廊へ出ると、広間にこもっていた熱気が嘘のように遠ざかった。
馬車の準備が整うまでには、まだ少し時間がかかるらしい。リディアはそのまま回廊を歩き、庭へ下りる階段の近くで足を止めた。夜気は思っていたより冷たかったが、今はそのくらいが心地よかった。
フェリクスが倒れてから、ずっと人の声に囲まれていた。客たちの憶測、騎士たちの聞き取り、行き交う使用人たちの足音。ようやく一人になってみると、静けさの中でかえって今夜の出来事が鮮明に思い出される。
少し前まで、フェリクスは何事もなく笑っていた。その彼が突然倒れ、今度は「古い宮廷記録を調べていた」という話まで出てきた。自分も古い記録を追っているだけに、その言葉が気にならないわけではなかった。
けれど、今のところわかっているのはそれだけだ。
これ以上考えても仕方がないと思い、リディアが庭へ視線を向けたところで、背後から足音が近づいてきた。
「こんなところにいたのか。玄関に姿がなかったから、もう帰ったのかと思った」
振り返ると、レイフォードが回廊を歩いてくるところだった。
広間で招待客から話を聞いていたときとは違い、今は周囲に騎士もいない。緊張が途切れたせいか、普段より少し疲れて見えた。
「馬車を待っているんです。玄関はまだ人が多かったので、少しこちらに避難していました」
「そうか。セシリア嬢からも、お前がまだ残っていると聞いた」
レイフォードはリディアの隣まで来ると、庭へ目を向けた。すぐに戻るつもりなのかと思ったが、急ぐ様子はなく、欄干に軽く手を置いている。
「聞き取りは終わったんですか?」
「今夜できる分はな。先生が倒れる前に誰と話していたか、何を口にしたかまでは一通り確認した。あとは医師の見立てを待たないと動きようがない」
「では、古い記録を調べていたという話も?」
「何人かから同じ証言があった。ただ、今の段階では体調を崩したことと結びつける理由はない。明日になれば、今夜よりもっと話が増えているだろうが」
食堂や王宮の廊下で、噂がみるみる形を変えていったことを思い出し、リディアは苦笑した。
「もう十分なくらい増えている気がします。今夜も、少し離れていただけでいろいろ聞こえてきました」
「なら、しばらくは聞き流しておけ。必要なことはこちらで調べる」
いつもの淡々とした言い方だった。
それでも、最後のあたりでレイフォードが小さく息を吐いたことに、リディアは気づいた。左腕を動かしたときにも、ごくわずかに眉が寄っている。国境での怪我から戻ってまだそれほど経っていないのに、今夜は夜会の最中からずっと動き続けていた。
「隊長のほうこそ、大丈夫なんですか?」
レイフォードが怪訝そうにこちらを見る。
「今夜、ずっと休んでいませんよね。それに、その腕もまだ完全に治っているわけではないでしょう。帰ってきてからもお忙しそうですし」
「これくらいは仕事のうちだ」
「それ、私が残業しているときに言ったら怒る言葉ですよ」
思わず返すと、レイフォードは一瞬黙り、それから珍しく言葉に詰まったような顔をした。
「……それは、まあ、そうだな」
素直に認められるとは思わず、今度はリディアのほうが意外に思った。
レイフォードは欄干から手を離すと、庭の暗がりへ視線を向けたまま、肩の力を少し抜いた。広間ではどれだけ騒ぎが大きくなっても表情一つ変えずに指示を出していた人が、今はほんの少しだけ疲れを隠すのをやめている。
「国境にいたときは、忙しいほうが考えなくて済んだからな。戻ってからのほうが、妙に落ち着かない」
「王都のほうがですか?」
「ああ。こっちに戻れば、片づいていると思っていたことが何一つ片づいていなかった」
改ざん事件も、密輸事件も続いている。今夜はさらに、フェリクスまで倒れた。
そういう意味なのだろうとリディアは思った。
「でも、隊長が戻ってきてくださって助かっています。国境の資料も、今夜のことも、記録局だけでは調べられないことが多いので」
「……お前は、そういう意味で言うんだな」
思いがけない返事に、リディアは首を傾げた。
レイフォードはこちらを見たものの、何かを言おうとして、結局そのまま口を閉じた。
「どういう意味ですか?」
「いや。忘れろ」
「そう言われると、余計に気になるんですが」
「気にするな」
いつもの調子に戻そうとしているのはわかったが、さっきまでより少しだけ言葉が雑だった。
リディアが納得できないまま見ていると、レイフォードは観念したように息を吐いた。
「……今夜、あの騒ぎの中でお前の姿が見えなくなったとき、少し焦った。それだけだ」
リディアは何も返せなかった。
レイフォード自身も、口にしてから余計なことを言ったと思ったらしい。すぐに視線を逸らし、庭のほうを向いた。
「招待客の安全確認をしていたからな。記録局の人間まで何かあれば、面倒が増える」
「面倒、ですか」
「言い方が悪かった」
「かなり」
返すと、レイフォードの口元がわずかに緩んだ。
「無事なら、それでいい」
今度の声は、先ほどよりずっと静かだった。
その一言だけは、何か別の理由を付け加えることもなく、そのまま残った。
リディアはどう返せばいいのかわからず、庭へ視線を移した。少し前まで寒いと感じていた夜風が、今は頬にちょうどよかった。
しばらく二人とも話さずにいると、屋敷の中から使用人がこちらへ近づいてきた。
「ヴァンス様、お待たせいたしました。馬車の準備が整いました」
「ありがとうございます。今、向かいます」
リディアが立ち上がると、レイフォードも何事もなかったように姿勢を正した。先ほどまで欄干に寄りかかっていた人とは思えないほど、いつもの隙のない立ち姿に戻っている。
二人で玄関ホールまで戻る途中、別の騎士がレイフォードに声をかけた。
「隊長、最後の聞き取りですが――」
「すぐ行く。先に記録をまとめておいてくれ」
返事をする声も、もう普段のものだった。
リディアは馬車へ向かいながら一度だけ振り返ったが、レイフォードはすでに騎士と話しながら、広間のほうへ戻っていくところだった。




